ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

モラヴィアのワイン酒場 (2)

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photo by LEEROY

 承前。中高年は昔話ばかりするからきらわれるのだ──といわれても、書くねたに窮すれば致し方ない。だが、個人的には年寄りの話もさほど苦痛に感じないたちだから、聴くのを厭うひとの気持ちはよくわからない。内容にもよるか。いずれにせよ、物語の基本は思い出ばなしではないか。日記からしてそうだ。「今」と発話した瞬間、それはもう今ではなく、過去のことになっているわけだから、けっきょく程度の問題に帰する。

 とある酒場の噺である。

 そこは地元モラヴィアのワインをもっぱら扱っている店だった。屋号は件のヴィノテーカだったにも拘わらず、価格帯としてはモラヴィアだけに低廉で、そうかといって地元の感覚からすれば、格安というのでもなかった。絶妙な価格設定だった。見方によっては小洒落たインテリアで、立地もよいのに、安酒を好む賑やかな学生などはあまり来なかった。当時は、Hさんというのが経営しており、客層としては同年輩の、シニア層が多かったのだ。

 こうした、ややひなびた店に来る年寄りだから、けっして富裕層ではない。だが、教養がゆたかなひとが多かった。話が面白いのだ。この「学ある年配者」というのはしかし要注意で、それは、かつて共産党員の身内があったがゆえに高い水準の教育が受けられた、ということを暗示している。だから、多くの酒場で盛り上がる共産党を揶揄する話題は、ここでは御法度も同然であった。

 たとえば、Pという紳士がいた。かつて人類学を専攻し、研究のため北海道に滞在したこともあると話し、歴史、民俗、文化から形質人類学的なテーマに至るまで、話題は自由自在であった。いくら呑んでも酔わないていで、呂律も乱れることがなかった。

 このひとはヤポネツ(日本人)なんだ、ハワイを奇襲し、米領アリューシャンを占領までした、あの偉大なヤポネツだ──などという、個人と民族の歴史とを混同した輩は、つうじょうは唾棄すべき存在なのであるが、ここまであからさまに冗談だとわかれば、むしろ歓迎の辞であることもまた明白であって、ありがたく照れるしかない。とにかく弁舌さわやかで、立ち居振る舞いも洗練された、いわゆるロマンスグレーであった。いっぽう推察のとおり、反米的な軽口は聞かれても、共産党の悪口だけはやはり本人の口から出たことはなかった。

 しかし、客は共産系紳士にとどまらなかった。画廊がちかくに在ったから、作品を売りにくる年配の芸術家も出入りしていた。こういう向きにはむしろ、共産時代には海外に逃れていたというひともあった。

 なかでも彫刻家のŠ氏などは、P氏と対照的にも思えた人物であった。地元の訛りもあったが、なにより口がきたなかった。ナダーフキと呼ばれる、公共の媒体に流せぬ語句を多用した。ここは嘘つきばかりでどうしようもない国なんだと、ボヘミアを、モラヴィアを、かつてのチェコスロヴァキアを、すべてを扱き下ろした。おおよそ同居する娘夫婦以外のものはすべて、非難の対象になり得た。しょうじきな心情の吐露ではあったのだろうが、けだし部分的には裏返しの愛情表現も含まれていたのではあるまいか。密告を恐れた共産党員ならば、こういう表現をすることは決してないだろう。だが、べた褒め形式の礼賛は、心理学的に防衛機制の一種にこそあらめ、基本的には胡散臭いものなのだ。平壌市民への街かどインタヴューなどに典型であろう。──むろん、アフィリエイト目的のブログの記事だけは、お許しいただきたいが。

 P氏とは真逆のヴェクトルを有するような在野の知性だから、はてはご想像のとおり、たとえばヴァーツラフ・ハヴェルの後妻に関する品のない冗談にまで発言は及んだが、こちらにとってはおしなべてよい教材であった。かと思えば、母親がウィーンの出だそうで、自身もスイスに滞留した経験から、ノスタルジーが昂ずると、ときどきドイツ語で話しだしたりする。意表な一面もあったものだ。

 とりわけ盛り上がった話題は、世界のおおきなお友だちが総じて好む、火器や戦車や艦船や戦闘機であった。ズボロフの戦いにはじまり、真珠湾にミッドウェイ、チェッコ式機銃ことVz. 26を称賛すれば、ベネシュの嘲罵へつづくなどした。こちらが油断していると、レイテ湾の「謎の転進」について話題を振られたりして、戦史への造詣の深さに驚かされたりした。そのあたりはまた長くなるので省くが、ひょっとしたらいずれ書くだろう。

 とまれ、いろいろ面白い話をしてもらったら、こちらも多少は応酬せねばなるまい。たとえば、日本帝国の三八式歩兵銃というのは、死んだ祖父も満洲で馴染んだ一般的な小銃であった。これが、1905年型小銃というふうに呼ばれ、プラハ国立図書館にもマニュアルが収められているが、これはなぜか──と問えば、小火器の不足に悩まされた帝政ロシアが購入し、のちチェコスロヴァキア軍団にまとまった数を供与したためである。日本軍は出兵の口実こそ「軍団の救援」であったが、けっきょくシベリアでは、当の軍団と小競り合いを演じることになった。その双方が、じつは同じ型式の銃を撃ち合っていた、ということもじゅうぶん考えられるのだ。云々。──所詮は居酒屋談議。70代の友だちとの与太話。いずれも酔っ払いのたわい無い話だった。

 しかし、終わりというのは唐突にやってくる。

 あるとき、何か月かぶりに店を訪れた。すると、オーナーであったH氏が「おい、どこに行っていたんだ。──じつは店の権利を売ってしまったんだよ」と言うのである。少子化によって日本でも後継者不在の問題はさかんに取り上げられるようになったが、個人主義のつよい国々では、昔からのありふれた懸案ではあった。若い経営者に世代交代した店は、客層も入れ替わってしまい、若者でにぎわう反面、あの気の良い年寄り連の足は遠のいてしまった。以前とおなじ場所に足を運んでも、以前とおなじ人間に会うことは、もうないのだ。

 コロナ禍が終息してのち、世界じゅうにいったいどれだけの飲食店が生き残っているのかは、わからない。酒場の消失は地元の人間にとって、コミューニティの喪失を意味することもある。