ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

ポストコロナ・フューチャー?

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photo by Chang Su

 NHKのニュースに、イアン・ブレマーが出てきてインタヴューにこたえていた。いろいろの予言めいた著作で知られるが、コロナ禍終息後の世界については「3年後にEUが存続しているかどうかさえわからない」などと率直に述べた。

 未来について断言できる者はないのか。たとえば未来学といえば、1980年代以降アルヴィン・トフラーの著書で世に知られるようになった観がある。のちに振り返れば、おおよそトフラーの言ったとおりの「未来」になっていた。白眉は「デジタル革命」が「情報化社会」をもたらすという『第三の波』であった。いっぽう、過去のプロセスを観察する領域の代表格としておもいうかぶ歴史学とて、E・H・カーが「過去と未来の対話」と喝破したように、じつは過去のみに目を向けるものでもない。歴史を叙述する者にも、ある程度まで未来が見えている必要があるという。とはいえ……

 ところで米ソ冷戦が終結をみたころ、フランシス・フクヤマの『歴史の終わりと最後の人間』が一世を風靡した。──歴史とは認知をめぐる闘争であり、リベラル・デモクラシーが共産主義に勝利することで、ヘーゲル=コジェーヴ的な意味での歴史が終焉を迎える……といえるのではないか、というような問題提起の作であったが、「歴史が終わった」という部分ばかりが独り歩きして、センセイションを巻き起こした。

 それだから、これに対する反論も囂々で、そうした論文ばかりをあつめた論文集も出来した。忘れもしない。これを教材にした授業に、むかし出席していた。参加したわれら学生は、毎週の担当者を決められ、割り当てられた論文を和訳して、タイプして、人数分のコピーを作成して、配布しておかねばならなかった。担当の教師がまた大先生で、客員として教鞭を執られていたドイツ政治史の大御所であった。柔道家然たる強面とは裏腹に、穏やかな物言いではあった反面、そのじつ授業では容赦がなかった。

 当時は卒論すら原稿用紙に手書きしていた時代だったが、この時間のために、はじめて〈MS-Word〉を実戦投入することにした。現在のコモディティ化しきったPCとくらべれば格段に高価だったデスクトップの製品は、もともとintel製のCPUが載っていたもので、高速を謳われたAMD社のなんとかいうのに交換するなどしてだいじに使っていた。〈一太郎〉には慣れていたが、欧文とは相性がわるいと言われていた。というより、WindowsではXPの時代になるまで、複数の言語をひとつのファイルに混在させるのに〈Word〉がもっとも手っ取り早かったのではなかったか。だが当初は、お節介なイルカやオートコレクトなどの謎の挙動を繰り返す諸機能にさんざん悩まされた。「未来」から眺めれば、笑いばなしにすぎないが。

 それに、最初に割り振られたのが、忘れもしない「ポストモダンの魔術師」と呼ばれた、リチャード・ローティのものした論文だった。もっと平易そうなのがよかったのに。結果はよく覚えていないが、首尾よくいった条件も思いつかない。くわえて人数も少なかったから、ひと月も経てば、また順番がまわってきてしまうのであった。

 とまれ、あるとき思い返してみると、あの論文集に出てきた「未来予測」はほとんどが的中したような印象があった。中国の擡頭、インドの経済発展、それにともなう地球環境の危機……等々。恐ろしいほどであった。どんな領域であれ、過去についての研究を極めるにつけ、未来が予測できるようになってくるものらしい。

 ひるがえって、コロナ禍という近代に未曾有の惨事がおよぼす影響は、いまだはかりしれない。ほぼ第三次世界大戦を意味する米中激突を危惧する者もあれば、むしろ米国の凋落によって、中国の覇権が確立し、「日本のフィンランド化」は避けられない、との声もきかれる。

 しかし一方で、それもこれも、コロナ以前から言われていたことではないか、とも思った。たとえば、イアン・ブレマーが有馬キャスターに面と向かって説いた「グローバリズムの破綻」や「ポピュリズムのさらなる隆興」とて所詮、すでに数年前に自著のなかで警告していた命題のリフレインにすぎなかった。

 つまるところ、コロナ騒動によっても事態の進行方向は変わらず、速度が増すだけだ。

 これと同様の見解を表明していたのは、ミシェル・ウエルベックであった。小説『セロトニン』は、ジレ・ジョーヌ(黄巾の乱)を予見した書とも言われた。何年か前の『服従』では、2022年の選挙でフランスにイスラム政権が成立するという未来を提示したが、この「予言」もどうなることか。

 こちらは物好きだから、それ以前からぼちぼち読んではいたけれど、「あれは最高の小説家だ」などと評したチェコ人の飲み仲間には驚いた。かつての数学徒は自己啓発のようなものはよく読んでいる様子ではあったが、小説なんか読む趣味もあったとはね。当世フランス文学のアンファン・テリブルは、それほどまでに世界中で読まれているものらしい。

 だからというわけでもないが、チェコ語の報道からの重訳で失礼する。"Život všech nemá stejnou cenu"──命の価値はみな等しいわけではない、という主張は、とりわけ悪疫が猖獗を極めるフランスにあって、ウエルベック特有の辛辣さによるものとは言いきれまい。ふつうトリアージとは、病の重篤さの度合いによって患者のあいだに治療の優先順位をつけることをいうけれども、かの地では感染者の年齢によって、高齢の患者から治療を断念する、いわば逆トリアージュによる生命の選別がすでに常態化している、という暗示がある。

 コロナ以前にも、こうした潜在的な傾向はおちこちに囁かれていた。ベヴァリッジ型かビスマルク型かはともかく、公的な医療が普及した先進諸国において、医療費を削減することは自然な財政の要請であって、高齢化が顕著な日本だけの問題ではなかった。老いるということ自体が、死にゆくという意味であることも間違いないが。ともかく、かつては表明するのも憚られてきたことが、いまや人びとの日常に居座っている。──コロナ禍が終わっても元の生活に戻れない、などという者にたいして、いや、以前とおなじさ、ただちょっと悪いほうに変化しているだけだ、と嘯いてみせるのがウエルベックらしい。が、それだけだ。稀代の作家にとっては、予言とも言えない瑣末事も同然の感想であろう。

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セロトニン

セロトニン

 
服従 (河出文庫)

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第三の波 (中公文庫 M 178-3)

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

 
End of History and the Last Man (English Edition)

End of History and the Last Man (English Edition)

 

 

*参照:

www.nikkei.com

jp.reuters.com