ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ペスト柱

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オロモウツの「この上なく神聖なる三位一体の柱」(Wikimedia

 新型肺炎ともコロナウイルス感染症とも通称される疫病が猛威をふるっている。中国ではすでに百人を超える死者が出ているという。日本はおろか、先日ついにウィーンにも上陸したという報道があったが、きょう報じられたところでは、バイエルンでも「人から人への感染」が確認されたらしい。欧州も戦々恐々である。

 欧州の歴史で疫病といえば、黒死病、すなわちペストである。ボッカッチョの『デカメロン』をまず思い出すところで、難しいことはさておき、世間の非常事態を尻目に俗っぽい人間観が披瀝される談話が延々とつづくのが面白い。当時の主な治療法といえば、患者の身体に穴を穿って邪悪な血を抜くという瀉血であり、そんな水準の科学的知見のひとびとが、どうやら感染源は鼠であろうと推論できたことには驚くほかない。ただ、感染はじつは鼠についた蚤からではなかったとか、全体の1/4だったのではないかとか、直近の研究動向をつたえる記事もいまではウェブ上に読むことができる。

 今般のコロナウイルスについて、のちの欧州の研究者は、春節に地球規模の移動を行なった中国人が媒介したパンデミック──などと記述するのであろうか。蝙蝠をたべたことが発端だとか、いな竹鼠だ穴熊だとか、なんでも食用に供する中国人の食い意地が槍玉に挙がり、疫源地の推量も試みられているようだ。ワクチン開発のニュースも聞こえてくるが、音もなく忍び寄る見えざる敵との困難な闘いをおもえば、けっきょくは神の御業にゆだねるしかない。神頼みとなると、人間の本質というのはボッカッチョの昔からさほど変わっていないようにも思えてくるわけだ。

 かつてペスト禍が終熄したときには、ひとは神への感謝の念を最大限に顕わさんとしたものと見え、また聖俗の権力者たちはあたかも自らの徳でもって禍いを鎮めたかのごとく喧伝するため、各地に記念碑を建立せしめた。典型的には「ペスト柱」と総称される建造物である。ドイツ語でペストゾイレ、チェコ語でモロヴィー・スロウプなどと言うけれども、それぞれのモティーフに応じて、「聖母マリアの柱」とか「三位一体の柱」とか、土地によってじっさいの呼称はさまざまではある。

 広場など、開けた地に立った柱状の装飾というのは唐突で不思議な印象も受けるが、アペニン半島名物の大地震で地下の礼拝施設が破壊された際、ヴォールトを支えるための支柱のみが廃墟に残ったことに端を発していると考えられている。キリスト教信仰の影響下、聖母マリアの似姿が掲げられた石柱はふるく10世紀にまで遡るらしく、とりわけ17, 18世紀以降はヨーロッパ各地にさかんに建てられた。その派生として一時期、三位一体の主題を有する柱が生じ、ほぼハプスブルク君主国の領域に集中して分布することになった。これらがペスト柱にとっても実質、二大モティーフとなっている。

 観光の観点からもっとも知られているのは、帝都ウィーンのグラーベンに立つものであろう。主題は三位一体である。レオポルト1世の治下、1693年に完成した。王宮からコールマルクトの通りを歩くとつきあたるのが、かつて在った「堀」を意味するグラーベン通りで、立地のよさからも観光客や関係者には撮影スポットとしても重宝されてきた。老婆のすがたで擬人化されたペストを、あどけないクピードーが足蹴にして、頭から逆さまに突き落としている造形がとくにおもしろい。

 そこから150キロ以上も北方に目を転ずると、1754年に竣工したオロモウツの《聖三位一体の柱》が在る。三位一体の主題とともに、聖母被昇天も描写されているから、テーマ全部盛りの観がある。ここに至って、バロック建築としてのペスト柱はひとつの完成を見た。

 列車などを利用した場合、ウィーンからは最短2時間以上もかかってしまうものの、高さ35メートルというサイズの大きさと、地域固有の意匠と様式美、そしてユネスコ世界遺産に登録されたブランドと話題性とを考慮すると、一見の価値がある。オロモウツは、ドイツ語でオルミュッツといえば歴史好きには覚えがある向きも多いはずで、文化財に恵まれたバロックの小都市である。それも大司教座がおかれた町の歴史的地位をおもえば然もありなん、時代によっては土地台帳が安置された事実によって、世俗政治的にもモラヴィアの首都とされていたこともある。

 そのモラヴィアでは、1714年から1716年にかけてペストが猖獗をきわめたことから、のちペスト記念柱の建設がラッシュを迎えることとなった。ウィーンとオロモウツの間の地域にかぎっても、二都市と同様の碑柱は散在しており、個人的に行って観たところだけでも、ブルノ、ヴィシュコフ、ウヘルスケー・フラヂシュティェ、テルチ……と、枚挙にいとまがない。

 さて、コロナウイルスの蔓延が鎮静化する日は来るのか。そのとき、人類は思いおもい神に感謝するはずであるが、石碑などが世界各地に建立されるほどの事態にまで至らぬことを祈るのみである。

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デカメロン(上) (ちくま文庫)

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*参考:

www.afpbb.com

natgeo.nikkeibp.co.jp

wired.jp

www.afpbb.com

1000ya.isis.ne.jp