ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

オッカムの剃刀 と"částice"

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photo by Thomas Breher

 先ごろ、英独の研究者らが、複数の原子が結合して分子になる様子を撮影することに成功した旨の報道があった。カーボンナノチューブに閉じ込めて運動を抑制した金属原子を、透過型電子顕微鏡という特殊な顕微鏡を用いることで、18秒にわたる動きを捕らえたのだという(参:原子が「結合・分離・再結合」する様子が初めて映像で捉えられる - GIGAZINE)。

 文系の人間には、わーすごいというほかに言葉はない。だが、この報道をエルンスト・マッハなどが知ったら、どのような反駁をくりだすのか、おもわず空想してしまった。つい最近まで、原子論に懐疑的な科学者も多かった。

 ちなみにマッハは1838年モラヴィアヒルリッツの生まれ。ヒルリッツは、フルリツェとして1971年にブルノ市に編入されている。町にとって随一の偉人であるから、中心部には東西に数百メートルほどながら、その名を冠した「エルンスト・マッハ通り」もちゃんとある。また、『特性のない男』で文学史上に名を成すローベルト・ムーズィルもブルノの親許に暮らしたが、のちにベルリンの大学において哲学を研究した際、博士論文のテーマとしたのがほかならぬマッハ学説についてであった。

 さて、マッハが説明に原子や分子などという概念をもちだすことに異を唱えた根拠として「オッカムの剃刀」の原則があって、これがちょうど「ニコニコ大百科」に簡便にまとめられている(参:オッカムの剃刀とは [単語記事] - ニコニコ大百科)。要は、ある事柄を説明するのに必要以上の命題を措定してはならんということで、哲学史の啓蒙書などを読みかえすかぎり、マッハはその「オッカムの剃刀」の権化のような存在であった。

 ここで何が問題なのかというと、かつてチェコ語文法を学習していた際に遭遇した疑問というのがあって、じつはそれを思い出したのだ。

 契機となったのは、当時ブルノで工学部に在籍していた男であった(ムーズィルも学んだドイツ系の工科は、さすがにもう建物を除いて存在しなかった)。その名を仮にホンザ某としておくが、日本語を主に独学で学び始め、それに前後して自身の母語に関する疑問にぶつかった。ひと昔もふた昔も前のあるとき、そのホンザが、チェコ語文法を学び始めたこの日本人に向かって「チャースチツェって知ってるか」と訊いてきたのである。

 つまり、částiceという品詞である。「不変化詞」とか「小辞」とも訳されるが、機能的観点からは、何とも訳しようがない。Wikipediaなどにあるような概説的な説明では、印欧語にひろく共通しうる、一般的でひじょうにざっくりした叙述になっているから、一読してわかったような気分にさせてもらえるが、じっさいチェコ語と日本語の一対一のせめぎ合いのなかに身を置くと、もはやこうした説明など無意味であった。

 具体的には、チェコ語の語彙のうち、prý, snad, kéž, ať, asi, možná, skoro, málem, jen, přece...といったものがこれに分類される。たしかにこうした語は、たとえばkrásně(美しく)という副詞が、krásněji(比較級)、 nejkrásněji(最上級)と変化するようには、変化しない。「不変化」といえば「不変化」である。だがそれだけである。文における役割でいえば副詞に相当するのだから、副詞に分類しておればそれで誰も困らないわけで、「オッカムの剃刀」の原則からすれば、částiceという語の範疇を別にわざわざ設けたこと自体、不当な所業といえる。

 じっさいチェコ語学の教授であるマリイェ某なども「旧くは副詞ないし感嘆詞に分類されていた」と書いているように、副詞で間に合っていたのだ。だったらそれでいいじゃないかと。どうして余計にカテゴリーを新設したのか。ほかに、částiceは「情感」や「程度」を表現しうる、などとも文法書に説明されるが、それらは副詞の基本的な機能なのだから、「オッカム」に照らして必要充分な理由たりえない。つまり説明になっていない。

 さらに、日本語文法をチェコ語で説明する際に、日本語の「助詞」の訳語同然にčásticeを用いる向きもあるから、いっそう混乱が深まるのだ。というのも、言語学プロパーにちかいほうの研究者はčásticeと言う代わりに、partikuleという術語を使いたがるが、これは英語でparticleと訳され得、そのparticleとは、日本語文法を英語で説明する際、postpositionなどと同様に、名詞に後置される助詞の類を指すのに用いられているためである。とまれ、すべてに共通する点は「不変化詞」と見做されるということ以外にはないようであるが、不変化だからといって、それだけで独立した品詞としてしまうのは、皮肉にも「オッカムの剃刀」を誰かが曲解したとしか思えない。

 文法の規範性に関する問題は、このさい棚に上げておく。橋本進吉にはじまる国語文法を批判する論者の多くが触れるところは、文法と称しながら、ノンネイティヴ・スピーカーが日本語で文をつくる際に役に立たないという点であり、このčásticeを中心とするチェコ語文法も似たような観点で批判することは可能であろう。いや、くだんのホンザからしてからが、チェコ語ネイティヴ・スピーカーとして、おかしい、理解できない、意味なし、částiceって何なんだよう──と疑念と憤懣を吐露していたほどなのである。学問のための学問にだってむろん存在意義はあるが、こと文法に関しては、説明がつくからといって、誰の役にも立たない代物を創り出すべきではない。

 ──と、学校で習った文法が納得しかねるというホンザを代弁してみたわけだが、マッハの主張のように誤りが判明する日もあるだろう……。ただ、たとえば英文法の記述にあらわれるparticleに関しては、副詞的小辞などといって、副詞と区別して考える派閥のやり方にも一定の意味があると理解できる。といっても英文法に関しても諸説・諸派があって、こうした認識の違いは、源流を遡ってゆくと中世スコラ哲学の普遍論争における実在論唯名論の対立にまで至ってしまうから、となると所詮オッカム先生の掌の上でうろちょろしていただけであり、ともかくこれ以上の無謀な追撃はやめておこう。

 ここからはミステリの犯人探しにも似た、下種の勘繰りの段となる。問題は、インド=ヨーロッパ語族の諸言語では古典古代から用いられてきたものの、チェコ語においては新たに導入された品詞、という点である。けだし国民語創出にあたって、なかんづくドイツ語に引けをとらないようにという誰かの入れ知恵から、後出しじゃんけん的に措定されたものだったのではないか。ユングマン、ドブロフスキーあたりがとりわけ疑わしいとしても、どこに出しても恥ずかしくない印欧語として近代チェコ語を創り出さねばならない、という邪な犯行動機は、「ヘスキ・チェスキ」やら「ナ・ズダル」やらを符牒とした19世紀の不逞な活動家のすべてにみなぎっていたにちがいない。要するに、částiceとは、悪名高き『ゼレナー・ホラ手稿』同様の、暴走せるナショナリズムの産物であったのではあるまいか。となると、ますます橋本文法に通ずるものが……などと考えてみると、陰謀論めいてきて、安っぽい通俗小説みたいでおもしろい。

 

*参考:

gigazine.net

news.nicovideo.jp