ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ヴァーツラフ・ハヴェル小路

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 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』が、NHKの『100分de名著』に取り上げられ、第一回目が2020年2月3日に放送された。視聴率もなかなかよかったという噂で、意外にも日本人のハヴェルにたいする関心は高いものとみえる。2011年12月に逝去した直前には、「金正日死す」のニュースが伝わって大騒ぎであったから、日本でちゃんと報じられたのかどうか、よくわからない。あの年は、それどころでなかったという向きも多そうだ。

 全体主義批判のエッセイもさることながら、個人的にはハヴェルといえば、なんといっても『ガーデン・パーティ』であった。せりふを読み込んでは、くり返し観にいったものだが、これも長くなりそうなので、またの機会にゆずりたい。

 観劇に通った先は、フサ・ナ・プロヴァースク劇場である。チェコ共和国はブルノの「キャベツ市場」の上部にたつ。劇場・劇団の名はイジー・マヘンの著作に由来し、「リードで繋がれたガチョウ」を意味する。グスターウ・フサークが共産党第一書記に就任した1969年4月以降は、劇場の名称は「繋がれた劇場」になった。というのも、フサ(ガチョウ)がフサークを暗示すると検閲当局に目をつけられた由で、その一語だけ削除された。のちガチョウが名称に舞い戻ったのはビロード革命後の1990年代のことであった。今でも屋根のうえには、大鎧をまとったブロンズの武士に随伴するように一羽のガチョウも見えるが、首輪などは嵌められていないようだ。

 さて、2013年のこと、この劇場の脇からペトロフ教会へ伸びる路地に、ハヴェルの名が与えられることになった。住民も皆無のほそい通路であって、名前など問う者すらなかった。ところが、この小径はかつてハヴェルがこよなく愛し、素敵な場所だなどと言って、よく煙草など吹かしていたという。擁壁沿いの裏通りにすぎないが、見方によってはその壁から突き出たランターンなどがプラハの面影を感じさせなくもない。

 命名はもともと、同劇場の芸術監督であったヴラヂミール・モラーヴェクが提案していた。たほうで、この隘路がモラヴィア領邦博物館の裏手にあたることから、同博物館の設立に助力したクリスティアン・カール・アンドレの名も候補に挙がっており、さらに地元出身の植物生理学者のヤン・ツァラーベクや、俳優で怪力による大道芸でも人気を博したフランタ・コツォウレクを推す声もあった。

 とはいえ、われわれ外人からすると、知名度からいってもハヴェル以外にはあり得まい。けれども、酒場などで忌憚なき意見を拝聴すれば、あんがいハヴェルには「アンチ」も多いことに気づく。NHKだけ見ていると、まるでハヴェルが神のように崇拝されているように思えてしまうかもしらんが、無神論者の烏合であることを旨とするチェコの市井のひとびとは、盲目的な尊崇を一身にあつめるような人物にもさることながら、まさに全体主義的な状況そのものに嫌悪感をおぼえるらしい。むろん、地方特有のプラハびとへのひがみもあるだろう。

 地元の役所は、アンケート調査という名目の住民投票を実施した。初回のオンライン調査では、ハヴェルの名を冠した命名に多数が反対したため、実現は水泡に帰したかのように思われた。だが、かつての大統領支持者らが、当該調査が不正に操作された疑いがある旨、猛反発したこともあって、調査票に記入する方式で再度の調査が行なわれた。すると、こんどは逆に、命名に賛成する票数が上回る結果となった。いかんせん物理的に役場に出向かねばならないため、それだけの時間を惜しまず、足労や手間を厭わない熱烈な支持者に吉と出たのではなかろうか。紙は偉大であった。

 かくして、その死から2年が経過しようとしていた2013年12月10日、ヴァーツラフ・ハヴェルの小路(Ulička Václava Havla)が成立した。命名のワーキング・グループとしては、記述に際して「ulička」から、それも大文字で書き起こすことを推奨しているが、報道記事の引く資料がこの気負いの背景を補足説明している。すなわち「チェコ語の現行規範によれば、uliceないしuličkaという語は、通りの名称の一部としてはめったにあらわれることがなく、〈ヴァーツラフ・ハヴェルの小路〉は特異な例であるが、それはこのブルノでもっともちいさな通りのひとつが、20世紀から21世紀にかけてのもっとも名高いチェコ人のひとりに因んだ名称を有するということによる。したがって〈ヴァーツラフ・ハヴェルの小路〉なる名称とは、たんなる街路の呼称を超越したシンボルである」。

 なお「ulička」とは、「通り」を意味する「ulice」の指小辞がついた語にあたる。ハヴェル神格化の一環とすれば『力なき者……』の趣旨からするとどうなのかとも思うけれど、あれだけ目立たない小逕ならば、故人も笑ってゆるしてくれそうな気もする。日常において、名を呼ばれる機会などなさげな狭隘な通りである。

 だが、そこで終わらぬのが神もイデオロギーもなきこの世の不条理で、のちたびたびスプレー缶などによる落書きの被害に遭っているのだ。といっても、プラハのカンパにいつぞや見られたような洒落たグラフィティーではなく、うち数回までは後継の大統領、ヴァーツラフ・クラウスの名を騙るものであった。クラウスの支持者か、はたまたクラウスを貶める意図なのかはわからない。また、いまだ命名に納得せざる者もあるとみえ、案内標識が盗難に遭ったこともある。いずれにせよ、これをもって逆説的に、強大な全体主義が亡びたことを思うのだった。

力なき者たちの力

力なき者たちの力

 

ヴァーツラフ・ハヴェル小路(ブルノ):

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photo by urashima-e

 

 *参考:

www.idnes.cz

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