ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコ最古の醸造所?

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photo by urashima-e

 チェコ語にいう「klub」とは、便宜上「クラブ」と訳してしまうが、それで語感まで伝わるとはいいがたい。強いていえば、結社の自由というときの結社であり、ジャコバン・クラブとか、会員制社交クラブというときのクラブでもあって、一種独特の親密さの雰囲気をもまとっている。「クラブ」と聞くと、日本人としては学校のクラブ活動を思い浮かべてしまう一方、むかし『お達者倶楽部』というNHKの番組があったと言っても、お達者な老人ばかりになってしまった今では、もはや想起する者も多くはあるまい。これを要するに、単純な語彙ほど翻訳は容易ではない。

 さて、プラハのフロレンツといえば、交通の要衝たるバス・ターミナルを擁する地区で、地方の景勝地まで足を伸ばす旅人にはおなじみであろう。氷点下1度となった、ある年の瀬に訪れた「クラブ」はそこにある。「ピヴォヴァルスキー・クルプ」とは、直訳すると「ビール醸造所のクラブ」ということになるも、その意を酌めば「小規模醸造所によるビールを扱うサロン」というくらいの意味であって、じつのところ、同種のクラフトビールの店としてはありふれた印象のバーである。

 2005年の開店というから、クラフトビールをもっぱら出す業態にかぎれば、プラハでは老舗の部類といえるかもしれない。しかし老舗といってしまうと、プラハでは新奇性は皆無である。1375年から毎日営業しているというマラー・ストラナの某所もその一であるが、最古の酒場を称する店には、騙されやすい旅行者ならいくらでもでくわすのではあるまいか。

 ところが、文献的な裏付けがある、といわれると、さすがにちょっと信用してもよい。しかも相手は修道院醸造所である。

 ブジェヴノフ修道院じたいは、敬虔公ボレスラフ2世の治世にプラハ司教アーダルベルトによって開闢されたというから、由緒は正しい。附設された醸造施設については、公式サイトによると「文書記録に残るかぎりボヘミアで最古の醸造所」とされる。開設の日づけが993年まで遡るという事実は、13世紀なかばに没した教皇インノケンティウス4世の文書によって間接的に証明しうる旨、書かれている。

 フス戦争やオーストリア継承戦争といった戦災による破壊ののちには、かならず修復、復興されてきたものの、皮肉にも市場原理がこの醸造所に止めを刺すことになった。とまれ、産業化による競争激化という要素もむろんあろうが、1889年にこれが閉鎖された主たる理由とは、貯蔵施設の能力が不足していた由であった。それでも生きてさえいればそれだけでよいものを、けっきょくは神をも畏れぬコミュニストによって道路拡張という口実のもと、1953年のこと、ついに建物そのものも取り壊されてしまった。嗚呼……。

 ところで、「アルトビーア」といえば、古の醸造形態を暗示する上面発酵の製品および、そのビアスタイルを意味することは周知のとおりである。19世紀になると、たとえばピルゼンに元祖ピルスナーが生じたように、下面発酵によるラーガー、いわゆる「ラガービール」がもてはやされ、市場では一躍にして主流となった。しかれども、これを醸すには「アルト」とは異なり、低温による長期熟成が必須となる。日本酒でいう「寒造り」にちかいが、その貯蔵に必要なセラーの容積が不足していた──ということを上記は指しているものと思われる。

 されど、捨てる神も市場ならば、拾う神も市場であって、つまるところ近年の小規模醸造所のブームが、伝説の醸造所を墓穴から引きずり出すこととなった。はたして2011年、修道院内のかつて厩舎であったところに醸造所が復興され、現在に至る。

 したがって、いま現在の製品と史上最古の醸造所とに直接のつながりはまったくない。設備だけでなく、醸造のレシピもあたらしいものだ。けれども、余所のブルワリーの酒とくらぶれば、ありがたみがちがう。というのも、資本主義市場とはひっきょう、商品のストーリーを売り買いする場であって、そこには言わずもがな、神の見えざる手が働いているからである。やはり、神は偉大であった。

 

 

*ブジェヴノフ修道院醸造所の復興のようす:

www.brevnovskypivovar.cz

 

*ピヴォヴァルスキー・クルプ【公式】

(但、日によってビールのラインナップは異なる):

www.pivovarskyklub.com