ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

悪疫の名前

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photo by Hans Braxmeier

 『薔薇の名前』といえば、記号論の研究者であったウンベルト・エーコの小説で、1980年代の映画もたいへんな名作であった。近年ではTVシリーズ版も制作されている。むかし中世史担当の教員が副教材に採り入れていたのも、然もありなん。舞台となっている修道院の描写がまた秀逸で、ヨーロッパ観光で史跡をめぐる向きなどにも必見の作品といえる。ショーン・コネリー演ずるバスカヴィルのウィリアムのモデルとなったのは、かのウィリアム・オヴ・オッカムといわれており、中世の普遍論争をも下敷きにした高度なミステリーの要素は教養のある層、つまり読書家諸兄の鑑賞にも耐え得る。いっぽう『村の名前』とは、「第三のムラカミ」こと辻原登芥川賞受賞作で、こちらも個人的には思い入れがつよい中篇小説。さらに、名前はまだない、とかつて宣った猫などもよく知られている……

 さて、連日の報道にも拘わらず、正式な名称がなかったことにも驚いた。コロナウイルスによって惹き起こされる病の件である。「COVID-19」と、2月11日にようやくWHOによって命名が成った。

 すでに「コロナ」にちなんで、メキシコが誇る世界的ブランドのビールを揶揄するようなコラージュ画像もウェブ上には出回っていた。遅ればせながらも、正式名称を確定することにも一定の意味があるのだろう。他方で、新名称が自社の名前と被ってしまい、損害を懸念する経営者もあるようだ。

 いったい誰がどうやって命名したのか──とは、素樸にもいつも疑問に思うところである。というのも、翻訳作業でつねに難問が噴出するのは、動物相や植物相の相違にも拘わらず、訳語を決めねばならぬ場合なのであった。つまり、地球上の地域によって棲息する動植物が異なるから、一方の言語にある名詞が他方になかったり、あるいは一般的でなかったりする。あまり知られていないラテン語の学名で押し通すのも、たいていうまくいかない。意味が通じてなおかつ文章におさまるように創意工夫が必要となるわけだが、誰によるものともわからぬ命名のセンスのなさには辟易することもあった。

 たとえば、チェコスロヴァキアで事実上の国樹とされた「lípa」と呼ばれる木がある。種としては、シナノキ属のうちでも比較的樹高が低く、葉がきれいなハート形になる「フユボダイジュ」だといわれている。現在のチェコ共和国の官憲の制服や文書の類にも、図案化された枝葉の文様がみられる。春をすぎると芽吹いてくるが、近年は暖冬傾向とはいえ、さすがに今の時期にはまだ早いだろう。つまり「フユ」といっても、特徴的な葉は冬季にはすっかり散ってしまっていて見ることはできない。

 いっぽうで、鷗外森林太郎の『舞姫』にも出てくる通りの名「ウンター・デン・リンデン」や、フランツ・シューベルトによる連作歌曲集『冬の旅』のなかの曲名にもある、要はドイツ人のいうところの「リンデンバウム」とは、より大型の「ナツボダイジュ」を指すという(セイヨウシナノキを指すという説もある)。「冬」なのに「ナツ」とは、これ如何に。

 冬とか夏とかいうのは、ドイツ語の名称にある「Winter-」や「Sommer-」が直訳されたからにほかならない。それを、慣例に甘え、十把一絡げに「菩提樹」と訳してしまったのでは、そもそも植物としては別の種でもあるし、なによりガウタマ・ブッダの天竺や仏教説話のイメージがつきまとうから、上手くない。現代の翻訳としては下の下といえる。かといって「セイヨウシナノキ」とやったら、欧州なのにシナノキでは、駄洒落にしかならぬではないか。それに、セイヨウワサビ、セイヨウガラシ、セイヨウタンポポ、セイヨウスグリ、セイヨウスモモ、セイヨウハシバミ、セイヨウトチノキ、セイヨウヤブイチゴ……訳文をどんなに工夫しても、ページ全体が「セイヨウなんとか」で埋まってしまった日には誰でもげんなりする。下手人はひょっとすると明治の偉人かもしらんが、そもそも日本列島に見られる種の名称にセイヨウやらタイセイヨウやらオランダを冠しただけで、近縁種の名称をでっち上げようという安直な料簡が気に食わない。まるで世界に遍くカウンターパートが実在するとでも言いたげだ。というと、なにやら文系・理系間の普遍論争めいてくるが……

 文系と理系といえば、すこしく驚いたのは、唎酒師の勉強をしたときに知った「乳酸菌」の名称の由来である。どうやら分類学とは関係なく、乳酸をおおく生成する菌を総称してそう呼んでいるというから、なんとも文系的な発想と思えなくもない。──命名について納得いかぬ事象を挙げれば、きりがない。

 翻訳者の頭を悩ませているだけならまだよい。だが命名とは厄介なもので、言語学的な対立のみならず、社会的な対立を生んだりもする。ようやく決着をみたと伝わった北マケドニアの国号をめぐる一件や、JR山手線の新駅の名称が話題になったことも記憶に新しいが、先日お伝えした「ハヴェル小路」なども好例であった。つまり命名には、つねに利害関係がつきまとう。大型施設の命名権の売買がさかんにおこなわれている現代の資本主義社会では、なおさら顕著になっている。

 共産中国の利害に格別の配慮がみえるWHOが、いかように当該名称に辿り着いたのか──興味深いところであるが、『WIRED』誌の記事を除いては、さほど突っ込んだ報道もみられないことから、勝手な憶測を呼ぶこともまた必至であろう。

 

*参考文献など:

薔薇の名前(字幕版)

薔薇の名前(字幕版)

  • 発売日: 2015/03/15
  • メディア: Prime Video
薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

村の名前 (文春文庫)

村の名前 (文春文庫)

シューベルト:冬の旅

シューベルト:冬の旅

  • 発売日: 2005/07/01
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

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*追記:

www.afpbb.com

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