ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

KOH-I-NOORの鉛筆とヴェルサティルカ

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"Versatilky", KOH-I-NOOR

 共産主義とは名ばかりの中国に尻尾を振っていた欧州企業も、このところの米中経済戦争激化のあおりもあって、かの地の景気が減衰するなか、戦略の見直しをせまられている。なかでもオーストリア航空が、中国路線に機材を振り向けるために一度は廃止したウィーン=成田線を、昨年ふたたび開設したのは、悦ばしいことではあった。

 親共産の風の残るチェコ共和国の企業とて、いまや例外ではない。

 KOH-I-NOOR(コヒノール)といえば、文具ファンで知らない者はない老舗であるが、同社も近年、中国の景気悪化と賃金上昇のため、クレヨンの生産を国内に戻すことを決定した。

 1790年ごろ、宮廷建築家ヨーゼフ・ハルトムートが、帝都ウィーンにて創業したと伝わる。家業は息子のカール、孫のフランツの代で、世界有数の文具メイカーに成長した。革命の年、1848年から稼働をはじめたというチェスケー・ブディョヴィツェの主力工場をはじめ、ボヘミア各地と一部ブルガリアの工場で、現在はおよそ3500種の製品が生産されている。

 筆記具、とりわけ鉛筆製造の分野では、偉大な足跡を残している。黒鉛と粘土をもちいた芯の製造では、すでに1802年に特許を取得しているし、芯の硬度によって製品を8Bから10Hまで分類しはじめたのもKOH-I-NOORだった(と同社は主張している)。これにはほどなく他社も追随し、いまではグローバルスタンダード化した。1855年のニューヨーク万国博覧会を皮切りに万博における受賞の記録がはじまり、とりわけ1889年のパリ万博で同社の鉛筆が好評を博したことによって、鉛筆といえば、六角形の断面を有するヒマラヤスギ材の軸が黄色に塗られているもの──というイメージが普及したという(個人的には「黄土色」と呼びたい色ではあるが)。さらに1900年のパリ万博で、同社の製品「1500」なる鉛筆がグランプリを受賞するにおよんで、この黄色い六角形の断面という意匠が、最高品質の鉛筆を暗示するようになっていった。いまや「鉛筆とは黄色いものだ✏️」という向きも少なくない。

 ……といっても、現代において文具先進国・日本のユーザーからみれば、大したことはない。まったくの主観的な感想になるが、三菱ユニやトンボといった鉛筆のほうが、まちがいなく高品質である。すでに鉛筆事業から撤退して久しいぺんてる社のブラック・ポリマー999やマークシート専用の鉛筆なども、記憶に残る書き味であった。──しかしながら、歴史を誇る黄土色の鉛筆も、言い知れぬ魅力をもったアイテムであることもまた、否定できない。

 以前「コクヨぺんてる」をめぐる記事でもすこし触れた、ヴェルサティルカ(versatilka)も、KOH-I-NOORを代表する製品といってよい。鉛筆の芯の先をすこしづつ露出させて使用する「芯ホルダー」というような形式のメカニカル・ペンシルである。

 プロトタイプが遡ること1937年に存在したというのも、話半分にきいておいてかまわない。いずれにせよ、ドイツのステッドラー社もこの種の製品を生産していたというから、すでに市場はあったわけだ。第二次大戦後、国営化されたKOH-I-NOOR社もそこへ参入したにすぎない。共産圏は「ブルーオーシャン」だったことだろう。

 たとえば「5201」というモデルでは、同社が誇る鉛筆を想わせる黄土色の樹脂で軸が成形されている。いっぽう鉛筆とは異なる、ややずっしりとした適度な重量感が、書き心地に寄与している。落としてしまうと破損するようなシャープペンなどとくらべると、かなり堅牢である。まず壊れる心配はない。

 刻印されているのは「Versatil」と読める金色のロゴで、正式名称ともいえるが、ここからチェコ語の口語表現における「ヴェルサティルカ(versatilka)」なる通称・愛称が生じた。語源は形容詞の「versatilní」といわれる。可変の、変わる、適応できる、といった意味合いがある。フランス語のクレヨンに由来する「クラヨーン」という呼称が用いられる地方も存在すると、Wikipediaには説明されているが、じっさいに聞いたことはない。

 軸の頭頂を親指で押してやると、内側のパイプ状の金属軸が押し出される。同時に芯をがっちりホールドしていたそのパイプの前端部分が広がり、黒鉛の芯がリリースされるから、露出する長さを調節してやる。指で押下するパーツは、取り外すと芯を削る刃が付いているので、それを芯の先端に垂直にかぶせるようにすると、腕時計の竜頭を巻くときの動作でもって、芯を尖らせることができる。

 いまはペイパーレス時代じゃないか、とおっしゃるなかれ──かつては輸出先が共産圏内に限定されていたため、むしろ現在のほうが生産数が増しているそうだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Koh-i-noor_1.1.jpg

 

*参考: 

www.youtube.com

www.idnes.cz

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