ウラシマ・エフェクト

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皇帝のいない日本?

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 まいとし9月28日は、チェコ共和国の祝日である。935年に、ボヘミアおよびモラヴィア守護聖人たる聖ヴァーツラフが殺害された日付けが、ひとつの根拠とされている。なにはともあれ、近代国民国家には神話が必要である。

 学生時代を思い出すと、中世史についての演習形式の授業で史料を読んで訳す作業があった。そこで、十世紀、つまり「九百何年」の頃の記述になると、自動的に頭の中で「千」を補完してしまう変な癖に悩まされた。たとえば「935年」という年号が文面に現れると、訳文を読む際には「1935年」というふうに、ついつい書かれていない1000の位を口にしてしまう。「せんきゅうひゃく……あっ、きゅうひゃく……」と、そのたびに訂正するのだが、その後を読み進めていっても完治せず、繰り返してしまった。想起すべきは、ローレンツの「刷り込み」なのか、パーヴロフの「条件反射」なのか。「900」ではなくて、「1900」が、言語中枢におけるデフォルトに設定されているかのようだった。ともかく、2000年以降に生まれたひとには理解できない奇癖であろう。

 おなじ国に生まれても、世代によって、思い込みや価値観はおおきく異なる。歴史観、国家観も同様である。

 ところでむかしは「日本にはエンペラーがいていいなあ」という外国のひとにも、なんだか賛同しかねていた。日教組的な教育の隠然たる影響もあったのかもしれないが、リベラル・デモクラシーをつきつめれば、大統領制こそ自然な形態だと単純に考えていた時期もあったのだろう。

 感じ方が変わったのは、海外に長くいたことによる、いわば遠隔地ナショナリズムの一種からなのかもしれない。しかし、この平成の30余年、先帝の被災地慰問や戦地での慰霊のための行幸などが報道されるうちに、おそらく日本人の多くがそうした変化をみたのではなかろうか。1990年代までは、しばしばロケットだか迫撃弾だかが、「何者か」によって皇居に撃ち込まれ、よく新聞沙汰になっていた印象があるが、いまではそんな報道はまったく耳にしない。

 即位礼正殿の儀で皇室に耳目があつまった折り、自由民主党のあるグループが、安定的な皇位継承のための提言をまとめ、発表した(自民党「日本の尊厳と国益を護る会」代表幹事・青山繁晴議員が提言発表)。ここでは、男系か女系かという議論があって、それとはまた別の次元で女性天皇の問題があることも整理されている。

 動画をみるかぎり常識的な内容だが、会見の終盤に女性天皇についてふれるあたりで、人権についての現代的な価値観が皇統の継続と衝突する可能性が、はからずも示されている。十数年ほど前に当時の厚生労働大臣が、いわゆる「女性は産む機械」発言をして物議を醸したことがあったが、女性の人権がからむとなると、議論が政治家らに避けられる傾向も長らくあったのかもしれない。

 昨今の報道機関による世論調査をみると、各社で数字にこそ小差はあるものの、「女性天皇女系天皇を容認すべきか」という問いには、賛成する意見が多数派を成している。

 これに対して青山繁晴議員は、戦後世代は天皇に関して満足な学校教育を受けていないと語っている。たしかに、たとえば産経新聞の記事などでも、女系天皇女性天皇の差異がわかっていないなど、一般有権者の理解の低さが指摘されてはいる。けれども、仮に今からじゅうぶんな教育や情報を得たところで、数字はおおきく変わらないのではないか。いまの現役世代は、新憲法下の男女同権の価値観のなかで生まれ育ってきて、また「コスパ」を極端に重視する現代社会のなかで揉まれている。

 御厨貴氏がNHKの取材に応えている記事にも、それは暗示されている。「将来像」を議論すべき、というくだりがそれである。天皇について教育すべきとはいっても、それは過去についての説明が重きをなすはずであるが、そこから、将来の日本に天皇制はなじまない、というような結論が導き出されることもあり得るわけだ。こればかりは、将来世代がどう考えるかを注視するしかない。

 個人的には、天皇のいない日本など想像できない。だが、男系でない天皇というのもまた想像できない。島田裕巳氏が喝破したように、そろそろ天皇制が無くなった日本を考えなければならないときなのかもしれない。

 

*参考:

www.youtube.com

www3.nhk.or.jp

gendai.ismedia.jp

www.sankei.com

www.youtube.com

皇帝のいない八月

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