ミッドウェイを抱きしめて
もうすぐ記念日だからというわけではないけれど、ようやく最近になって、ローランド・エメリヒの映画『ミッドウェイ』(2019)を観た。監督がシュトゥットガルトの出身だからか、ドイツ語圏のメディアにも一時期、さかんにインタヴューがでていたが、もうだいぶ月日が経ってしまった。
1)『パール・ハーバー』とは違う?
悪名たかい『パール・ハーバー』(マイケル・ベイ監督、2001)も、公開直後に観たものだけれど、同種のスペクタクル映画として捉えたばあい、あれからすべてが格段の進歩を遂げた。映像技術にとどまらず、世界に流通する情報の量や速度でも進展をみたということは、時代考証や異文化理解のコストにしても改善されていなければおかしい。
たしかに今回も「そんなところに浮世絵なんか飾るもんか」というシーンはでてきた。だがすくなくとも、あのシュールな映画ほどには酷くなかった──海浜に黒松や鳥居をながめつつ、ふんどし一丁の兵隊がうかべる軍艦模型をまえにして、炎天下にくろぐろした第一種軍装を着込んだ士官がおもいつめた表情であれこれ評定する……。そんな2001年の白昼夢だった。
いちばんの見どころが、両作の20年ちかくにわたる隔たりのうちに進化をみたコンピューター・グラフィックス(CG)による海戦シーンであることは、ご案内のとおりである。爆撃機による降下から爆弾投下、そして離脱までの一連のうごきは、CGでなければ映像にするのは至難の業だ。海面上を水平に目標へ突進する雷撃機と、目標艦船の直上から急降下する爆撃機との機動のちがいもあざやかに再現され、対比を観察するのも興が深い。できれば劇場で観たかった。
2)欲ばりプロット
とはいえ、どう考えても詰め込みすぎだ。ミッドウェイ海戦だけ描けばよいのに、主役のひとりである情報将校、エドウィン・レイトンが東京に勤務していた1937年から話がはじまる。それからエンド・ロールまで2時間ほどだというのに、真珠湾攻撃があり、マーシャル諸島の戦いから、ドゥーリトル空襲を経て、珊瑚海海戦へとつづき、日本海軍の攻撃目標を特定する情報戦のあらましにふれたのち、やっとミッドウェイに至る。
大戦劈頭における装備に劣る米側が、幾多の試練を経て、ようやく暗号解読という武器によって勝利したのだ、というながれを描きたがっているのはよくわかる。それとて見方を変えれば、すべては真珠湾ありきの復讐劇で、そのうえ日本側の手ごわさをこれでもかと強調しなければ盛り上がらんという、ブロックバスター志向のエメリヒ監督にとりつく脅迫観念の為せるわざであろう。
その間、中心人物のひとりで型破りの英雄、ディック・ベストは、艦上爆撃機・SBDドーントレスを駆って訓練にあけくれるなか、兵学校も同窓であったとおぼしき幼馴染みを喪って痛飲し、また妻子との別れを惜しみ、さらに事故で部下を死なせると消沈するも、にわかに責任感もめばえ、かつて小馬鹿にしていた上官に助言をもらうと、人間的な成長から他者に敬意を払うこともおぼえて、尻込みする兵を鼓舞激励しながら出撃し……大忙しだ。
だから、せりふのほとんどが説明文じみているのも、致し方ない。池上彰のこどもニュース並みだ。──ここでジャップを喰い止めないと、西海岸を爆撃されてしまいます。ひいては合衆国の滅亡にもつながりかねませんよね。困りますね。
尺に余裕がないのだから、観客に行間を読ませている暇はない。まして余韻をのこす空白などあるわけもない。結果、すべての登場人物が狂言まわしと池上彰になってしまっていて、豪華なキャストなのにもったいない気がする。なんといっても、チェスター・ニミッツ役はウディ・ハレルソンだし、ハルゼー提督などは、よく見ればデニス・クエイドだった(いいかげん「ホールズィー」表記が主流にならないんだろうか)。
ところがこの顔ぶれにして、演技が総じてなんとなくぎこちないのだ。
3)言葉のぎこちなさ
むかしからこうしたハリウッド製の映画では、日本の軍人が口にするのは片言の日本語であると相場が決まっている。今作では、豊川悦司、浅野忠信、國村隼という、日本の名優たちが起用されているが、監督の言によると偶然の産物らしい。それぞれ山本五十六、山口多聞、南雲忠一役に配されてはいる。さすがにこの顔ぶれでは、文句のつけようもない。それにも拘わらず、どうも日本語による演技がところどころ棒読みで不自然だ。周囲のカナダ訛りの日本語につられたものと思われるが、それを矯正するスタッフすら欠いていたとみえる。
いっぽう、エド・スクレイン(スクラインとも)が演じたディック・ベストの強烈な訛りに関しては、そういう演出なのだとはじめは思った。史実ではイタリア系の水兵ブルーノ・ガーイドをニック・ジョナスが好演していたこともあって、移民社会を反映した米海軍における多様性を描き出す趣向なのだと受けとっていた。ところが、ちょっとググってみた範囲では、英語圏のレヴュー記事にも散々に貶されていた。日本語だけでなく、やはり英語の演技も評価されていない。とりわけ、ロンドン出身のラッパーだったスクレインのアクセントに関しては、「ディック・ベストがコックニーなんか話すわけがない」と斬り捨てられている始末である。
──つまるところ、みんながおかしな言語でしゃべっている作品なのだ。ドイツ生まれの監督だからといって、これほど無頓着でよいものか。一部だけ大陸支那のシーンもあるけれど、そこでの広東語も推して知るべし、か。北京語ということにはなっているが、それはそれでいかがなものか。
4)公明正大な戦争映画は可能か
これを要するに、ほうぼうから製作費を掻き集め、八方美人を目指したものの、けっきょく三方良しともならなかった、というところ。それでも大枠では、米海軍からの視点に徹したことで、一貫した物語を保っている。日本海軍側の内情も、前出の三提督をめぐる場面に絞りこむことで、最小限度の説明にとどめているわけだ。
戦争をあつかう娯楽映画において、参戦各国からの視点を平均的に、あるいは“公明正大に”描く試みは、かつてはあった。けれども、今日ではさほど流行っていないようだ。もとより、2時間内外という限られた時限の作品に、複数の語り手の視点を導入するのは、運よく消化不良に陥らなかったとしても、観客には混乱を招くこともあり得る。それもあってか、クリント・イーストウッドによる「硫黄島の戦い」プロジェクトは、それぞれ日米の別々の視点が採用された『父親たちの星条旗』および『硫黄島からの手紙』という、ふたつの独立した作品として公開された。現代ではけっきょくのところ、興行収入の皮算用しだいではあるのだろうが。
西村雄一郎『黒澤明──音と映像』(立風書房刊、1998)には「ハリウッド最後の大物プロデューサー」とよばれた、ダリル・ザナックのケースが出てくる。『史上最大の作戦』(1962)では、撮影隊を各国ごとに分けて、それぞれ別々の監督に撮らせた。英軍はケン・アナキン、米軍はアンドリュー・マートン、独軍はベルンハルト・ヴィッキに演出が任された。この成功を受けて、ザナックは同様の方法を採用して『トラ・トラ・トラ!』(1970公開)の制作にのぞんだ。
このとき日本側視点の監督に指名されたのが、黒澤明だった。1967年のことだ。その後の経緯は、今日よく知られるとおりである。撮影は難渋したあげく、監督自身が疲労から倒れたこともあり、最終的には解任された。といっても仔細はわりと複雑で、このときの内紛や心労の経験が黒澤にとって、のちの作風の転換につながるほどの大きな心理的な打撃となった、というふうに西村は推定している。
『トラ・トラ・トラ!』については、舛田利雄、深作欣二両監督が代打に立って完成されたものの、米国では不評だったらしい。日本人からみれば、あの戦をこれほど公平に描いた作品はないし、これからもでないだろうが、まさにそれだからこそ“愛国的”アメリカ人には不満がのこったのだ。「羅生門エフェクト」ではないが、技術が進歩して画面が精緻になればなるほど、万人が納得する“主観”的映像を不特定多数に供するのは、困難になってゆくものではないだろうか。
5)「ミッドウェイもの」
けっきょく出来上がった映像は、のちの『ミッドウェイ』(ジャック・スマイト監督、1976)にも流用されることになる。こちらの『ミッドウェイ』では、ドゥーリトル空襲からはじまり、それを受けてミッドウェイ作戦が始動するという流れだったから、日本側の逆襲という論理がつよい。そうはいっても、日米双方の思惑を描くことには腐心しているようだった。逆説的だが、日本の軍人役の俳優陣がすべて英語で演じていたのも寄与しているように思える。ただし、唯一の日本語話者たる三船敏郎が演ずる山本司令長官だけは吹き替えになっていた。それでも、どの言語圏の観客からも不自然な演技に辟易されるくらいならば、北米での興行を主眼に据えた、このやり方のほうが潔い。そもそも往時は、CGも中国資本も考慮せずともよかったし、またひょっとするとグローバルな映画市場にも、現在ほどの配慮は不要だったのだ。
それだから、同名だからといって、この作品をエメリヒの『ミッドウェイ』と細部にわたってくらべるのも、あまり意味があるとも思えない。ところが参照すべきはむしろ、ジョン・フォードによる1942年の正真正銘のプロパガンダ映画『バトル・オヴ・ミッドウェイ』であるとは言えるかもしれない。相応の敬意が払われていることは、エメリヒの本編を観ればわかる仕組みになっている。
フォードによって撮られた貴重な記録映像は全編18分ほどで、たとえばYouTubeでも視聴できる。すでに名のある映画監督でありながら、開戦直前に招集され、海軍の宣伝映画を作成する任についた。そんなフォードの映画班をミッドウェイ島に派遣したとき、当のニミッツは暗号解読によって、すでに日本軍の意図を知っていたそうだ。これも広い意味での情報戦に秀でた米軍と、ニミッツの慧眼をあらわしているエピソードといえよう。このときナレーターを務めたヘンリー・フォンダが、30年あまり経ってのち、1976年の『ミッドウェイ』でニミッツ提督役を演じることになるのだから、因縁を感じずにはおれない。
ところで、山本五十六の役というのは『トラ・トラ・トラ!』の山村聰のほか、三船敏郎(丸山誠治『連合艦隊司令長官山本五十六』東宝、1968と『ミッドウェイ』1976)や、役所広司(成島出『聯合艦隊司令長官山本五十六』東映、2011)、エメリヒの豊川悦司と、いろいろな役者が演じてきたけども、だれひとりとして似ていない。恰好いいんだけれど、似ていない。生前の姿を知るわけでもないので、これこそまったくの主観なのだけれど。ただ、いまや大衆娯楽の古典的演目となった観もある「太平洋戦記」であればこそ、歌舞伎などと同様に、それぞれの演じ手の芸を鑑賞するのもまた、ひとつの道である気はする。いずれにせよ、映画の愉しみは一通りではないのだ。
*The Battle Of Midway (1942)
*上掲画像はWikimedia