ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

リオで見た夢が東京で醒めるまで

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photo by Davi Costa

 『いつか深い穴に落ちるまで』は、2018年の文藝賞を受賞した中篇小説である。著者の山野辺太郎は、リオ五輪の閉会式に着想を得て起筆したのではあるまいか。日本からブラジルにむけて、地球をつらぬく穴を穿つ事業にかかわることになった会社員が主人公で、壮大なわりに素朴な寓話を読んでいるような心地がした。

 国家プロジェクトとして穴を掘るなら、ブラジルではなく、むしろサウディアラビアあたりへ向けたほうがより賛意が得られそうな気もするが、もとより往時の大蔵省を説得する必要もなかったらしい。いずれにせよ、高速増殖炉もんじゅ」なんぞ話にならぬほどに実現の可能性を疑わざるを得ないから、税金の無駄遣いだなんだといわれて事業廃止に追い込まれる運命にありそうな計画である。ところが、どうしたわけか省庁再編をも乗り切ってしまったようなのだ。

 荒唐無稽な物語を筆力だけで読者に納得させる書き手といえば、まずフィリップ・K・ディックが思い浮かんでしまうけれど、くらべるとずいぶんあっさりした文章におどろく。そもそも地球科学や土木工学的な説明がまったくない。それでも、夢のある話がよみたいという読み手からすれば、技術的にも法制的にもゆきすぎた論理的整合性のほうがよっぽど退屈なのだ。仕分けよ、見直せ、中止せよ、撤回せよ、廃止せよ、更迭しろ……そういうのは現実だけでたくさんだ。

 

 ときにリオ五輪を思い出したのは、東京大会の閉会式があまりにも簡素だったからだ。前回、リオの閉会式は、件の地球を貫通せるトンネルをいつの間にか開通させ、安倍マリオ総理まで動員して、世の期待を喚起したのだった。それにも拘わらず、東京の競技場には、マリオはおろか、ピカチュウの一匹すら姿を現さなかった。とはいえ、5年もまえの予告編につき、とりわけパンデミックなど念頭にあるはずもなく、スポンサーの思惑や請負業者の収益構造もからんで種々の計画が変更されたのであれば、それはどうしようもないことではあった。ただ、観衆は夢のつづきを見ようとして、やや翳りのある現実をつきつけられた。

 オリンピックなんか興味ない──そう思っていたところが、まいにち報道があって、中継映像が流れていれば、けっきょく熱心に試合経過を追ってしまっている自分がいた。大勢に流されるままになっている、おろかな大衆のひとりであることは否定できない。とまれ、出場することがかない、なかんづく入賞まで果たした選手たちにとっては、開催されてよかったのは間違いない。また、その姿を映像で目撃できたことを、おおくのひとが肯定的に評価しているにちがいない。

 ふりかえると、新たな国立競技場の整備にあたってザハ・ハディドのデザイン案が内定したとき、建築士でもある日系の友人に急いでニュースをつたえたものだった。いまは懐かしく思い出されるのみだ。実現すれば、数十年後の世界遺産登録もあり得るのではと盛り上がったが、すべては露と消え去ってしまった。卓越した建築家たる隈研吾がわるいわけではないけれど、代案となった現行の設計は如何せん地味だ。

 なにかが決まりかけると、どこからともなく反対意見が湧いてきて、つぶされてしまう。あのころから、直接民主政的な村社会を地でゆく展開で、密室的な長老政治に対するヒステリックな衆愚政治という様相を呈していた。目くそ鼻くそみたいな構図だ。それは、一年間の延期決定後も、人事にまつわる怨恨にもおそらく由来する中傷合戦を生じつつ、エスカレートしていったように見えた。

 デザインについてはその後も、象徴的な話があった。選手村に備えられた、段ボール製のベッドである。やんちゃな選手たちによる私的な強度試験がSNSで流行して、おおいに話題になったのだから、寝具メイカーの宣伝としては成功だったのかもしれない。けれども「見た目」も機能であり性能であるという立場からすると、製品として欠陥があった。「見るからに段ボールでできていますが、耐久性には問題ありません」というのでは、一度がっかりしたユーザーを宥める効果しかない。むしろ「マホガニー製にみえて、実は段ボールでできているんです」という方向のデザインであったならば、「外見も豪華だし、環境にもいい」という、二度おいしいマーケティングになったはずだった。──費用対効果もふくめて、そんな手品のごとき素材や技術があれば、の話にすぎないが。

 ともかく、段ボール製のベッドは、幻滅の象徴だった。覆い隠されざる裸の素材をみせつけられた。残念ながら、都合のよい種も便利な仕掛けも存在しないのだった。……ところで「ガースー辞めろ」という声があがり始めた昨今であるが、それになびく人びともまた、単に政治に夢を見たがっている、いわば夢想家にすぎない。たしかに、黙して語らぬボール紙の寝台にも似て、ガースー総理は飾り気がなく、訥弁すぎて頼りなげにみえることも増えた。けれども、混乱のさなかにひとり職を投げ出したところで、たちどころに問題が消え失せて、すべてがうまくゆくわけでもあるまい。それとも、後任の総理総裁がなにか奇術のような手を隠し持っているとでもいうのだろうか。

 さて、ちょうど前回の東京五輪があった昭和30年代の基準で設えられたユニットバスも、段ボールのベッドとならんで、見すぼらしい大会というイメージに輪を掛けた。アスリートであるいじょう、身の丈2メートルを超える偉丈夫とてめずらしくなく、窮屈そうで気の毒だった。

 「失われた30年」に喘ぐなか、疫病に追い討ちをかけられ、日本中がいまや敗北主義のデザインに染まっている。製品デザインに限らず、政策も社会インフラも労働慣行も見直す時期にきているのに、デザイナーも政治家も企業も超保守的になって久しく、責任やリスクを避けることが至上命題になってしまっている。それでも、誰しもTwitterからおこる罵声にひとたび巻き込まれてしまえば、辞任や解任は避けられない風潮になっているのだから、いわゆるキャンセル・カルチャーは、この停滞を助長しつづける。盗用や剽窃が問題になるのも逆説的ながら、やはりデザイナーの側にリスク回避の心理があるからのようにおもえる。

 それでも、「復興五輪」とか「持続可能な大会」とかいう理念にかんがみれば、すべてはそこに収まっていた。例外として、某国選手団が領土問題をもちだしたり、福島の食材に異を唱えるような動きを見せたものの、たいした問題にはならなかった。それには、外務省なり組織委員会なりが「では、ボイコットなさいますか。ボイコット。ボイコットいかがですか」と、3回ぐらい畳みかけるべきだったとは思うが。開催の趣旨に賛同できぬならば、参加すべきではないし、させるべきでもなかった。いっぽう、段ボールにしろ、分譲を見据えたユニットバスにしろ、大会のおおきな方針に合致しているのだから、こうした点は批判のしようがない。

 ちなみに選手村にかんしては、食堂が好評を博したことが慰みにはなった。選手ら自身がSNSで報告していたのは微笑ましいものだった。さかのぼれば、うまいものを腹いっぱい喰えるようにするというのが、戦火に荒廃した東京で人びとが思い描いた夢だったのだ。その切実な理想は、国民が相対的に貧しくなってきたバブル崩壊後も、成功裡に受け継がれてきたわけだ。

 夢にみた東京オリンピックは、それこそ夢でしかなく、逼迫した予算や医療提供体制を直視しなさいといわれれば、ぐうの音も出ない。けっきょくのところ、現実が理想にくらべて劣っているのを目の当たりにして、段ボール・ベッドをはじめて見た人間と同じように、驚き呆れたというだけのことだ。人びとは、いっせいに思いついた批判を口にしたのち、しばしのときが過ぎてみれば、「開催してよかった」という感慨に浸るようになるのも道理であった。

 極端な管理社会のなかで、主人公がとおい異国に夢を馳せるディストピアといえば、テリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジルBrazil)』に描かれていた。あのサム・ラウリー氏と同様に、紛争地帯にはいわずもがな、疫禍による苦悩やストレスのなか、とおく東京の祭典に夢を見ようとしたひとは、世界中にいた。しかし、競技内容はともかく、観客のいない、あまりに制約のおおい大会運営を目にしたとたん、醒めやらぬ悪夢に愕然としたはずだ。そして、かつてのリオを思い出し、「あの日のブラジルに帰りたい」などと、映画の主題歌にうたわれた郷愁を虚しく抱いていることに気づいたかもしれない。

 

 *参照:

gendai.ismedia.jp

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

www.bbc.com

www3.nhk.or.jp

www.timeout.jp