ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ミロスラフ・ティルシュの像

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Miroslav_Tyrs_%28Ladislav_Saloun%29.jpg

 

 プラハ日本大使館に用事があって、なにも考えずに朝がた地方から出てゆくと、よりによって到着する時間帯が領事部の昼休みにあたっている──ということがよくあった。

 そうなると、小規模な博物館やランチ営業で混み合う飲食店を除けば、時間をつぶす施設など周囲に乏しいところだけに、ぶらり散策にでかけるのが常であった。マラー・ストラナとは、ヴルタヴァや河向こうの旧市街地を見下ろす丘陵地帯で、散歩には好適な、おおよそ眺めのよい地区だ。とはいえ、径すがら博物館の展示をじっくり観るほどの時間もなければ、書類をもらいに窓口に戻らねばならぬ都合上、そう遠くまでは歩きたくもない。それで、近場の塀に囲まれた路地とか、トラムや乗用車が轟々と往来する通りを無目的にうろつくのが、望んだわけではないものの、おきまりのコースとなっていた。

 あるとき、塀の向こうに誰かの像が立っているのに気づいた。記念碑や銘板、たいていの石像や銅像はすきなたちである。勝手に門をくぐって、立像に拝謁をもとめたのであった。

 その建物は、スポーツ団体「ソコル」の総本山であって、銅像はその創設者、ミロスラフ・ティルシュ(1832-1884)の似姿である。像が建つほどの民族的英雄──といっても、地元の人にはむろん、おおくの外国人観光客にすら興味をもたれない歴史上の人物だ。プラハ観光では大人気のフランツ・カフカなどと比べると、知名度もゼロにちかい。

  ちょうど、エルンスト・パーヴェルによるカフカの伝記のなかに、往時の社会的背景に触れられた箇所がある。

強健な肉体の崇拝、運動能力の賛美、軍隊まがいのスポーツ運動の奨励は、対ナポレオン戦争以降、ドイツ民族主義の本質的要素のひとつになっていた。 [...] 異教的な肉体崇拝が十九世紀のあらゆる人種論的・民族主義運動に浸透した。この動向はヒトラー・ユーゲントナチス突撃隊の「血と土」神話において頂点に達する。ドイツ民族主義の攻勢に対抗すべく、汎スラブ主義者たちは一八六三年に、彼ら自身のスポーツ組織『ソコル』(チェコ語で「鷹」)を創設した。

 ──エルンスト・パーヴェル、伊藤勉訳『フランツ・カフカの生涯』世界書院、1998、210。

 厳密には、「ソコルsokol」とは「鷹」というより「隼」である。なかんづくハヤブサ属のうちの数種を指すようだ。といっても、日本語における猛禽類の呼び方はしごく文系的で、とくにワシとタカの区別はいいかげんらしい。ちなみに20世紀にはいると、カトリック系のスポーツ団体で「オレル」つまり「鷲」という組織も設立された。対抗意識まるだしである。

 ところで、作品からも窺えるように、カフカは自らの身体にコンプレックスがあった。マチスモが理想とされた時代では仕方がなかった。しかもそれが反ユダヤのレトリックのなかに組み込まれるにおよんでは、被害妄想的な思い込みを抱かない方が無理であろう。

カフカは自分のことを、猫背で胸の薄い、虚弱で臆病な西欧ユダヤ人の典型と見做していたし、反ユダヤ主義が攻撃の標的とする常套的なユダヤ人像に自分の体が──彼の意見によれば──ぴったり当てはまるというので、自分の肉体を嫌っていた。
[...] 
カフカの世代の若いユダヤ人はジレンマに陥った。熱心さの程度に差こそあれ、一方では彼らはロマン主義的な「自然に帰れ」運動と肉体鍛錬の思想に共鳴していた。 [...] しかし他方では、こうした一見魅力的なイデオロギーが政治的に利用されることによって、ユダヤ人はすべて、その出自からして「劣等人種」だとする人種論が台頭してきた。
 こうした状況の中で、メジャーな団体から排除されていると感じたユダヤ人たちは、彼ら自身の団体を結成した。世紀転換期のプラハで、シオニストたちの『マカビ』や同化主義者たちの『ドイツ体操協会』──そのメンバーの大半はユダヤ人だった──がユダヤ人の若者を肉体的に鍛錬し始めた。

 ──同上

 要するに、教育機関をはじめ、ほかの分野の諸団体と同様、この種のスポーツ団体も民族集団ごとに乱立の様相を呈していた。病的なドイツ・ロマン主義者と狂犬的な汎スラヴ主義者との狭間で、プラハの「ユダヤ教徒」らも、あたかも「民族」であるかのような団体行動を強いられていた。けっきょくはこの「心の筋トレ」のごとき、スポーツ称揚の「運動運動」の指導者らには、それぞれのナショナリズムを強化することに政治的な意図があったわけだが、それも、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の多民族的「分断社会」にあっては、当然の成りゆきともいえた。

 

 ミロスラフ・ティルシュの思想も、そのような単純かつ複雑な分断社会の産物であった。

 ズデーテンラントのドイツ系の家庭に生まれるも、父親が結核に冒されたのをきっかけに一家離散のていとなって、親戚を頼ってプラハへ出る。この母方の家系はスラヴ系で愛郷主義的であったが、これが少年ティルシュに大きな影響を与えた。また、虚弱体質を改善するべく、医者の助言により運動を始めた。はじめ法学を専攻したが、のち哲学や美術史を学び、けっきょくは工科大やカレル大学にて美術史の教鞭を執ることになる。

 古代ギリシアの理想である「美にして善なるもの」に鑑み、健全な身体の育成が個人の人格と民族文化の調和的な陶冶につながる、という考えに至り、ソコルの創設に結実させた。のちに「ティルシュのシステム」と呼ばれるソコル体操についての草案をまとめたほか、ソコルの諸原則(力強さと男らしさ、活動と忍耐、自由と祖国への愛、自発的な労働と規律、メンバーの友愛関係)をも定めたというが、これなどにも、ロマン主義的社会ダーウィニズムといった趣きがある。

 哲学徒の不健康なイメージに反して、ティルシュには潑剌とした印象を漠然と抱いてしまうが、じつは精神を病んでいたという。その死は、はたして突然であった。ティロール・アルプスの小村ハービヒェンで静養中に、エッツターラー・アッヘ川にて謎の溺死を遂げる。1884年の8月。このとき、51歳という若さである。

 

 ティルシュの死からおよそ30年、チェコスロヴァキア共和国が成立し、「ソコル」は黄金期を迎える。ピークはおそらく、1938年の第10回ソコル大会であった。現在の銅像がたつ場所からひとつ丘を越えたあたりに在る、マサリク国立競技場と呼ばれた巨大な施設で行われた。じつに3万人以上の男子が参加したマスゲームが、その眼目であった。1936年のベルリーン・オリンピックに対抗し得る、壮観な眺めであったにちがいない。

 だが、チェコスロヴァキアのスラヴ系住民の自尊心をおおいに満たした直後、世に言うミュンヒェン会談が行われ、けっきょく祖国とともに、ソコルも解体された。ドイツの保護領化にあたり「チェコスロヴァキア民族」を解体する必要からは、不可欠の措置だったといえる。戦後、共産化したチェコスロヴァキアでは、民族を語ることは一種のタブーで、万国の労働者と一致協力する健全なチェコスロヴァキア人を育成するためであろう、「スパルタキアーダ」なる別のスポーツ団体が設立された。

 30年前のビロード革命で体制が崩壊してはじめて、ソコル復活が叶ったものの、今度はもう誰にも見向きもされない。全体主義体制のトラウマから、集団で一緒に動くことにはしぜん嫌悪感が湧くものであって、マスゲームなどその最たるものなのであった。

 だが今も、地方の諸都市にもあまねく、ソコルの名を冠した施設が見られ、とりわけ田舎では、子どもたちのレジャーに寄与していたり、附属した安手の酒場には多少の活気があったりする。愛国者ティルシュにとって、せめてもの救いであろう。

  

*アクセス:

 ソコルの本部「ティルシュ会館」は、「ミフナ・ス・ヴァツィーノヴァの宮殿」とも呼ばれている。教育省や音楽博物館のある通り「ウーイェストÚjezd」に在る。トラム1番等々で向かうなら、同名の停留所か「ヘリホヴァHellichova」下車。日本大使館からは数百メートル。

 

*参考:

フランツ・カフカの生涯

フランツ・カフカの生涯

 

 

*上掲の写真はWikimediaより