ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

談志による、入れ墨、彫り物、タトゥー

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Photo by Silvana Carlos

 以前からよく聴いていた、立川談志の講談「白井権八」は、もともとはおそらくCD版だった。おそらく──というのは、ひとたび〈iTunes〉に取り込んでしまえば、どういうメディアで購入したのか忘れてしまうし、どこのどのフォルダーにファイルが納まっているのかすら、失念してしまうのがつねなのだから。それでも、〈iTunes〉やiPhoneで再生できるならば問題はなかった。

 けれども、例の〈macOS Catalina〉になって〈iTunes〉が廃止されてしまうと、どのアプリでどうやって視聴すればよいのかわからないファイルのことが、いろいろ思い浮かんだ。「権八」は典型であった。現に、探してみても見つからなかった──〈ミュージック〉アプリに無いのは、落語が音楽ではないからだと納得せざるを得なかったが、それならば〈ブック〉アプリのほうに、オーディオブックの扱いで格納されているのかと思いきや、そこにも無い。──けっきょく〈Spotlight〉で検索してやっと、m4a形式のファイルが消滅したわけでないことがわかって、昔ながらのネイティヴ・アプリ〈QuickTime Player〉で再生することにした。と、そのとたんに、なんだか〈OS9〉のころに戻ったような気がしてくる。ほんとうにこれは、最新のOSがインストールされたMacなのだろうか。すると、柱の時計が時を告げる……落語家の噺には、こんな感じの脱線ばなしが付きものだ。

 

 鬼才・談志の「話芸」というのは、とくにこの演目ともなると、落語というよりも、落語や時代考証に関する講義を聴かされているようで、勉強にはなるけれども、ものがたりがちっとも前に進まない。講談ものだから、こういうのもありなのだろう。

 しかし、なぜだかわからないが、これが繰り返し聴いてしまうほど好きなのだ。そういうわけで、テクストに起こしにくいので、便宜上は引用の形式をとるものの、正確な引用というものではなく、適宜まとめたり端折ったりさせていただくが、ともかく──

 東海道は神奈川の宿に、当時流行った桜茶屋という旅籠があって、街道に面した床几に腰掛けて悠々と煙草をくゆらせている若侍が、年の頃ならつづやはたちか、そんなところか、男っぷりがよくて、なりがよくて……往来をへだてた向こう側にたむろしていたのが、東海道名物の雲助ってやつで、駕籠を担いだり、おもいおもいの入れ墨して……

 ──と、ここまでくると、談志は入れ墨の解説をはじめる。

 入れ墨と彫り物は違うんだってよくいわれますが、いまはわからなくなって、入れ墨の方おことわり、ってよくサウナ風呂なんかによく書いてありますよね。入れ墨は刑罰として入れられる、彫り物はじぶんで入れるんで。わたしは彫り物が好きでねえ。なんであの彫り物がいけないっていうことになってるのか。むこうの、プロバスケでもなんでも、みんなタトゥーってやつ、やってますよね。まああのタツーっていう発想と、あれと違うのかもしれないけども。志ん生師匠が彫ってましたよ。せこいのを……

 ──と始まって、しばしの彫り物・タトゥー論がつづくわけである。

 

 けさがた、とあるBBCの記事をみつけた(参:「日本で入れ墨をしたい、伝統技術を求めて海外から続々 日本の意識は変わるか - BBCニュース」)。それで談志の「権八」を思い出した、という次第である。

 ──なんでも、日本の彫り物業界は、インバウンド需要で活況らしい。同時に、海外からの顧客をとりこまないと生き残れない旨の、関係者の危機感も伝えられている。それほどまでに、現代日本社会では忌み嫌われているのだ。

 近世の雲助らの頃はともかく、明治以降、欧州の王侯貴族による「彫り師詣で」が盛んであったことはよく知られている(下記の文献を参照)。英国の王族をはじめ、大津事件で額を斬られた帝政ロシアはロマノフ家のニコライもかつて、おしのびで来日して彫り物を入れたのではなかったか。とにかく、日本の彫り師の評判は、むかしから欧州にとどろいていた。それだから、現代でもそういう需要があっても、まったくふしぎなことではあるまい。いまや海外旅行など貴族だけの特権ではないのだから、日本の彫り物の需要がふたたび増加に転じて、産業として再興されてもおかしくはない。雲ゆきのあやしい「クール・ジャパン戦略」とやらにとっても、起死回生の一手となるかもしらん。

 といっても、内心の抵抗感はすぐに消せるわけでもない。これを書いている自分自身もそのあたりの感覚は保守的で、ヨーロッパの若い人のタトゥーすら、いまでは見慣れたとはいえ、実のところ苦手である。おそらくこういうことだろう。入れ墨といえばヤクザ映画──というような短絡的な日本の戦後の文化にどっぷり浸かって育ってきて、好悪に関する肌感覚までもが、すでに脳髄に刷り込まれてしまっているのだ。所詮は他人の身体であって、じぶんの身体が痛むわけではないのだが。

 しかし、自分が見たくないからといって、適当な理由をつけて、他者の文化を否定したり、自国内といっても文化の多様性を排除したりすることは、妥当だろうか。特定の意匠が見たくないからと、海上自衛隊自衛艦旗を皮切りに、大漁旗や世界中のTシャツのデザインやグラフィティにまでも、でたらめな言い掛かりをつけている連中を、つい思い出してしまう。要は、自分がきらいだからといって、それを禁止しろというのは、おかしなことだ。わざわざ小難しく言い換えれば──自己決定権と他者危害の原則にもとづくところの自由主義に悖る、ということになる。他者危害の原則というのはつまり、だれかに物理的損害が発生したと個別具体的に確認されない限り、行政は介入することができないという原則である。いずれにしても、入れ墨は道徳的に不適切だとか不謹慎だとか感じる者がいても、それによって他人の行動を規制する根拠にはならない。

 前述のとおり、8年ほどまえに鬼籍の人となった噺家すら、刑罰の入れ墨と雲助の彫り物とアスリートのタトゥーとを、区別して論じていたものだ。くわえてファッションのタトゥーや、果てはポリネシアのトライバル・タトゥー文化等々までも十把一絡げにするひとが、いっそう情報化が進んだ今日の日本にどれだけいるものか。

 日本の社会は保守的にすぎるようにみえるが、心配はない。お上が旗を振れば、たいていは従順にしたがう国民性である。われらは波風を立てたくないだけなのだ。記事には、特定指定なんとか団体の人びとも最近ではあまり入れ墨をいれなくなったとあるが、そうなると、入浴拒否を掲げる風呂屋にしても、それを根拠にすることは徐々にくるしくなってきた。日本社会の「彫り物ヘイト」も、ぼちぼち終焉に向かうことだろう。

 

*参考:

www.bbc.com

 

日本の刺青と英国王室 〔明治期から第一次世界大戦まで〕

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