ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

アンドレイ・バビシュの壺皿(2)

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photo by Lubos Houska

不可解なタイミング

 5月3日の月曜日に『ポリティコ』に掲載された記事は、スロヴァキアの議員で元NATO大使のトマーシュ・ヴァラーシェクによるもので、チェコ共和国の外交的な失敗が分析的に解説されている("The Czech diplomacy gap")。これを要するに、ヴルビェチツェの爆破をめぐる発表は、チェコ外務省の混乱のせいで最悪のタイミングで行なわれ、外交における機会損失をもたらしたが、どうしてこの時点における発表になったのかは、諸説あるも不明である。

 外務大臣更迭の直後で、ハマーチェク内相が何日か外相を兼務していた、外交がもっとも混乱した時期にあって、しかも土曜日の夜という政治の世界では考えられぬ時分に、どうしてこれを急いて発表する必要があったのか。おなじ文脈で攻撃を受けたブルガリアの外交当局とのすり合わせもなかった。

 翌4日の火曜日には、やや陰謀論めいた仮説がチェコ語のメディアで報じられた。すなわち、内相で、外相も兼ねていた件のハマーチェク副首相が、百万本単位のロシア製ワクチン・スプートニクVや、プーチン=バイデン会談のプラハでの開催とひきかえに、2014年の爆発がGRUの工作によるものであった旨の捜査結果について、公表しないことを申し出る算段であった──というのである。さすがに大臣本人は、否定会見に追われることとなった。

 この混乱したメディア上のお祭り騒ぎは、アンドレイ・バビシュ・チェコ共和国首相にとっては好都合であるように見える。というのも、この4月にいくつか、バビシュ首相にとって芳しくない報道が出来したし、5月にも出来する予定であった。しかしながら、こうして別のニュースが怒涛のいきおいでメディアを席巻したために、「不都合な真実」の報道はすっかり掻き消されてしまった。──4月17日にはじまったロシアとの外交官追放合戦と、その発端となった2014年ヴルビェチツェ爆破事件の真相に関する情報、それに関するゼマン大統領の25日声明とそれへの各界の反応、ハマーチェク副首相のモスクワ秘密交渉疑惑……といった一連のロシアがらみの報道に。

 おおよそ政治において、偶然などというものは存在しない。とりわけ、国内の政治、経済、メディアを統べる「オリガルヒ」と呼ばれて久しい、バビシュ首相にとってはなおさらである。


アンドレイ・バビシュとは

 アンドレイ・バビシュ──1954年9月2日、チェコスロヴァキア共和国、ブラチスラヴァ生まれ。2017年12月より、第12代チェコ共和国首相。国政デビューは2013年10月。のち2014年から2017年までボフスラフ・ソボトカ内閣の第一副首相兼財務大臣を務めた。

 それ以前には、あるいは以後も、企業家として知られる。200以上の関連会社を擁する巨大コングロマリットとなった、アグロフェルト社の創業者である。それが、いかなる理由で政界に進出したのか、仔細は知られていない。しかし、それを尋ねるのも、どうして賽子を振るのかと賭場で訊くような愚問かもしれない。しかもバビシュは博徒というより、胴元である。

 自身で立ち上げた政党「ANO_2011」の名称は、「憤悶せる市民の政治運動」ほどの意味である「Akce nespokojených občanů」の頭字語と設立年とから成る。要するに「ザ・ポピュリスト政党」と意訳してもよい。チェコ語でいう「ano」とは、英語の「yes」に相当する語ではあるにせよ、日本語で「あの党」というと、どうしても後ろ指をさしているような語感がある。だが、他の党や候補者をSNSで罵倒して支持を広げたのは、むしろこの党であった。

 党の公式サイトには、自らしたためたという自伝的な「私のものがたり」という文章がある。「事実でないことを書き立てるメディア」に対する反論という体裁をとっているために、やや言い訳がましい嫌いはあるものの、そのぶん要点がわかり易い。

 父親が工作機械の販売会社に職を得るなどしたことから、その転勤にともなって、エチオピアのおそらくアディスアベバ、フランス・パリ、スイス・ジュネーヴと家族で移り住んだ。この過程で、アンドレイ少年は公立の学校に通い、フランス語やチェコ語を習得している。ブラチスラヴァにもどった後は、経済大学で国際貿易を専攻した。

 ブラチスラヴァの外国貿易公社に入社すると、すぐ化学製品部門に配属された。英語すらできぬ上司を助けるのに得意の語学こそ役には立ったが、けっきょく嫌気がさして、ひと月で辞めた。のち別の貿易グループにポストを得、以降は肥料の原材料を輸入する業務に従事していたという。


StBの協力者

 ここで、この男に対する最初の疑惑がでてくる。バビシュは、StB──国家保安局のエイジェントであったのではないか、という噂が絶えない。じっさい、スロヴァキアでは最近までこの件をめぐって法廷闘争がつづいていた。

 手記にはこうある。「私が知る国家保安局は、貿易会社に勤めていた人なら誰でも知っているように、チェコスロヴァキア経済的利益を守っていた。外国貿易会社では、外国人との接触はすべて報告し、記録しなければならないという厳格なルールが課されており、海外出張についても同様だった。職場にはStBの正規職員が常駐しており、周りには多くの潜入者もいた。StBの職員らは、従業員をコーヒーに誘うなどして、業者から袖の下をとる者がいないかどうか調べるという方法で仕事をしていたが、これは現在のBISとまったく同じだ」

 要するにStBは、外貨との接点がある貿易会社内で、収賄とか業務上の横領がないか、つねに監視していた、身近な存在であったというのだ。その後、別のStBがやってきて、ドイツ・マルクの現金を隠し持っているなどした幹部らが摘発されたことがあったが、バビシュはこのときの捜査に協力していただけだと言いたいらしい。そしてこの説明は、チェコ国内ではひろく容れられたようで、すくなくとも代議院議員に当選した時点で、有権者はこれを不問に付したことになる。

 ところが、この2021年4月9日になって、ウェブ・メディアに記事が出来した。バビシュとStBとの協力関係を示す、新たな証拠が発見されたというのである。

 スロヴァキアでは「民族の記憶機構」なる機関によって、この手の共産期の文書が管理されており、そこで、StBの協力者が個別に記載されている登録カードとでもいうべき書類がみつかった。秘匿名の欄には「ブレシュ」とあり、種別の欄にはエイジェントを示す「agent」の語がはっきりとタイプされている。人材の「獲得日」として、1982年11月11日という日付も見える。

 しかし、この書類に書かれていた内容じたいは、コードネーム「ブレシュ」とともに、もう何年も前より知られていた。それでも10年ちかくにおよぶ裁判のなかで、なんども否定されていた。また、前出の記憶機構との裁判でも、協力者であったとしても「故意に協力したわけではない」旨の判決が出されてもいる。ほかでもない、判事のこうした言質こそが、政界進出を可能にする前提でもあった。

 しかし、考えてみれば、それも当たり前の判決だった。法廷で発言する証人は主として当時のStBの将校らで、そのStBの人脈は、いまでもバビシュのアグロフェルト社をめぐる経営や雇用や取り引きの関係のうちに、生きつづけている。つまり、所詮は身内の証言ばかりなのだ。それだから、やはりバビシュ首相本人も「私はいちども署名したことはないし、三回も法廷で勝訴している」話だと疑惑をあらためて否認し、報道を一蹴してみせた。「署名」というのは、協力者になるための書類にブラチスラヴァ市内の酒場で署名したと、さんざん報じられてきた挿話を指しているのであろう。

 ところで、これをスクープしたのは、大手ポータルサイトSeznamが運営するニュース・サイトであった。報道はほかのメディアにもとりあげられはしたが、通り一遍の淡白な扱いであった。だが、この報道が独『シュピーゲル』誌などにとりあげられるや、そのドイツ語圏でとりあげられたことをチェコ共和国の公共放送などが報じるという、迂遠な伝言ゲームの様相も呈した。メディアは報じたがっているのか、それとも扱いたくないのか。あるいは、この件について国民は知りたがっているのか、もうたくさんなのか……。

 じつは、スロヴァキアと袂を分つことになったチェコ共和国内にも、件の「民族の記憶機構」と同等の機関が必要かどうかという問いがあった際、識者の意見は割れた。

 けだし、魔女狩りを始めたらたらきりがないのだ。StBに協力したという人間は、ひと知れず社会にごまんといる。もうそっとしておこう、というのが正直なところだったのではないか。それに、もとより人的資源にかぎりのある小国とて、赤狩りのごときパージをおこなっていたらば、どの業界も廻らなくなったかもしれない。

 あるモラヴィア史の大家が、設置に反対する側で意見を寄せていたのが印象ぶかい。そこに「市民には、たんに過去と折り合いをつけるのではなく〝和解〟する必要があるのだ」というくだりがあった。分断を煽るポピュリストが弄するのとは真逆のことばであって、なるほどと思わざるを得なかった。──カコと和解せよ。つづく。(→その3

 

*参照

www.politico.eu

www.anobudelip.cz

www.seznamzpravy.cz