ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

日本語論文における「一人称代名詞」

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photo by Tomasz Paciorek

 ぐうぜん見つけて、なんとなく読んでしまった、明治期の日本語に関する調査の論文である:「明治初期論説文における一人称代名詞の分析 

 「人称変化」のない日本語に「人称代名詞」などあるわけがない──という説のもっとも著名な論者は金谷武洋だと思われるが、その件については措いておこう。国立国語研究所といえば、かつてアルバイトで訪れていたことがあったが、その話も今回はパスしよう。

 デジタル化盛んないまのご時世、なにげなくウェブを眺めていて、おもしろい論文のリンクにたどり着いてしまうことはよくある。大学の図書館で、それまで立ち入ることのできなかった閉架式の書架に自由に出入りできるようになったとき、ついつい目的とは異なった論文をいろいろと読み耽ってしまった時分のことを思い出す。

 そうしてひとつ思い出すと、芋づる式に記憶がわいて出てくるのがまたおもしろいところだ。それで、友人と腹を抱えて大笑いをしたことを思い出した。

 上掲論文中で分析の対象となっている明六社の機関誌『明六雑誌』では、それぞれの論説文の執筆者が自身を指示する際、多様な語を用いている。「我」「吾」「余」「予」「己」「僕」「吾輩」「拙者」「吾儕」「余輩」「私」「余儕」「僕輩」など。文明開化のなか、まさに創られつつあった近代日本語をみるような思いがする。

 現代において、論文の著者というのは書き手自身を指示する名詞、いわゆる「一人称代名詞」を用いないのが原則で、百歩譲って「筆者」とか「著者」とか「われわれ」とか、そのくらいが許容される限度であろう──とかつては漠然と考えてはいた。だが、こうした慣例は、住む界隈によって異なる文化で、現状でも共通するルールなどない世界なのであった。そして業界によっては、その語彙の選択自体が書き手の学問的主張を裏づけることにもなる……

 日本語形態論の大家、鈴木重幸先生の講義に通っていたときのことである。20世紀の陽は傾き、日没の刻が迫っていた。

 出席していたのは片手で数えられるほどの学生で、名にし負う大御所による講義とあってか、舟を漕ぐ者など皆無であったが、みずから招聘した教授だけは、危険水域に達する場面もあった。それも、鈴木先生の人懐っこいまなざしと、やさしい話しぶりと無関係ではなかったのかもしれない。

 やや木訥な「あのね……」「ぼくたちはね……」「ぼくたちのグループのオクダくんがね……」という語り口で、伝説的な文法教育の革新にかかわる武勇伝めいた経緯にさらりと触れられつつ、無知なわれわれを教え諭されるようにすすめられた、ありがたい講義であった。集中講義とて、午前と午後の講義がひと段落するたびに、参考文献にあがった論文を、友人とともに図書館にさがしに行ったわけだが、自作の論文については手ずから配布していただいたのだったかもしれない。いずれにせよ、当時はググってポンというわけにはいかなかった。

 最初の時間が終わったのちであったか、それとも前日くらいに前もって読んでおこうということになったものか、記憶は定かではない。とにかく、あの先生がお書きになる論文とはいかようなものか、と興味津々で読みはじめたわれらであった。──はたして、自身を指す語句は、講義の口調を髣髴とさせる「ぼくたちは」であった。学術論文なのに「ぼくたちは」……! 

 小学校の作文以降なかなか見ない文体に思わず笑ってしまったのは、われわれがもともと他領域を専攻した門外漢だったことのみによるものであろうか。講義を聴く前に読んだのであったほうが、抱腹してもおかしくない状況ではあるような気がする。いずれにしても、他所の専門領域とは異国の地であり、異文化に接するに等しい驚きがあるのだ。とまれ、自身の主張とたがわぬ姿勢が貫かれ、あれこそが言文一致の究極のすがたといえるものだったのだ、と今では納得している。

 さしあたってWikipediaなどを見てみると、「ぼくたちのオクダくん」こと奥田先生は、先日なくなった大勲位と一歳ちがうだけで、鈴木先生よりひとまわりも年上であったらしい。組織の人間関係などではいろいろあるから、学校を卒えてしまえば気にせぬひとも多いとはいえ、戦前生まれのあの世代の日本人で、議会でも軍隊でもないのに十歳以上もの年長者を「君付け」で呼ぶ関係というのは、なかなか興味深い。仔細は存じ上げぬが……。

形態論・序説

形態論・序説

  • 作者:鈴木重幸
  • 出版社/メーカー: むぎ書房
  • 発売日: 1996/03
  • メディア: 単行本