ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

さっとくぐらすビスコフ

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 オペラ歌手にして名優、クラウス・オフチャレクが演じた風変わりな男は、重要参考人として事情聴取のためにウィーンの警察署にやってきた。そこで、刑事がまさに手をつけようとしていた三日月型のパン、キプフェールを勝手にたべてしまう。その際、キプフェールの先端を、ちょいちょいっとコーヒーにひたすのだ。──あるTVシリーズでのシーンだが、このたべ方はウィーンあたりではよく見かける。

 かつて、しばらく預けられていた祖父母宅を思い出すと、まいあさ祖母がトーストを、ミルクたっぷりのコーヒーにやはり浸しながらたべていた。小学校低学年の子どもの時分だったから、なんと気持ちのわるいたべ方をするものかと訝ったが、いま思えば、離乳食の記憶を失っていたことのほうに、むしろ我ながら、はっとする。

 横浜にいた祖母がウィーン生まれというわけではない。そもそも、祖母のように「でろんでろん」になるまでパンの類をコーヒーに入れるひとは、その後みたことがない。たいていは、「さっとくぐらせる」のみだ。

 いつしか自分も「さっとくぐらす」ようになったが、さすがにパンではしない。──ロータスビスコくらいなものである。ちょっと良さげなカフェで、コーヒーのソーサーに載せられて出てくるやつだ。高級店や、あまり凝った店だと、コストをかけて真剣に他店との差別化が図られるためか、もっと上等なものが添えられている。「ちょっとよい」くらいの程度の店でないと、ビスコフにはお目にかかれない。

 何年か前、ブルノでコーヒー卸売業の知人を訪ねた際、エスプレッソといっしょにビスコフを出してくれた。「ちょっとよい店」のように。

 ──むろん、くぐらせた。やらいでか。かすかにシナモンの薫るカラメル味の生地が、熱いコーヒーといっしょに口のなかで溶解する。小麦粉に大豆の粉がブレンドしてあって、この絶妙な溶け具合になっている。それからコーヒーをいただく。この場合のコーヒー自体はブラックが好みだが、ホワイトないし、ウィーン風にいうところの「ブラウナー」でもかまわない。どんなコーヒーにでも合う。

 「うわっ」という表情をおもわず浮かべたのは、件の知人のビジネスで共同経営者だという青年だった。おそらく、でろんでろんのトーストを目撃したときの小学生の自分と同様の気分になったのだろう。「うわー、気持ちわりい」「どうしてそんなことを」「なぜだ」って。それをみて「若いな」とおもった。じっさい若かった。しかし、コーヒー問屋がこれでは……。老婆心ということばがあるが、ひょっとすると祖母もこんな心持ちだったのだろうか。

 ──知人に諫められたものか、その次に会ったときには、この若い彼も、すました顔をして、ビスコフをさっとコーヒーにくぐらせるようになっていた。驚くにはあたらない。「くぐらせる文化」は、こうして伝播してゆくからだ。