ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

バンデーラ賊がやってくる

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 近年のウクライナの政権は、ステパーン・バンデーラら民族主義者の名誉回復や顕彰を推進してきた。それでウクライナナショナリズムといえば、まずバンデーラ賊を連想してしまう。そして、それについて報告したミハル・マレシュの短い記事を思い出す。

1)バンデーラ派

 そもそも独立したウクライナ国家が成立したのは、第一世界大戦末期の一時期だった。ロシア、オーストリア=ハンガリー、ドイツという三帝国のはざまに咲いた、はかない徒花であった。ロシアは、ソヴィエト連邦という皇帝なき帝国に脱皮しつつあり、後二者にも帝政崩壊の刻が近づいていた。

 1920年、パリで条約が結すると、ウクライナ領土は分割され、国家消滅が決定的になった。ここにおよんで、元軍人ヨウヘン・コノヴァレツは、プラハにて武装闘争のためウクライナ軍事組織(UVO)を立ち上げた。いったんは、ポーランド当局によって解体されたものの、1929年にウィーンでふたたび設立した。こんどはウクライナ民族主義者組織(OUN)といった(以下、Stanislav A. Auský, _Dobrovolníci a druhá světová válka_, Praha 2007などによる)。

 創設者・コノヴァレツがソ連によって暗殺されると、OUNはアンドレイ・メルニクに引き継がれた。当初の主敵はポーランド政府であったが、ミュンヒェン合意後には、チェコスロヴァキアのポトカルパツカー・ルス地域へ活動拠点を移した。それでもドイツおよびハンガリーが進駐してくると、ガリツィアへ、はたまたルーマニアへとほうぼうへ逃れていった。

 このメルニク派(OUN-M)から袂を分つことになったのが、急進的なステパーン・バンデーラの一派であった(OUN-B)。

 1939年末には、現在のウクライナ西部地域でソ連を相手に武装闘争を開始した。このころすでに、ドイツ国防軍情報部と接触をもっていたが、のち同軍のもとにローランとナイチンゲールなる二個の大隊として編成し直され、対ソ戦に投入された。この時期、メルニクもバンデーラもドイツ当局に拘束され、連合軍に解放されるまで監禁されつづけた。

 ところがスターリングラードの敗北で、ドイツの前途に翳りを見た元のバンデーラ派の構成員たちは、1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)として再結集をはかった。タラス・チュプリンカ、本名ロマン・シュへーヴィチのもと、ドイツ、ソ連ポーランドの正規軍および、一時は元のOUN-Mをも敵にまわすこととなった。

 アウスキーの前掲書によると、ウクライナ人兵士は最大で25万人いたと見積もられている。うち残党は、大戦終結後も戦闘を継続し、赤軍ポーランド軍チェコスロヴァキア軍の合同による掃討作戦が、1950年代までつづいた。

 バンデーラは名目上の指導者でありつづけたものの、解放後も逃亡生活を強いられ、1959年にはついにソ連によって爆殺された。したがって、武装集団の先頭に立っていたわけではない。にも拘わらず、人びとはこの集団を「バンデーラ賊」と呼んだのだった。どのような思いで、そう呼んだのだろうか。


2)バンデーラ賊

 ジャーナリストのミハル・マレシュによる、バンデーラ賊についての記事が、情報が錯綜した当時の様子を伝えてくれる。

 ここでの「バンデーラ賊」とは、チェコ語の「バンデロフツィ」の訳であるが、マレシュは「ベンデロフツィ」という、別のヴァリアントを用いている。

 当該記事の初出は1947年で、週刊誌『今日日』とある。トマーシュ・マサリクの創刊した『現在』の流れを汲み、短命のチェコスロヴァキア第三共和国で、おなじく短期間のみ発行された雑誌であった。以下、抄訳。

   バンデーラ賊が迫りつつあり……

 現在、北部および東部スロヴァキア全域で、厳しい非常事態が布かれている。住民は夕刻8時から朝の6時まで、特別な許可を得た場合をのぞいて、外出を禁じられている。バンデーラ賊が所在しているためである。また現状として、この徘徊せる男たちについての過大に幻想的で、誇張されたうえに曖昧で、恐怖をかきたてるような報せが、共和国じゅうで流布している。殺人、流血、強盗、その他の犯罪、はたまたアメリカ・ドルほかの貴重な貨幣が、このならず者たちの手に渡っている、等々。実態にかんして公式な発表でもあれば、確実に解明に資するところであろう。

 バンデーラ賊の一団は、みずからの生命以外に失うものがなにもなく、あるいは西方のどこかに逃げ込むことにわずかな希望をみいだしてはいるが、それも東に行けばゆくほど確実に破滅への道で、ときに絞首台へとつづいているからだ。軍事的、政治的、刑事的に罪を着せられた者たちの集団なのである。つまりは様々な軍隊やギャングからの脱走者たちで、軍事的・戦争的な生き方から簡単に脱け出せなくなってしまった者たち。これまで戦争の後にはかならず生じてきたし、これからも生じつづけることであろう。盗賊的な騎士といえば、似たようなことをスロヴァキアの民衆たちは語り継いできたものだ。どこまでが狼藉で、どこまでが騎士道なのか、それが明らかになるのは時間の問題であろう。しかし、大衆はヤーノシークの冒険譚を好むものだ。つまり、各国軍からの脱柵者らといっても、ポーランド人、ウクライナ人、ルーマニア人、フリンカ親衛隊員、ドイツ人、クロアチア人、そしてフランス人の集団までもが含まれているともいわれているのである。これは、現地で仕入れた情報を、ここに提供しているだけのことである。混じりっ気なしの葡萄酒の出どころは公的な機関であることは保証しておく。

 バンデーラ賊は、いってみれば、あまり目立たないような静かでこまごまとした戦争を遂行しながら、連中にとって破滅を意味する東を脱し、西をめざしているということは明白である。すでに数名がモラヴィアに姿を現しているが、連中の渇望するところでは、ボヘミアを通過してオーストリアバイエルンへいたるはずで、その先を察するに、たとえば外人部隊にはいるなどして、そこで何でも容れられる氏名をおびて一生涯みずからの軍事的スキルを活用し、手柄をたてて新しい市民権を得ることなのかもしれない。連中のうちの多くが、本物の反動勢力の助けに望みを託しているのも確かである。しかし、おおかたのバンデーラ賊は、あらゆる除け者らと同様、どこかで平和のうちに、まともな仕事によって人生を満たせるなら、満足するにちがいない。 ところが、戦争が残したおおくのものには、どういうわけか小銃、手榴弾短機関銃を擱くことができなくなった、こうした武器に育てられた赤児のような人間もいる(武器を持っていれば、わずかに安心して眠ることが約束される)。

 この雑多で確実に危険な集団を、あらゆる犯罪をおこしかねない若者衆のように語る者もあれば、軍規をもってよく組織されており、一般市民にはおおむね友好的で、紳士的にふるまう個人の集まりだという者すらある。この結果が、不安という面のいっぽうで、すでにふれたヤーノシーク譚の一面というわけだ。多くのバンデーラ賊の要素の寄せ集めは、その両方を放っている。まったく別のごろつきによる勝手な行為が、バンデーラ賊のせいにされていることも確実にあるだろう。スロヴァキアでは、子どもがインディアンごっこではなく、バンデーラ賊ごっこに興じるほど、バンデーラ賊がすでに騒がれる存在になっている。おとなたちの妄想が、情報の砂漠地帯に置き去りにされるいっぽう、子どもの空想はさかんにひろがっている。私がモラヴィアからスロヴァキアに行ったとき列車内で会話した、五十がらみの公安[SNB]の上級曹長ということにしておくが、そのひとはスロヴァキアではすでに5千の犠牲者がでていると確信していた。すると、ふつうの民間人が噂することは、おのずと想像がつく。公式には、モラヴィアで4人組のバンデーラ賊徒が警察組織に捕捉され、うち1名が射殺され、1名が確保され、2名が逃亡しおおせたという報告しかない。ポーランド軍との小競り合いや戦いの中で、毎日のように新たな集団が侵入してきている。バンデーラ賊のうち排除できるのは、逃走するなどして西方に逃れた者と、戦闘のなかで始末された者だけだ。

   [中略]

 実情として、A村に突如、40から100人のバンデーラ賊の集団が出現する。生存に必要なものをすべて徴発し、あるときは金子を支払い、あるときは支払わず、翌日にはたとえば100キロ離れたB村にすでに姿を現す。誰も予期だにしない場所である。このように、ひじょうに機動的ですぐれた諜報部のごとき戦術といえる。バンデーラ賊のうちのかなりの部分が住民の人心を掌握しようとし、ときには成功していることはほぼ間違いないだろう。とりわけ、物品徴発の支払いが良貨であった場合である。米ドルを夢に見ない者はないのではないか。

   [後略]

-- Michal Mareš, "Benderovci se blíží...", _Přicházím z periferie republiky_, Praha 2009, 432ff.

 

 とくに1946年頃までは勢いがあり、一定地域を確保していたというUPAであったが、1950年に首魁のシュへーヴィチが殺害されてのち、急速におとろえたといわれる。

 だが、上のマレシュの記述をすなおに受けとれば、1947年当時の「バンデーラ賊」というのは、さまざまな勢力からの敗残兵や落伍者、その他大勢を吸収して、すでに流離びとの群れに堕していたようにもみえる。すくなくとも構成する人員からすると、純粋にウクライナナショナリストによる戦闘集団という面影も薄くなっている。マレシュはそう捉えている。どの言語を話そうが、ウクライナの独立のために戦うという集団もあり得なくはないとはいえ。「米ドル」の出どころを憶想するに、大国の思惑に翻弄される宿命にもおもいあたる。

 あるいは、文中でも示唆されているが、UPAとは関係のない集団でも、すこしでも胡乱な輩とみるや「バンデーラ賊」だと噂したのが、一般大衆だったのかもしれない。そうして臆測が飛び交うなか、マレシュは、自己申告してもいるように、確認された情報を有体に伝えようとしていたようだ。また、賊にたいしても戦争の結果だとして同情的なところが窺え、推測を交えながらも公明正大に論じようとしているふうではある。

 昨今のウクライナ情勢の記事でも「足で書く」記者には頭が下がるが、マレシュにも、まさにそんな印象をいだく。現在も、各種のメディアをつうじて、米露いずれかに都合のよい相矛盾する情報が、それぞれさかんに報じられている。ましてや、SNSなどない往時の混乱は推して知るべしだ。

 ミハル・マレシュ(1893-1971)はもともと、チェコスロヴァキア共産党系のチェコ語およびドイツ語の媒体で健筆をふるっていた。ところが、戦後、ドイツ語話者追放後の国境地帯における略奪や権力濫用、また非人道的な事例などを曝露したがために、1948年に共産党を除名されたうえ投獄されたといわれる。記事を読むと人柄がしのばれ、共産党に恐れられた所以にも思い至る。

 たほう、先日、ウクライナ情勢にかんして不適切な発言をした咎で、ドイツの提督が司令官職を更迭された由の報道があった。これについては、また話が別で、政治家や官僚・軍人は、状況によっては「本音」や「正論」を口にしてはならぬときがある。職務上、政府の「大義名分」ないし「建前」を支持せねばならない立場だ。

 日本政府や国会にしても、「力による現状変更は断じて容認できない」(衆議院決議)というお題目は妥当なものであろう。西側の一員として、ロシアに対して毅然たる対応をすべき、ということになる。外国から尖閣・沖縄を脅かされている国としては、それ以外の発信はありえない。

 いずれにしても改めて見ると、ほかにもいろいろ示唆的な文章であった。報道によれば、米国は再三再四、ロシアに経済制裁の警告をあたえている。バイデン大統領の頭の中では、いまだに米ドルは諸国民にとっての「夢」なのかもしれないが。

 

*参照:

www.bbc.com

www.bbc.com

www.bbc.com

*追記:

www.bbc.com

www.bloomberg.co.jp

gendai.ismedia.jp