国境の町は、大陸欧州に数知れない。訪れてみると興味ぶかい体験がある。
チェスキー・ティェシーンČeský Těšínは、そのひとつ。片割れの名は、チェシンCieszyn。かつてテシェン公国Herzogtum Teschenの都だった。
ティェシーン、あるいはチェシン
チェスキー・ティェシーンの鉄道駅から北へ歩くと、目のまえを横切るように川が流れている。オルザ(オルシェ)川だ。橋を渡ると、欧州連合(EU)の青地に星の標識が立っており、国境であることがわかる。そこから北は、ポーランド領「チェシン」である。
住民は程度の差こそあれ、ほぼ例外なくバイリンガルで、物心ついたときからポーランド語もチェコ語も解する。どちらの放送メディアも視聴すれば、活字媒体も購読する。それぞれの領域をまいにち往き来しながら生活をおくっている。
ソ連の衛星国のよしみなのかと思いきや、むしろ東西冷戦時代には越境を伴う移動は制限されていたそうだ。いまのライフスタイルは、東欧革命による民主化がもたらした自由だ。といっても、その後しばらく、まだEUもシェンゲン協定も無縁だった頃は、税関を通る人びとで長蛇の列ができていた。煙草や酒など、安いほうで仕入れた品を高いほうで売る転売稼業に多くのひとが精を出したらしい。物を動かすことで豊かになるのはよいことではあったが、いまとなっては、どちらの側でも好きな店へ行けばよい。
動かせないものもある。中世のロトゥンダをはじめ、ピアスト王朝の居城の名残りである宮殿や、主だった広場をふくむ歴史地区は、ポーランド領に属している。瀟洒な街並みも小洒落た商店もみな、ポーランド側にある。歩いてみると、川を挟んで南部から西部にひろがる「チェスキー」側は全体的に灰色で、朽ちた集合住宅がうらぶれた風情を醸していた。
南側の人びとが「町のいいところはポーランドが全部もってっちゃった」と嘆くのも無理はない。
チェコスロヴァキアとポーランドのあいだには、かつて「北方領土問題」が存在していた。両者は、戦後の混乱も醒めやらぬ1919年、このオルザ地域(トランス=オルザ、ザオルジェ、ザーオルジー)をめぐって武力衝突まで起こした。ちょうど今ごろの時期、1月下旬だった。七日間戦争とも呼ばれる。
直接の争点は、交通の結節点という地勢と鉄道インフラの帰属だったとされるが、当時にしても地元の住民にとってはどうでもよかったに違いない。結果的には、翌年のパリにおける協定で、チェコスロヴァキアは念願どおり、スロヴァキア方面への連絡手段たる鉄道と炭鉱を手に入れた。それにも拘わらず、現代の一般市民の視点からみれば「いいところ」はポーランドにもっていかれたと感じるようだ。国益のための戦略資源も、日々の暮らしの役に立たねば、庶民にとって意味はない。
しかし、国境が実質的に消滅した今日では、平素から「いいとこ取り」が可能だ。たとえば子どもたちが教育を受ける場合も、希望する専攻課程によって、川の「こっち側」か「あっち側」かと、大学や各種学校をえらぶことができる。お得な感じがする。同じクラスの友人どうしであっても卒業後は、こっちの言語か、あっちの言語で教育を受けることになったりする。
「チェシン人」
あるとき、たまたま仕事で知り合った女性ふたりも、ちょうどそんなふうであった。「あんた、どっちだったっけ。あっちの学校いったんだっけ」「あんたは、こっちの大学だったんだっけ」などと言い合っていた。若い時分の数年間のことで、ふだんは気にしたこともないのだろう。
そこで、もっとも興味のあることについて訊いてみた。行き過ぎた質問なのかもしれないと思ったが、訊かずにいられなかった。
──自己認識における帰属意識、自己規定というようなものか。つまり、両方の国にまたがって暮らし、両方の言語をしぜんに使い分けながら、自分がチェコ人であると思っているのか、はたまたポーランド人であると感じているのか……
すると、ふたりは文字通り、顔を見合わせた。どうやら、当事者らにとっては当たり前すぎて、どう応答すべきか苦慮する問いだったようだ。
──そういうのは無いのよ。
──しいて言えば「チェシン人」かな。
素朴な思い込みに気づかされ、またそれが崩壊した瞬間だったのかもしれない。
ナショナル・アイデンティティというのは誰しもがもれなく有しているものだと、我ながら薄ぼんやり考えていたようだ。たしかに、不勉強ではあった。とりわけポーランド側のオルザ地域における脱国家志向についてすらも、このときは知らなかった。ベスキーデンラントやティロールなど個別の事例にかんしてわかったつもりになっていた反面、トランスナショナルのアイデンティティ問題について全般的に無理解であった。
それも致し方なかった。じつは、すぐのちに出来した史学の研究書にヒントがあった。19世紀から20世紀のはじめにかけて、ボヘミアとドイツの国境地帯における農家や労働者階級の家庭では、子女を「もう一方の」言語を話す家族のもとで生活させて、バイリンガルに育てることが一般的であった。それが、民族主義の風潮が昂ずる折り、脅かされるようになったのだという。
政治史の、あるいは社会史であっても、従来の主だった研究は極端な事例の叙述に偏りがちであったものか、その時代をナショナリズム一色の社会だったかのように、読者に錯覚させてきたようだ。一般の庶民は、ことさら民族性というものをつよく意識して暮らしてたわけでもなかったらしい。すくなくとも、史家ターラ・ザーラの件の研究によって、その可能性が示された。
なかんづくチェシンは、言語的にさらに多様であった。チェコ語とポーランド語のほか、帝国末期にはドイツ語話者の人口がもっとも大きく、時期によってはハンガリー語のコミューニティーもあった。もとよりドイツ系シレジアといえば、別の文脈の分離主義があった。くわえて文化的には、ユダヤ教徒も重要なファクターだった。
トランスナショナルなコミューニティーでは、多文化の共存を際立った個性と感じないことは確かだろう。中央ヨーロッパのナショナリズムとは、しばしば類型として「エスニック・ナショナリズム」とされ、言語につよく規定されることが前提となっている。だが、そんな図式的な理解は、個人の水準ではかならずしも自明のものではないのだと思い知った。
内心の選択肢
むろん、チェシン住民のすべてが一様にこのような考えであるわけではないだろう。ふたりにしても「しいて言えば」の話であって、また住民は必ずしも「テシェン公国」として独立したがっているわけでもない。その必要は感じないはずだ。複合アイデンティティの一ではあるのだろうが、見方によっては「境界アイデンティティ」といったほうがよさげだ。もしくは国の帰属にかんしては「ヌル・アイデンティティ」か。
しかし、他人の内心の問題はけっきょくわからない。たとい実験心理学の数値を見たところで、究極的には想像するしかない。個人的な感覚からの類推である。
そこで、たとえば「遠隔地ナショナリズム」を想定すれば、外国で日本人であることにしがみつきたくなる気持ちもわからないではない。けれども経験的にいえば、日本から遠く離れ、ながらく日本語も口にしない日々をおくっていると、ことさら自分が日本人であるとは念頭に浮かばなってもくるものだ。おまえは中国人か、日本人だったらもっと目が細いはずだ、ヴィエトナムだろう──などと言われて暮らしているうちに、人種は意識せざるを得ないとしても、帰属などという厄介なものは逆に疎ましくなり、少なくとも、どうでもよくなってくる。心持ちのことであるから景気循環のような波はあるにせよ、もっと多くの言語において能力が高ければ、つまるところポリグロットの人びとにいたっては、なおさら無頓着になるものではないか。
イメージにちかいのは、たとえばヨーゼフ・ロートの小説に出てくるような、前近代的な貴族だ。外交や社交ではフランス語、庶民との会話は現地の諸々の土語と、幾つもの言語をあやつり、欧州各地に点在する領地を飛び回って暮らす。皇帝の臣民だとは断言できるとしても、どの民族に属するかなどという問い掛けは、やはり愚問だったろう。陳腐で大雑把な表現だが、コスモポリタンというほかない。「ミスター汎ヨーロッパ」のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーも、あるいはそうだったのかもしれない。
ところで、外交の現場にいた佐藤優の著作を読むなどするかぎり、日本の北方領土問題・交渉もかつては、このいわば「境界アイデンティティ」の創出を解決の一方途としてきたと捉えることができる。日本人とかロシア人とかいう区分ではなく、「南クリル=千島・北方領土民」のようなアイデンティティをもった人びとが互いに双方を往来するうちに、「領土の主権」という視角は徐々に後景に退いてゆく……はずだった。政権が移りかわるなか、外交政策も変転し、いまでは解決の可能性が遠のいた観は否めないが、かろうじて二国間の懸案としてぶら下がっているようにも見える。「日ソ共同宣言」の有効性を首脳どうしで確認した「シンガポール宣言」という、首の皮一枚で。
とまれ、ウクライナ情勢に世界の目がそそがれるなか、思い出さずにはいられない体験だった。ウクライナ人という自己規定を強要された、ロシア系住民の憤懣が想起されたからだ。法律上はともかく、心理的には、あのチェシンのふたりみたいな「どちらの民族でもない」という選択肢もあり得たはずなのだが。──もちろん、これはプーチン露大統領の国家観や西側諸国の思惑とは何の関係もない話だ。けれども、民族や言語をめぐる時代錯誤の幻影が、隣国に付け入る余地を与えることになったとはいえまいか。