ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

シンデレラたちと成長の神話

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photo by Alain Audet

 2019年末に目を瞑って、ふたたび目を開けたら、2022年元旦だった──というインターネット・ミームがある。まさにそれ。ここ2年間の記憶が、なんだか曖昧な感じだ。

 それだから、おおくのひとが節目を実感できる行事や娯楽を欲したのではと想像する。ちょうど、クリスマス・年末から正月にかけては、そういう時節ではある。

 とはいっても、大晦日に放映されているNHKの「紅白歌合戦」は視聴率が低下しているらしい。反面、年末年始の「シリーズ全話一挙放送」のような再放送の企画は地上波でも増えてきた。

 ヨーロッパでは、たいてい国ごとにクリスマス期におなじみの番組というのがある。各局の予算規模の差異を捨象して、どちらが頻繁に過去の番組を再放送しているかと比較するのも公平ではないかもしれないが、印象としては、なべて欧州では以前からの傾向ではあった。わけてもこの時期は殆どの職員が休暇をとる関係から、なおさら都合よいにちがいない。たとえば、英国で『モンティ・パイソン』のスケッチが世代を超えて知られているのは、こうした再放送のためらしい。

国民的シンデレラの死

 東ドイツチェコスロヴァキア合作によるシンデレラ絵巻も、この例に属する。1973年制作の『灰かぶり姫とみっつの榛の実』である。

 いまでもチェコ共和国では12月24日の夜8時台に放送されるのが慣行で、ディナーのさいちゅうでも音声だけ聴いているという家庭もあるのだという。制作国だけでなく、ノルウェイなどでも人気があるらしく、リメイクの計画も報じられていたほどだったけれど、続報は記憶にない。その後どうなったのだろう。

 今期、つまり2021年のクリスマス・イヴは、とくに感慨ぶかく観入った家族もおおかったかもしれない。主演のリブシェ・シャフラーンコヴァーが、半年ほどまえに亡くなったばかりだからである。68歳というと、さいきんでは早すぎる印象があるも、肺癌の困難な手術を受けていたとも伝わっている。告別の行事がプラハや、生まれ故郷のブルノ近郊シュラパニツェで行われたものだった。

 シュラパニツェは、たまたま日本人の知人が住んでいたことがあって知っているが、なにもないような知られざる鄙だ。そこから全国区で「リブシュカ」と愛称で呼ばれるまでに伸し上がったことになる。そして、共産期・正常化時代のスターでありながら、民主化後も「シンデレラ」でありつづけた。つもる雪のなか白馬を駆る少女の姿で、今後も人びとに記憶されてゆくのだろう。

 継母らに虐げられる末の娘であるシンデレラは、魔法のヘイゼルナッツに願をかけ、変身をくりかえす。映像としては、歌舞伎でいう「早替わり」にも通じるが、いずれもきらびやかな衣裳である。そして、舞踏会で王子さまに見初められ……と、あらすじにはニェムツォヴァーとグリム兄弟が下敷きにある。

 おおくの日本人の念頭にあるのは、ひょっとするとかぼちゃの馬車がでてくるディズニー版のストーリーかもしれない。それでも、シャルル・ペロオを澁澤龍彦の訳で読んだという読書人もすくなくないはずだ。また『落窪物語』はどうなんだという文学に通じた向きもあるだろう。いずれの版にせよ、素朴な変身願望や救済願望をみたしてくれる、神話的かつ牧歌的ないいつたえである。


西側のシンデレラ

 いっぽう、オーストリアにもTV映画版のシンデレラがあった。クリスマスの定番ではないけれど、ことしは元日に公共放送・ORFで放映されていたようだ。

 『ターフェルシュピッツ』(1992)といった。タイトルは含蓄があるとはいえ、食肉の部位であり、同国がほこる名物料理の名にもなっていることは周知のとおり。それもそのはず、老舗レストランの娘によるビルドゥングスロマーンである。つまり「成長」の物語だ。そのじつ、かなり俗っぽいドタバタ劇でもある。

 主人公・リリーは、若くして調理の才覚にめぐまれている。店を切り盛りする実母から本格的に家業を継ぐまえに、オ・ペアの仕事に応募し、ひとりベルリンに出立する。要は、住み込みのベイビーシッターだ。そこへアメリカ人の投資銀行家が訪ねてくることになったが、でたらめな料理しかできないホスト家庭の主婦にかわって、リリーが調理を引き受ける。すると、その味がいたく気に入った銀行家、トマス・ジェファソン6世とかいうのが、リリーとは面識もないまま、料理人をニューヨークに招聘したいと後日、秘書をつうじて打診してくる。リリーは、ベルリンからニューヨークへ飛ぶ……。その後は、トマス・ジェファソンとのロマンティック・コメディとなる。その秘書なる男にしろ、生き別れたリリーの実父であることが判明するというご都合主義っぷりで、ますます安っぽい展開となってゆく。それでも、物語の本質は「シンデレラ」そのものだった。

 衣裳の「早替わり」の趣向もやはりあった。さいきんよく見かけるオーヴァーサイズぎみのコートなども作中に描かれていたが、そういえば1980年代から90年代にかけてのファッションだった。1992年といえば、直前にソ連が崩壊している。冷戦が終わって、新たな時代がはじまっていた。当時のグローバル化や、つづいてやってくる新自由主義や情報化の波を時代背景としてかんがえると、その浮ついたノリにもなんとなく得心がゆく。

 こうして、制作時代もことなる東西の「シンデレラ」をくらべてみれば、皮肉にも社会主義体制下のほうが純粋に夢を見られたのかもしれないと気づく。

 むろん、ドイツ社会主義統一党チェコスロヴァキア共産党がこのシーズンに美少女によるシンデレラ譚を放映させた所以を斟酌すれば、こうした感想こそ連中の思う壺で、このあたりの心理にオスタルギーの誘惑やポピュリズムの罠も潜んでいるのであろうが。


もうひとりのシンデレラの死

 ボヘミアモラヴィアでは、大戦が終結するや各地の住民がドイツ語話者を町から追放した。戦前、国内人口の約3割を占めていたといわれる。なかんづくズデーテンとよばれた地域には、そのために空っぽになった集落も多くあった。その空いた住宅を中央政府に斡旋されたのは、あらたに植民してきた人びとだった。──あるとき、訛りが一切なく人工的にうつくしくチェコ語をはなすひとがいて、尋ねると、こうした呪われた故郷の歴史をおしえてくれた。町全体が、土着の文化から切り離された移住者の末裔なのだと。

 こうした地域では一般に、共産党社会主義的な政策は支持されることはあっても、厭われることはないと想定されうる。直近の選挙報道をながめても、かつてのズデーテンにあたる諸地域やオロモウツ県などで、共産党やANO党など左派の支持が高かった。また、失業率がたかい地域もほとんど一致している。辺境の土地でひとを追放するというのは、なけなしの属人的な地場産業を破壊する行為でもあったことだろう。単純化してひとつの線で歴史を語るのも胡乱なこととはいえ、物語の文脈としては考慮されうべき点である。

 しかし、くりかえされたロックダウンや行動制限、営業規制のさなか、とくに疲弊した地域を思えば、ばらまき的な政策の是非をことさら問うのもナンセンスであったことだろう。統計上は、コロナ騒ぎによってむしろ儲けた人間や企業のほうが多いらしいとはいっても。いずれにせよ、ビロード革命から30年も経つと、社会には厳然たる格差がうまれている。公的支援にすがるひとがあったいっぽう、なにも困らなかった富裕層もとうぜんいる。

 リブシェ・シャフラーンコヴァーの訃報から遡ること数か月、チェコ共和国ではもうひとりの「シンデレラ」の死も報じられていた。同国でいちばんの富豪と謳われた、ペトル・ケルネル氏である。登記上オランダに本部を置く投資会社・PPFグループの創業者でありオーナーであったが、2021年3月末、スキーをたのしんでいたアラスカで、ヘリコプター事故のため死亡したと伝わった。物語論には「英雄の非業の死」はつきものだが、スキーはともかく、アラスカにヘリコプターと聞けば、庶民には「かぼちゃの馬車」にもひとしい。輪をかけてお伽噺のようにも響く。

 とはいえ、英雄死すとも、資本主義は死なず。報道によれば、同氏の死後もグループはM&Aを続行し成長をつづけている。


セドラーチェク

 昨今「新しい資本主義」という、なぞのような概念がひとり歩きしている。社会主義のようなものではないか、とも揶揄されている。岸田総理についての記事をよむと、そうとうやさしいひとのようで、やはり他人のいうことを「聞く力」に長けているようだ。だからこそ「分配と成長」だか「成長と分配」だかにしても、いずこへ向かうのかさっぱりわからないという先行きの不透明感におおわれている。株価のほうも、新年正月4日の大発会こそ御祝儀相場となったが、その後は上値が重いようにもみえる。

 近年、経済学の潮流を紹介するNHKの番組でとりあげられた理論家に、トマーシュ・セドラーチェクがいる。ヒントになるかもしれない。

 チェコスロヴァキア民主化後まもない時期に、23とか24とか、はたちそこそこという若さで、ときのヴァーツラフ・ハヴェル大統領に経済担当顧問として仕えた。「大抜擢」という意味では、このひとも「シンデレラ」と呼んでもよいのではないか。代表作『善と悪の経済学』は、チェコ語ではすでに第3版が刊行されており、日本語をふくめ世界で21の言語に翻訳されたのだという触れ込みである。

 基本的な主張は、件の番組制作班による『欲望の資本主義──ルールが変わる時』(東洋経済新報社刊、2017)にて、インタヴュー形式で簡潔に述べられている。

 同書は、不平等の拡大・拡散に警鐘を鳴らすジョウゼフ・スティグリッツに取材した章から始まる。この碩学はといえば、これまでのような資源を喰い尽くすがごとき成長はもはや不可能だが、別の形の成長は可能だし、貧困層を救うためにも必要だと言っている。かたやセドラーチェクは、こうした「成長は善きこと」で「経済は成長しつづけねばならん」という思い込みこそ根拠がなく、問題であると喝破する。

 セドラーチェクは、2020年のロックダウンの季節にあって、チェコ語のメディアにも登壇していた。その際には、ばらまき的な政策にも慎重な姿勢を示していたのをおぼえている。つまり、非常事態のさなかにあっても、財政にかんしては相変らず保守的だった。ということは、成長にも分配にも否定的ということになるのだろうが……。

 上掲書では日本とチェコ共和国の対比も多く、また全般的にセドラーチェクが論じるいわば「人文経済学」は比喩が分かりやすいので面白い。が、個人的にはいささか「空想的資本主義」の感もいだかざるを得なかった。所詮は一知半解による憶断かもしれないが、総理にしても「流行ってるみたいだから言ってみた」くらいの小噺であったら助かる。

 さて、新年こそ世界中すべてのひとに、成長と分配のご加護がありますように。シンデレラ・ストーリーとはいかぬまでも……。