ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

カラマーゾフと聖書と翻訳

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photo by Evg Klimov

 はるか昔には生真面目な学生だったから、ある日の講義でも文献リストにあった聖書も、すぐに入手したものだった。翌週までに最低限「福音書」は読んでおくようにとの指示ではなかったか。書物全体に比べたらほんのわずかの部分にすぎない。このときの「新共同訳聖書」というのは「共同」とはいうものの、どちらかというとカトリック側の見解がつよく反映されている……とは佐藤優の新刊に書いてあって、それで思い出したわけだ。

 ことしの11月11日はドストエフスキー生誕200周年で、これを機に刊行されたとおぼしい、佐藤優『生き抜くためのドストエフスキー入門』を読んだ。「目から鱗」の連続というやつだった。前述の新共同訳のはなしも、そうした脱線的な解説のひとつである。

 神学者にして、かつて「ラスプーチン」とも呼ばれた元外交官の著作活動も『国家の罠』や『自壊する帝国』から、かれこれ十五年か。今では「知の巨人」とよばれ、毎月のように新刊が出る。上に記した初期の自伝的ノンフィクションに出てきた「サーシャ」のその後の人生も今回あかされており、長年の読者には驚きがあった。

 「4人分か5人分の人生」を生きたというほど波乱に満ちたこの作家のプロフィールは、まるでドストエフスキーが創作したキャラクターだ。『同志社キリスト教主義は人生にどう役立つか』[PDF]という講演記録のテクストに書いてある。もともと無神論を志して神学部に進んだのだというのだから面白い。

「それであなたは何を勉強したいんですか」「無神論を勉強したい」「ニーチェを?」「いえ、フォイエルバッハとかマルクス」。すると「うちにそういう本、たくさんありますから」と言われた。

 けっきょく組織神学を専攻しながら無神論も研究したのち、外交官としてのモスクワ勤務を経、さらに「国策捜査」という受難に遭ったことで、ドストエフスキー当人の経験をいわば「追体験」することになった。日本にうまれながら、これほど『カラマーゾフの兄弟』を読み解くのに有利な立場のひとは、なかなかないだろう。とりわけ『カラマーゾフ』だ。

 折しも200周年ということで、NHK〈100分de名著〉シリーズの枠で「ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』(講師:亀山郁夫)」が再放送されているようだ。ここでもやはり『カラマーゾフ』がドストエフスキーの集大成にして、最高傑作とみなされている。

 世界じゅうで愛好され、舞台化・映像化もされてきており、目にする機会も多々あった。学校でレポートすら書かされた記憶もある。けれども、これまで十全に理解できていたのかと問われれば心もとなく、しかもこの機会に上掲の書物などを読んでいるうちに、ますます自らにたいする懐疑が募って、また読まなねばならぬという気がしてきた。

 そこで、原書を読む能力のない不肖の身として、どの邦訳を選べばよいのかという問題につきあたる。いまや手軽な文庫版・電子版にかぎっても複数の選択肢があるのだ。

 2006年に刊行された亀山郁夫訳が最右翼だろうか。はじめて読んだときにはなかった新しい訳だ。じつは第一部はすでに手もとにある。たしかに読みやすい。このあたりは、電子版のサンプルをダウンロードして「前口上」あたりを比較してみるといいかもしれない。紙の本でいうところの「立ち読み」だ。

 新しいほうが現代の口語にちかいに相違ない。が、口語に近ければければちかいほど読みやすいということでは必ずしもないだろう。トルストイの邦訳についてはそう感じた。それでも、こうした文体までは読者の好みの問題にすぎない。けれど、読みやすい訳文を翻訳者が追求する過程で、どの程度の意訳が許容されるかということは、問題になってくる。

 例をあげれば、佐藤優は前掲書のなかで、「彼」とすべきところを「キリスト」と訳してしまうのは意訳しすぎだと、ある訳文を指弾している。だが、神学の門外漢からすると、この程度は許してもらわないと、前後の意味がとりづらく読了がつらくなる。「新共同訳」をはじめ、日本語の聖書が一般大衆にとって読みにくいのは、明らかにそこに一因がある。逆にそれを読み慣れているひとには、小説の作中人物が「彼」と言っても違和感を生じないのだろう。あるいは「彼女」ならばなおさら、かつて文人が造り出した翻訳のための語なのだが。

 たとえば、玉村文郎「対照研究と日本語学」(『新しい日本語研究を学ぶ人のために』世界思想社、1998)をみると、英国の元皇太子妃の事故死を報じる新聞記事が例に挙げられている。そこで玉村は、英語では“she”、フランス語では“elle”が用いられるであろうところを、日本の新聞では「ダイアナさん」が繰り返されていることを指摘し、「対等・目下でない人に対しては人代名詞の使用を避け、氏名・肩書きなどの名詞を反復するのが、日本語らしい表現法である」としている。

 つまりロシア語の会話にでてきた«он»が「彼」とされたり«ты»が「あなた」と訳されてしまっていたらば、現代日本語における日常的な会話文として読むばあい、決定的に不自然であり、ともするとぎこちない人物になってしまう。要するに、日本語の母語話者なら、そんな話し方をする奴はいない。

 ところが神学徒からみれば、テクストを文献学的に読み解く必要から、ここは「彼」と訳されねばならないところだ、という主張になるのである。ドストエフスキーは「キリスト」とか「ハリストス」とかいう語をだしていないし、文脈上は「偽キリスト」かもしれないのであるから「キリスト」では意訳のしすぎで不正確だと。それはそれでわかる話ではあるのだが、いずれにせよ厳密な訳と自然な日本語表現の両立は難しい。

 ついでに意訳に連関して思い出したのは、ある聖書である。翻訳といえば、なんといっても史上最大のベストセラーの例に如くはない。

 むかし、南ボヘミアで布教活動をしているという、ふたりのドイツ人と語学のコースで知り合った。観光がてらチェスケー・ブディョヴィツェの団体施設を訪ねたものだった。帰り際に、使い古しでわるいけどと断りながら聖書を一冊もってきて、見返しと扉の間の遊び紙にメッセージをしたためてから、餞別がわりに手渡してくれた。そのときの版が、_Hoffnung für Alle_といって、読者の理解のしやすさに重点がおかれたドイツ語訳聖書らしかった。

 『カラマーゾフ』にも引用されてあるから「ヨハネの黙示録8章11節」が、よい例になるだろう。「苦よもぎ」という星が落ちてきて水がにがくなる、というくだりだ。ロシア語ではニガヨモギを「チェルノブイリ」ということから、原発事故をめぐって、この「予言」が人口に膾炙したことは佐藤優も紹介している。また、われら酒呑みにお馴染みなのは、カクテルには欠かせない「ヴェアムート」ないし「ベルモット」などと呼ばれる酒で、名称は香りづけに用いられているニガヨモギの提喩である。それから、日本の芸術家にも愛された蒸留酒アブサン」がそのように呼ばれたのも、同じ植物をさす語「アプスィント」に由来している。

 ドイツ語となると、たとえばルターの聖書では»Wermut«と植物の名が直訳されているところが、件の_Hoffnung_版では»Bitterkeit«、すなわち単に「苦味」と意訳されてしまっている。酒類を嗜まれない向きはヴェルムートと言われても風味をご存知ないかもしれないし、「苦味」のほうが端的でわかりやすいに決まっている。

 しかしこうなると、なんらのイメージの広がりもなくなってしまう。誤解もないぶん、多様な解釈や類比もなくなる。わかりやすいが、つまらない。

 とまれ、意訳の匙加減については、厳密さと分かり易さのバランスが関わっており、両者が正真のトレードオフの関係にあるとすれば、なかなか難問であるようだ。

 なお、昨今ではウェブで検索するといろいろな聖書を参照することができる。また、スマートフォンの〈聖書〉アプリも便利だ。じつはiPhone 3Gの時代から使っているのだが、現行のヴァージョンでは「本日の読みどころ」みたいな箇所をまいにち指定時間に通知してくれる機能がある。最近はまいあさ目覚ましがわりで、これで数行づつの引用を寝転がったまま読んでいる。

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