ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコスロヴァキアの皿と燻しボック

 10月の28日は、チェコスロヴァキア成立の記念日。祝日のプラハでは、まいとしヴィートコフの丘で式典が執り行われる。

 そんなとき、皿が割れてしまった。

 頭上の戸棚から、ペッパーミルと胃腸薬の瓶が落下した。これまた意想外なカップルが心中したものだ。が、無事でよかった、と思ったら、その下に置いてあった皿が、直撃を受けて死んでいた。

 直径二十二センチほどのスープ皿で、縁が高くなっているからどんな料理をいれても便利な万能選手だった。もとは四、五枚ほどあったと思うが、十五年あまりのあいだに、最後の一枚になってしまっていた。最後の一葉……。

 素地は大したこともない。やや粗悪な材料らしく、釉薬にもむらがあった。その反面、見たこともない美麗な紺青色をしていた。プルシアンブルーというのだろうか。手製のボルシチやグラーシュをよそうと、とりわけ映えた。

 色彩こそプロイセンの顔料に喩えたものの、そのじつ裏側には「Made in Czechoslovakia」と印字されていた。うっかりしていたが、もう手に入らない。いずれにしても存在しない国なのだ。

 しかし、割れてしまったものはしょうがない。こういうときは……飲もう。

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Mazák Uzený Bock bez kosti
  • 名称:Mazák Uzený Bock bez kosti
  • スタイル:ラオホボック(バンベルクスタイル・ボック・ラオホビール)
  • 初期比重:16°
  • アルコール(ABV):6.6%
  • IBU:28
  • 醸造者:Mazák
  • 生産地:ドルニー・ボヤノヴィツェ、チェコ共和国

 世に言うボックビーアとは、アインベック市のアインベカー醸造所の製品に源を発している。バイエルンあたりの訛りといわれるが「アインベックのビーア」が転訛して「アインボックビーア」となったらしく、さらに語頭の「アイン」が不定冠詞のeinと誤認されて省略されるようになったものであろう。言語学の初歩を受講すると十中八九、英単語の「apron(エプロン)」が生じた経緯として、似たような説明を聞くことになる。

 この話にはつづきがある。偶然とはいえ、ボックBockとはドイツ語で雄ヤギを暗示する語でもあったから、ラベルなどに山羊の意匠が描かれることが多くなった。さらにそれがボヘミアで模倣されたとおぼしく、製品に同様の絵柄とチェコ語で山羊を意味するコゼルKozelという銘が用いられるようになった──というのは民俗誌家の説明である。

 少なくともひとつ、ヴェルコポポヴィツキー・コゼルとして現存している。かつてはボック・スタイルの製品も醸造しており人気を博したらしいとはいえ、いまではビアスタイルに関わりなく全ての製品に山羊さんが麦酒を愉しむイラストが描かれている。ちなみに現在、この醸造所はアサヒグループホールディングスの傘下となっている。

 いっぽう、本日の一杯。醸造所マザーク有限会社の製品は、名称を《ウゼニー・ボック・ベス・コスチ》といって、訳せば「骨なし燻製ヤギ肉」という意味合いになるが、これはクラフトビールらしい諧謔である。「ラオホボック」は『ガイドライン』には「バンベルクスタイル・ボック・ラオホビール」として記載がある。

 燻製モルトで醸された「ラオホビール」じたい、ひさかたぶりだ。バンベルクの《エヒト・シュレンケルラ・ラオホビーア》はお馴染みだったし、まいとし春には同じ醸造所の「四旬節ビール」をいただいていたものだが、もう数年ありついていない。もちろん、主としてコロナ対策の営業規制のためだ。

 マザークはといえば、ホドニーン近郊ドルニー・ボヤノヴィツェにある小規模醸造所。モラヴィアでも、民俗的にとくにスロヴァーツコと呼ばれる地方にある。

 液色はマホガニーを思わせる。燻煙香はマイルドでちょうどよい。あんがい「骨なし」というのは、この柔らかさを示唆するのかもしれない。 燻した1種をふくむ4種のモルトに由来する甘さもやや主張しているが、しつこいというわけではない。たぶん2種類のドイツ産ホップがバランスしているからで、それにしても苦みというほど感じることもない。本場のバンベルク勢にくらべると、さまざまな面で穏やかである。そして意外にもフルーティーだ。文句のつけようがない。


 ……かえりしな気がつくと、多くの飲食店がなくなっている。もぬけの店舗や、はたまた食料品店に様変わりしていたりする。テイクアウト専門に業態を転換できたところはまだ、成功事例の範疇といえよう。

 そういや、半年あまり前のロックダウンのさなか、風の便りに「〈あの店〉が廃業するってよ」と伝わった。

 ──あんなやつの店なんか潰れて当然だと、不肖わたくしも聖人君子ではないので、一瞬おもった。けれども、がらんとした空間をみせられても、なんの感慨も湧かなかった。それだけの時間が経ってしまった。

 オーナーもマネジャーも、モラヴィアの出身だった。

 シェフが試作したコース料理を試食しながら、マネジャーが社会主義時代の体験を語りだしたことがあった。子どもの頃のおやつが、ロフリーク一本だったといった。ロフリークというのは、味も何もしない湿気た麸みたいなシリンダー状の白パンだ。焼きたてであれば、ほのかに小麦の香りがする。いまだに入院時の朝食がこれ二本のみ、などという話は耳にする。

 マネジャーは、そんな自分に料理の味がわかるわけがないと開き直っていた。うまいかまずいか判断するのは自分の仕事ではないとも言い募った。けれども職分として、シェフに高額の給与を支出している根拠くらいは把握する必要がありそうなものだった。

 そういえば、形状は異なるが同じような味気ない生地の白パンで、ホウスカというのもあった。けれど、モラヴィアの地方都市にうまれた友人のひとりは、ビロード革命前の地元では見かけなかったといった。プラハを思わせる、都会的なパンだとおもっていたと述べた。

 チェコスロヴァキアはなくなったことになっている。たしかに、解体されて滅した。しかし、いまだにチェスコやチェキアやチェコ共和国などというものが存在するとも素直には思えないのだった。

 中央のポピュリスト政治家は、外敵の脅威についてさかんに鼓吹する。そうすれば、この手の格差から地方の有権者の目を逸らすことができる。けっきょくは、何も解決されず、分断が深まっていることがあとでわかる。

 ただ、こんどの首相候補モラヴィアの出だ。そうかといって、即ち期待できるということにはならないけれど。過去にもパロウベク、トポラーネク、ネチャス、ソボトカとモラヴィア出の首相はいたのだから。──思えば、トポラーネクは〈あの店〉で見かけたことがある。厨房からスタッフが「押すな押すな」のていで覗きこんでいたのが可笑しかった。あれは首相を辞任した直後だったのではないか。

 総じて気のいい馬賊みたいな連中だったが、もう会うこともない。店舗にしろ、やっていた人間にしろ、もうそこには存在しない。

 存在しない国の成立を祝う日に、存在しない国でつくられた皿も存在することをやめた。くらべる話でもないが、この一年半のあいだ皿以上のものを失ったひとも多いにちがいない。とまれ、すべてはラオホボックの燻煙香のように消えてしまった。諸行無常の秋の夕暮れだった。