ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

東岸西岸の変異ウイルス、遅速同じからず

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photo by suju-foto

 「燕が一羽とんだとて、春を意味するわけでなし」という諺言がある。イタリア語では「夏」というところ、ドイツ語やフランス語など、おなじ大陸でもアルプス以北で「春」といわれるのがふしぎである。ともかく、疑りぶかい人びとは、証拠能力の曖昧な事象にひとつ出くわしたところで、すぐに吉兆だと信ずる気にはならない。春一番が吹きましたとか、桜が開花しましたくらいで、浮かれることができないのが、ながく陰鬱な厳冬のなかでやりくりしてきた人間の、しぜんなメンタリティだと思われる。──なんのことはない。すっかりロックダウンに慣れっこになってしまった、世界中の人びとも似たような心持ちでいるのではないか。

 ちょうど日本のメディアには、いよいよ桜が開花したというニュースも出来した。東西を見渡せば、開花時期と同様、ワクチン接種の進捗もところによって様々である。気づけば春分も過ぎ、疫禍のさわぎがはじまってから一年がたっている。

 ところで、『文藝春秋』誌の塩野七生の連載がいつごろからつづいているのか、じつは知らない。たいていは古代ローマや現代イタリアと日本の政治とをくらべて、「日本しっかりしろ」というおちがつく様式美ではあるが、意外に愉しい。20年以上まえにベストセラーになったローマ人の作品群はさっぱり面白くなく、ギボンや弓削達のほうがいいなどと嘯いていた、いまおもえば生意気な若輩のひとりであった。そういう記憶に照らして「意外」という意味である。

 このあいだ、電子版の三月号(2021年2月発売)のエッセイを読んでみて、去年の同月号をダウンロードしてしまったかな、と思ってしまった。行動規制のなかの閑散としたローマ市内の様子がつづられていたからだ。びみょうに異なっていたのは、一回目のロックダウンとはちがって、住民のあいだの連帯感が失われている、という指摘であった。つづく、quarantineの語源となったヴェネツィア共和国の故事の紹介も、一年前さかんに目にした挿話だった。この全人類参加型のトラック競技も、もう二周目にはいっているのだ。

 まったく別の文脈から、市当局がスペイン広場の階段に腰をおろすことを禁じた、というのが報道されて久しい。たしか過剰な観光客に市民が辟易した由で、振り返ってみれば贅沢な悩みだったとおもう。けれども、ローマ在住の筆者がそのルールをご存知なかったらしく、警官に注意されたくだりなども興味ぶかかった。現地に住んでいると、住んでいるというだけで安心してしまうけれども、あんがい知らないことは知らないながら済んでしまうものなのだ。ちょうど東京に暮らすひとが東京タワーに登ったことがなかったり、横浜に生まれ育ったひとが中華街に不案内であったりするようなものか。日本人であればこそ、あえて日本文化を知る必要などないと胸をはってみせたのは、坂口安吾であったが。

 感染症対策に関しては、規制内容のこまかさにはもはやうんざりで、あえて細則まで知ろうとも思わなくなった。いつ終わるともしれぬ冬に、安吾ではないが、開き直りたくなるのも無理はなかろう。東西のどこに住んでいようと、こういう向きも多いと想像する。これが連帯感喪失の一面ということか。

 とまれ、緊急事態宣言が解除された日本とは対照的に、来月にひかえた復活祭にもロックダウンがつづきそうな、欧州である。

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

www.bbc.com

www.kansensho.or.jp