最悪の事態はまぬかれた。11月10日の午前1時を期して、ナゴルノ・カラバフをめぐる紛争で、アゼルバイジャンとアルメニアとのあいだで停戦が成立した。すでに停戦監視のロシア軍部隊がすみやかに展開しおおせたらしいことから、4度目となる今回ばかりは合意が確実に履行されるものと思われる。
おそらくアルメニア占領地域の譲渡が行われるとみられ、事実上のアゼルバイジャン側の勝利と報道されている。アゼルバイジャン軍は、無人機の大量投入による電撃戦により、所期の目的を達したということであろう。お祭り騒ぎのアゼルバイジャンの首都・バクーの様子も動画に見られた一方、アルメニアでは議会が紛糾し、首相官邸にいたっては略奪に遭ったとも伝えられている。さしづめ、アルメニアのいちばん長い日だ。
「集団安全保障条約」にもとづき、アルメニアとの同盟関係にあるロシアは、山岳の稜線に部隊を配置するなどして牽制し、アゼルバイジャン軍の攻撃がアルメニア本国におよばぬように努めていた。ロシア軍のヘリを誤って撃墜までしたアゼルバイジャン軍は、首都ステパナケルトを目前にするも、もはやつっぱねることも難しくなったものか、けっきょく停戦に応じた。
アルメニアによる占領地の譲渡は必至とみられるものの、ステパナケルトと回廊地帯のみは、アルツァフ共和国ないし親アルメニア側に残されるのではないかという観測もある。ひとたび次に衝突があれば、確実な破局をもたらす──という盤面にしておくことで、紛争の抑止を図るのであるとすれば、かなり練られたシナリオに思える。おそらくロシアとトルコとの手打ちは、早い段階で済んでいたのではあるまいか。
折しも明くる11月11日は、1918年に第1次世界大戦の休戦協定が締結された記念日であった。11月第二日曜日はリメンブランス・サンデイとも呼ばれ、英国や西欧の各国では戦没者の追悼をおこなう慣いになっている。ポピーの花が、弔意のシンボルである。アメリカでも11日は「退役軍人の日」だった。
話は前後する。前々日にあたる11月9日は、ドイツ人にとっての「運命の日」(シックザールスターク)であると、ドイツ連邦共和国の公共放送、ZDFがつたえた。といっても、呼称は今年に始まったことではないが。
さかのぼると1848年11月9日には、ウィーンの革命にあってローベルト・ブルムが銃殺刑に処された日で、これが三月革命の終わりの始まりであったとみるならば、すべからく重要視すべき日となっている。のち1918年の同日には革命が起き、ヴィルヘルム2世がオランダにのがれ、退位した。1923年の同日には、ヒトラーが前日から起こしたミュンヒェン一揆が、ほぼ鎮圧された。1938年の同日、水晶の夜と呼ばれることになる反ユダヤ暴動が発生したが、過去を根にもったヒトラーらによる官製暴動であったとも言われる。その50年後の同日には、ベルリーンの壁が崩壊した。これもまた、終わりの始まりであった。
師走ほどには年の終末を意識させないが、キリスト教ではクリスマスからが新年であることを思えば、11月とはじつは終焉の月でもある。少なくとも、歳の終わりの始まりの月である。そこには前述のとおり、歴史上のさまざまな転機がおとずれてもいる。それらがいまだに顧みられているのは、ちょうど冬の訪れを感ずる農閑期にはいった時分で、かといってまだ年末行事に追われることもない、宙ぶらりんの時節柄ならでは、といったところであろうか。そして、カフカスの国ぐににとっての運命の日が、ここに加わることになったようだ。憎しみの終わりへの一歩となればよいのだが……。
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