ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

終わらざる晩夏

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photo by Mitchell Bowser

 雨安居、うあんご──とは辞書によれば、僧が寺に籠もっておこなう雨季の修行で、夏安居、夏行、夏籠り、夏断とも呼ぶ。陰暦4月16日から90日間ともいう。感染防止の自粛要請とは関係もなく、そもそもこの時節は雨天がつづいたり、はたまた暑さから逃れるごとく籠りがちの生活になってしまうことも多い時期ではないか。そういう意味ではウアンゴとかゲアンゴなどという語彙も、怠惰をとりつくろうために坊主が案出した、檀家にたいする後づけの言い訳では……などと穿ってしまっても無理はなかろう。日本ではさすがに8月ともなれば梅雨は明けるが、インドでは9月ごろまで、地域によっては10月ごろまで長雨はつづくらしいから、修行もかなり捗りそうだ。

 ところで原風景と言ったらいささか大袈裟だが、子どもの頃の夏の風景として思い出すのは、蝉が鳴くなか家族で帰省したときのことである。祖父がブラウン管越しにのべつ眺める甲子園のマウンドには土ぼこりが舞い、ときおり金属バットの打撃音がひびきわたる。そして「終戦の日」を特集した番組なり記事がやたら目についたものであった。ことし「甲子園」は中止されてしまったし、さいきんは「終戦の日」の話題も減ってきているような気がする。その代わりに増えたと感ずるのが、大雨や水害のニュースである。武漢重慶といえば、ひと昔前は日中戦争がらみの地名であったが、ことしはもっぱら疫病や洪水にかかわっている。それでなおさら、炎夏と雨安居は表裏一体であるの感をつよくする。

 1944年3月にはじまって7月に終結をみたインパール作戦は、まさに本場の雨安居の時節にあたっていた。行軍する熱帯雨林をおそった濁流のごとく、戦況も泥沼と化した。牟田口廉也というと往時の日本陸軍を代表する無能の敗将であるという評が、いまや定着しているようだ。秀才ぞろいの陸大出の昭和陸軍史のなかでは目立つことはないにせよ、受験エリートであったことも間違いないのだが。16万の犠牲を出したという自滅的な作戦を強引に推進した背景を読むにつけ、暗澹たる気分になったものだ。

 そのたった5年前の夏には大陸ハルハ河畔でも、学識ある能無しにしておそらくサイコパスでもあった別の好戦的な将校が、みずから立案および指導した無謀な作戦によって、多くの将兵を死に追いやった。のち太平洋でも無鉄砲だった御仁による、言わずと知れたノモンハン事件である。こちらは乾いた大陸にあって、水の補給さえもじゅうぶん考慮されていなかった。外蒙古満洲国の国境紛争にすぎなかったが、それぞれの後見たるソ連と日本帝国の戦略や思惑が錯綜し、本格的な戦闘に至った。日本側では、陸軍中央の不拡大方針にも拘わらず、その指導力不足から関東軍をとめることあたわず、一説には1万7千とも言われる死傷者および行方不明者をだした。東京では、現代の国家安全保障会議にも相当しそうな「五相会議」が断続的に開催されており、日独伊三国軍事同盟の締結交渉をめぐって陸軍大臣とそれ以外の四大臣との対立がつづいていた。モンゴルの荒野に注意を向けている余裕など、政府のだれにもなかったのだろうか。

 外蒙古の戦さ場では、8月も下旬になると虫の声がきこえていたそうだ。死体が散乱した平野のうえを、秋の風が吹きぬける時期になっていた。そして、月末にソ連外相モロトフと駐ソ大使の東郷茂徳のあいだで停戦が成ると、見計ったかのように、ドイツが9月1日を期してポーランド侵攻を開始した。のちに第二次世界大戦と呼ばれる戦いがはじまったのだった。けっきょくスターリンヒトラーの意図が読めていなかった日本の外交であった。これを受けて「欧州情勢は複雑怪奇なり」と首班が愚痴にもひとしい声明をのこして、内閣が総辞職してしまったくらいであった。

 先日、英国で75年目の「VJ Day」が祝われた旨のBBCの記事にも接した。対日戦勝記念日。日本の「終戦の日」にあたる、8月15日である。英米将兵は昭和帝がラジオ放送で自国民に停戦を呼びかけたとき、歓喜にたえなかったにちがいない。たほう、あの年のこの時点ではまだ戦闘を続行していた勢力もあって、玉音放送の以後に侵攻を開始した戦線もあった。そうした国々では日本への勝利が祝われるのは調印の日付たる9月2日となっている。端的にはソ連邦──ロシアである。

 千島列島の北端、占守島の戦いなどは、じつに8月も18日になってから戦端が開かれた。濃霧をおしてソ連軍が海岸に接近しあるのを認めたのは、米軍の上陸を想定していた8千余の守備隊である。札幌の方面軍司令部からは停戦の命令もとどいていたが、島には日魯の缶詰工場に勤めた民間人がまだ残留していた。とりわけ戦車第十一聯隊はながらく大陸に温存されていたため、装備も練度も秀でた精鋭部隊であった。600の犠牲を出しながら、ソ連側には3千の出血を強いた、という推計もあるという。なお、浅田次郎『終わらざる夏』は、この戦いに取材した大衆小説で、出色の物語である。

 かつて日ソの国境は樺太の北緯50度線にあったが、占守島の緯度もほぼ同じである。大陸欧州では、プラハフランクフルト・アム・マインがおおよそ50度の線に位置している。「バルジの戦い」で名高いアルデンヌや、さかんに輸出されている麦酒で知られるシメイもまた、そのくらいの緯度にかかっている。アルプス以北のヨーロッパでは、さすがに8月にはいると晩夏の風情がただよってくる。それに比べると北緯43度の浦塩(ウラジオ)などは、極東ロシアといえどもあきらかに南にある。札幌と同程度といわれればうなずけるが、地中海の同緯度にはコルシカ島があるというのは意外な気もする。けれども時代をさらに遡った1918年の8月はじめには、その浦塩でさえもすでに秋がはじまっていたのだという。小倉の第十二師団の一部が、チェコスロヴァキア軍団の救出を大義名分に派遣され、上陸を果たしたのがその時分であった。シベリア出兵の幕開けであったが、兵員は武者震いというより、九州との寒暖の差に身ぶるいしたのではないか。

 とくに関東甲信越などでは熱中症への注意も喚起されるさなか、強烈な炎天に青息吐息で、秋など想像すらできぬという向きもあるかもしれない。とはいっても、夏至よりこっち北半球の各地で日はだんだん短くなってきているはずではある。そういえば夕暮れに舞う蝙蝠にしても、シルエットにみる体長が初夏のころに比べおおきくなっている。けだるい暑気にぼんやりしながら涼んでいると、夕闇に聞こえてくる虫の声が百年前からひびいてくるような錯覚にとらわれてもおかしくはない。 ──そんなときは水分と睡眠をよくとるべし。まだ、しばしのあいだ修行はつづく。

*参照: 

news.yahoo.co.jp

www.bbc.com

www.nikkei.com

www.afpbb.com