ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

3日でおぼえるアラビア語

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photo by Tamarcus Brown

 俄雨に降られた。もう夏である。夏といえば選挙……というわけでもないが、参議院選挙を連想してしまう。けれど目下の話題は、7月に投開票を控える東京都知事選挙だ。そして選挙がちかづくと、いまやウェブにもゴシップとも誹謗ともつかぬ種々の記事がでてくるもので、いやでも存在感の大きさを思い知らされる政治家の諸氏である。

 そんな折り、時宜にかなった刊行によって部数を伸ばしているというのが『女帝──小池百合子』で、石井妙子の手になる評伝である。発売から2週間にして、15万部を突破したという。

 《暗い深淵から出て来たか、明るい星から生れたか? /ぞっこん惚れた『宿命』が小犬のように後を追う》──序章は仰々しくも、ボードレールエピグラフから書き起こされ、終章の「小池百合子という深淵」に対応させている。つまり著者は、最大限の誇張を弄して、小池を怪物めいた存在として描きたがっていることが暗示される。右頰の痣という文字どおりのスティグマを背負わされた少女・百合子が歪んだ自我を発達させてゆく……といった具合で、冒頭からそうとう悪意にみちた講談の調子であった。級友とは別箇にひとり撮影された小学校の卒業写真のエピソードを挙げ、痣に化粧してくることができるようにとの教員の配慮だったのでは、と推測してみせる。その直後《小学校五年生の時には校内の弁論大会で優勝、演題は「ウソも方便」だったという。》と、一文だけの段落が挿入される……。あらゆる記述が、虚飾に満ちた政治家という印象を強化してゆく。とまれ、下種な視点はともかく、『原節子の真実』でも冴えていた著者の筆は、やはり読ませる。売れているのもわかる。そうしてけっきょくは逆説的にも、当選に寄与することになるのだろう。

 当該の選挙にはとくに興味があるわけでもないのだけれど、ふと思い出した一冊がある。小池百合子著『3日でおぼえるアラビア語』である。学生社、1983年刊。第2刷重版が2002年と奥付にあるも、現在ではAmazonでも品切れとなっているようだ。

 アラビア語を話してみたい、という素朴な出来心から入手した。だがアラビア文字から学んでいては、はたして何年かかるものか、わかりゃしない。簡便な旅行会話集でも足りたわけだが、たいていはカタカナが振ってある。ところが、LとRの区別すらつけられぬカタカナでは、せっかく覚えても通じないから用を成さない。この『3日でおぼえる』以外には、ラテン文字で読み方が書いてある類書など、和書では見つからなかった。──だが結論から言えば、書名は「公約違反」となった。3日で習得するのは無理だった。ひとえに読者側の無能が原因であるが。いっぽう忘却するのは3日とかからなかった。

 近所にエジプト人の経営する食料品店があったころ、退屈な夜間の店番に飽いていた男に冗談を言ってみた。すると「ヤバーニ(日本人)がアラビア語でおかしなこと言った!」と、たいそう受けて、動画をSNSに投稿させてくれとまで言い出すから、それだけは勘弁してくれと断った。

 というわけで、所期の目的は達した。小池著『3日で』は役には立った。公約など、どうでもよかった。政治は結果責任であり、そして結果オーライだった。

 後日、欲を出し、かの「ピンズラー」を聴いてアラビア語会話を練習してみた。ふたたび件の食料品店に出かけた際に、またぞろ試してみたものだった。すると今度は別のエジプト人であったが、「ああ……シリア訛りがあるね」と薄い反応を示したまでだった。たしかに利用した「ピンズラー」には、同じアラビア語といっても、シリア方言による会話が収録されていた。期せずして、48歳という若さで急死したピンズラー博士による音声教材の有効性を、実地で検証してしまった。

 怠惰な性分ゆえ、再度アラビア語に挑戦するかどうかはわからない。しかも数年もすれば、言語など学ばなくとも、AIですべてが片付く世にはなるのだろう。けれども「話してみたい」という、もっとも純朴な種類の人々の衝動は、今後いずこへ向かうのであろうか。

女帝 小池百合子 (文春e-book)

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悪女について(新潮文庫)

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