ウラシマ・エフェクト

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広義のドイツ帝国

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 EUすなわち欧州連合のことを、ていのよい「ドイツ帝国」にすぎないと喝破したのはエマニュエル・トッドであった。とすれば、興隆するのも必然なら、形骸化もまた宿命なのか。とまれ、「高校世界史なんか忘れちゃったよ」という諸氏のために、僭越ながら、広義のドイツ帝国について、なるべく時系列に沿ってまとめてみようと思う。

 

 そもそも、かつて存した「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称すら胡乱なものだが、国の枠組みとしては、時代とともに形骸化が進んだ。かのヴォルテールが揶揄するずっと以前に、「そういや、神聖でもなければ、ローマでもないな」と気づいていた民からは、単に「ドイツ帝国」と呼称されていた。

 この「第一帝国」は政略に長けたが、陸戦では周囲の強国に翻弄された。いみじくもドイツ・ナショナリズム潜在的脅威に勘付いたナポレオンから解体を強要され、ときの皇帝フランツはといえば、時運の趨くところ「じゃ解散」とばかり、そっけなくも終了を宣してしまった。そこへあらたに上書きされた国号が「オーストリア帝国」というわけだ。1804年のことである。

 「ドイツ」がドイツ語を話す「人びと」に由来するのにたいし、「オーストリア(オェースタライヒ)」は土地の名を起源とする。このころ成立したハイドン作曲による国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、歌詞こそ替えられたが、現在のドイツ連邦共和国の国歌に受け継がれている。

 ナポレオンが征伐されてしまうと、ウィーン会議メッテルニヒ侯が主導できたこともあってか、いっときは息を吹き返すも、その複雑な民族構成ゆえ、寄せるナショナリズムの波には勝てず、マジャル人には譲歩せざるを得なくなった。ときに1867年、いわゆる「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の成立であった。これにボヘミアなどからは、いやいやいや、そこは「ドイツ人とマジャル人とスラヴ人の三重帝国」にすべきでしょ、との異論も噴出したが、黙殺されるのも当然であった。もしそこまでゆけば収拾もつかなくなり、四、五、六……九重帝国、いや十重帝国にすべき、いっそ十二重帝国にせよ、といった声もあがるに決まっているではないか。

 だが、各地のドイツ人とて強烈なナショナリズムをうちに秘め、統一された祖国の成立を欲した。革命期以来の議論をつうじて、プロイセン王国を盟主とする、いわゆる「小ドイツ主義」による国家統一構想が結果的に優勢となり──また長くなるから端折らねばなるまいが、1871年プロイセン勢がフランス軍をセダンに打倒した普仏戦争の末、「ドイツ帝国」が成立した。便宜上の称で「第二帝国」である。

 かくしてヨーロッパの大陸中央部に、プロテスタント・ホーエンツォレルン家とカトリックハプスブルク家による、ふたつのドイツ人国家が鎮座することとなった──と図式的に理解しておけばよろしい。

 両者が最終的に同盟を締結したことは理にかなってはいたものの、それはまた亡国の道でもあった。というのも、強大なふたつの国家を警戒したがゆえ、周辺諸国は同盟や密約によって複雑怪奇な安全保障体制を構築したからだ。もしこれがなかったならば、セルビア人のナショナリズムの発露がきっかけで勃発した小競り合いが、なし崩し的に世界大戦に発展することもなかったかもしれない。

 人びとの価値観を変えるほどの殺戮ののち、やがて辿り着いた大戦終盤には、それぞれの皇帝は両方とも亡命する憂き目にあった。ドイツ人国家へのトラウマ、ないしルサンチマンを抱えたフランスのたっての意向もあり、旧帝国領は中小の国民国家に解体された。すべては平和のためだ。ドイツ人に力を持たせず、またボルシェヴィキのロシアとの緩衝地帯という意味合いもあって「弱小でしかも反目しあう小国家が乱立」する状態が理想とされたのだ。むろん、それら「継承国家」の各国にも民族的少数者に身をやつしたドイツ人がごまんと暮らしてはいた。

 過酷な賠償まで科された、この「ヴェルサイユ体制」には、例のスペイン風邪によるパンデミックも追い討ちをかけたことだろう。世界恐慌のさなか、ドイツ人らの不満はまたぞろ高まって、ついにヒトラーを総統と戴く、世に言う「第三帝国」を成立せしめたことは説明するまでもあるまい。イタリアとの綱引きもあったが、けっきょくは総統自身の故国でもあるドイツ人国家の片割れを「合邦」するに至り、ここに自らの「生存圏」を東へ拡大する体制が整った。結果、さらなる総力戦に邁進した挙句、ふたたび亡国の袋小路につきあたったことも、今日われわれが神の視点から眺めれば一目瞭然である。

 のち、米ソの都合で東西に分割された諸邦が、ようやく再統一を果たしたのは1990年10月3日であった。いっぽうオーストリアに住む人びとがナショナル・アイデンティティとして、ドイツ人ではなく、固有の意識をもつに至ったのは、最終的にはつい1970年代のことであったともされている。ところが、ほどなく1995年には欧州連合に加盟。これをもって、ベネルクスや、のちのチェコ共和国などと同様に現代版「ドイツ帝国」の直接の被支配地域となった──とトッドは説くのであるが。

 さて、英国離脱につづいて、対コロナ戦役に直面した「第四帝国」は、いずこへ向かうのであろうか。

 

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*上掲画像は、補修中のゲルマーニア像。WikimediaNiederwalddenkmal