ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チャトウィンのノート

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photo by Viktor Hanacek

 半年ほど前のことだろうか。愛知県春日井市の羽衣文具がチョーク事業を畳んだがために、米国の数学者たちがパニックに陥った、という動画によるレポートがあった。黒板に板書するための、あのチョークである。たかがチョークといえど、「ロールスロイス」や「天使」にまで喩えられる逸品だったという。そのため、一生ぶんのチョークを買い溜めたひとも多数あったそうである。──こうしたことは、文具に無頓着な向きには決して理解できない話ではないか。

 それで思い出されるのは、やはりチャトウィンMOLESKINEの逸話であろう。

 その手帳は、19世紀からフランスの複数の製本業者によって製造されていた、黒い表紙のメモ帳の一種で、かつてゴッホピカソマティス、ワイルド、ヘミングウェイ、そしてブルース・チャトウィンといった愛用者を獲得した逸品であった。

 とりわけよく知られた、チャトウィンによるエピソードは悲壮であり、ひとによっては常軌を逸しているようにも思えることだろう。

 チャトウィンはパリを訪れるたびに、ランシエンヌ=コメディ通りの文具店で、真新しく黒びかりする「オイルクロス・バインディング」のそれを購入してくる慣いであった。文筆家にとって取材ノートは何ものにも代えがたく、紛失することを「カタストローフ」とまで恐れたから、すぐに扉の頁に氏名と住所、見つけた人には然るべき報酬を支払う旨を記入していた。それでも、20年で2回だけ、アフガニスタンとブラジルで紛失したと告白している。

 ただ、この種のハンドメイドのノートは、大量生産の、おそらくコクヨのキャンパスのごとき安価で良質な製品群によって、しだいに駆逐されてゆく運命にあった。

 あるとき、濠州渡航を数か月後にひかえ、一生涯分をいちどに調達することにしたチャトウィンは、すでに市中でも稀少だった件の手帳を100冊まとめて注文した。店主は、トゥールの製造元に電話しておくと請け負った。約束の午後5時に戻ると、はたしてチャトウィンを待ちかまえていたのは悲報であった──事業主が死亡し、相続人が事業を売却してしまったというのだ。チャトウィンが記しているところによると、その際、通夜のような重い空気のなか、店主は眼鏡を外し「本物のもぐら皮はもうないのよ」と述べたのだという。当時、この特異な感触をもつ稀代の手帳は「もぐら皮のノート」と通称されていた。

 さて、そのチャトウィンの落胆から10年以上がすぎた1997年、ミラノの企業家マリーア・セブレゴンディによって、あのノートが復刻された。このとき「もぐら皮」すなわち、MOLESKINEが商標として正式に採用され、チャトウィンらの証言などから、細部にわたって往年の製品が復元されたのだ。──「正しい読み方」も話題になったらしいが、さいきんはイタリア語でもフランス風に「モレスキンヌ」と発音するらしい。チャトウィンはどう発音したんだろうか。やはり英語風に「モールスキン」だろうか。

 表面はやや弾力があるも、適度に堅く、厚く、典型的には黒い表紙である。現在は「ソフト」の製品も選べるようになったが、元来の「ハード」の表紙のほうが、立ったまま片手で保持しながらでも記入できて、使い勝手がよいと思う。角はやや円くなっているが、仔細に視るほどに、かつての製本職人が編み出した技と、その作業工程を空想せずにはおれない。ゴム・バンドをすべらせて表紙を開くと、ブックマーク・リボンがもれなく附属し、内側の襠のついた紙製のポケットには、MOLESKINEの来歴が多言語で記されたリーフがはいっている。それから、表紙を開くとすぐに、チャトウィンの習慣であった記入欄が、“In case of loss, please return to:___________”と、つづいて、“As a reward: $_____.”と再現されてある。

 この復刻からだいぶ経ってからだが、つかってみてはいた。ところが、当時はあまりよい印象がなかった。裁断が不安定なのか、一定のページごとに罫線がずれているし、その罫線も色が濃すぎて、ふつうの筆記具で書いたくらいでは、とても判読できない。名にし負う「オイルクロス」も、べとべとして、なんだか厭な臭いを放っている個体もあった。つたえ聞くチャトウィンのノートとは、とても思えなかった。

 しかし、のちの風聞によると、この頃は、生産拠点が中国に移転した直後で、どうやら品質が安定していなかった時期らしい。苦情が相次いだためか、品質は大幅な改善をみて、現在に至っている。いまでは、類似した商品も雨後の筍のごとくふえたが、やはりMOLESKINEに如くは無し。復刻版といえども、侮れない使い心地となっている。

 白紙か横罫線のものを選んでいるが、たとえば片岡義男など、方眼を好む向きは多い。店頭では、表紙に巻かれた帯の色で区別がつく。ダイアリーもなかなかよかった。ある年つかっていた、1日1頁のものが便利だった……と、とりとめもないが、今では、カラー、サイズ、用途と、さまざまなヴァリエーションのアイテムが展開されているから、ここで系統立てて把握するのは困難である。

 とまれ、いずれも、ふと目にとまると手にとりたくなり、手にとれば開きたくなり、開けばなにか書きたくなる。ふしぎなノートなのであった。

 *参考文献:

The Songlines (Vintage Classics)

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  • 作者:Bruce Chatwin
  • 出版社/メーカー: Vintage Classics
  • 発売日: 1998/12/03
  • メディア: ペーパーバック
 
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