ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

ガンブリヌスとは誰だったのか。

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 ガンブリヌスといえば、ビールの王として名高い。鷗外森林太郎などは「麦酒神」と、その存在をまさに神格化してしまってすらいる。

 南独逸の半ば以上を占め、ガンブリヌス(麦酒神)の恵みを受ける豊饒な国に九百三十万の民草を統治するバイエルン国王──十一世紀以来、この国に君臨していたヴィテルスバッハ家の正統、十九歳で王位にのぼり、物語のような富と、数々の王城と、俊秀な叡智と、その詩才と、寛大な芸術の保護者たるゆえに全ヨーロッパに知られ、ユンケル(南部独逸貴族)の仰慕の的であった独逸の若い王、ルウドイヒ二世は、登位すると間もなく、精神上に影響を齎す特殊な憂鬱と、感覚の病的な鋭さにひどく悩まされている風であったが、[...]
https://www.aozora.gr.jp/cards/001224/files/46113_67716.html 

 むかしからバイエルン醸造文化の高名は周辺地域に轟いていた。元祖ピルスナープルゼニュで醸した醸造技師、かのヨーゼフ・グロルもバイエルンの出であった。ガンブリヌス伝説については、そのプルゼニュ市の醸造博物館にも展示があるし、また、同地の「ピヴォ」のブランドにもその名が採用されている。

 その「Gambrinus」は、1869年創設の第一株式会社醸造所(とでも訳そうか)の商標でもあった。同社は登記上、プルゼニュ市で2番目に創設された醸造イカーである。20世紀初頭には、皇帝フランツ・ヨーゼフ御用達の触れ込みで「ピルスナー・カイザークヴェル」の商標を採用していたが、帝国崩壊後、マーケティング上でも「カイザー」の威光が消滅したために、1919年「プルゼニュスキー・ガンブリヌス」の商標をもってこれに替えた、というのが成立事情らしい。皇帝の後釜に、別の架空の君主を充てたわけだ。──今年は創業150周年にして、〈ガンブリヌス〉発売100周年であった。

 ちなみに、同市1番目の醸造所というのが市民醸造所、のちのプルゼニュスキー・プラズドロイ社で、第二次世界大戦後には1番目、2番目の両社は国有企業として統合され、のち1990年にSABMiller社の、2017年にアサヒグループホールディングスの傘下となっている。

 チェコのサッカー1部リーグも、スポンサー契約にもとづき、2014年まで20年ちかくにわたり、その名を冠した「ガンブリヌス・リガ」の名称で呼ばれていた。その絶大な宣伝効果のためか、一時〈ガンブリヌス〉のピヴォは国内市場の1/4のシェアを占めたという。──5大ブランドで市場を分かつ日本のビール市場であれば驚くにはあたらないが、津々浦々に醸造所と独自の銘柄があるチェコの市場でこの数字なのだから、にわかには信じがたい衝撃がある。けっきょく「ビールの売り上げは広告費に比例する」という身も蓋もない日本人の経験則は、チェコでも有効であるようだ。

 とまれ、「ガンブリヌス」の銘を有するビール製品はただひとつにあらずして、ドイツを中心として各地に散在している。伝説の王の知名度もさることながら、無国籍的な名の響きが、どの国のことばにでも馴染むのだろうが──

 それではいったい、ガンブリヌスとは誰だったのか。これについて、定説はいまのところないらしい。手許にあるラヂスラフ・フラーデクの著作にも、諸説が列挙されている。

 バイエルン年代記作家、ヨハネス・アーヴェンティヌス(1477-1534)によれば、紀元前1600年ごろの人物とされ、麦酒の考案者ということになっている。鷗外をして「神」と呼ばしめているのはこの御仁かも知らんとしても、神武天皇にも似た架空の人物にちがいない。カール大帝(742-814)の宮廷に仕えていた醸造家が、ガンブリヌスという名だったという説もある。フルダの修道院などの文書に記述があるというが、これも実在の人物だったのかどうか、定かではない。

 もっとも普及しているのは、ブラバント公ジャン1世(1253-1294)がモデルであるという説であろう。ジャン1世は、ラテン語では「ヤン・プリムス」となるから、これが転訛して「ガンブリヌス」となったと主張されている。この君主が、ブリュッセル麦芽販売業者ツンフトの要請に応じて、その名誉代表になったというのが、ビールとの繋がりであった。

 この説にもとづいて描かれた肖像もおそらく各地にあるのだろうが、たいていは統治者の衣裳を纏って、君主然と頸飾を佩用している。冠を被っているが、大麦の穂で飾られていることもある。ビールの杯を掲げながら、じつに満足げな表情をうかべている。なかには、もっともらしい「みことのり」めいた文言が書かれているものがある──生前からガンブリヌスと呼ばれた朕こそ、フランドルおよびブランバントの王である。朕がはじめて、大麦からつくられた麦芽で麦酒を醸したのだ。それだから、王様は醸造家にとっての守護者だと、みな口を揃えるのである……

 ブラバントって王国だったことがあったのか。公国じゃなかったっけ──歴史に疎い筆者には知る由もないが、要は、そのていどの信憑性である。

 フラーデクは、このほかにも二三の説を挙げているし、ググると、フランダース伯とか、ブルゴーニュのジャン等々の名前も見つかるが、どの説にもさほどの説得力はない。童話ないし説話という明らかなフィクションまでもふくめると、流布する説はじつに枚挙にいとまがない。

 もっとも感心した珍説を紹介しておくと、ガンブリヌスの語源的な由来について、ゲルマン語のgambra(胚芽)か、ケルト語のcamba(醸造釜)あるいはラテン語のganeae birrinus(酒場でのむこと)から来ているのではないか、というものがある。底知れぬガンブリヌス研究史の深淵を垣間見る思いがする。

 どこまでも掘り進むことができる起源については、さしあたり措いておくしかない。ともかく、現代においてガンブリヌスとは、大衆や画家らの想像力とマーケティングの必要が生んだ架空の人物であり、販促のためのマスコット・キャラクターの一種といえる。その意味では、赤い衣を着たサンタ・クロースの存在にそっくりではないか。ビールといい、コカ・コーラといい、飲料のマーケティングの王道とはまさに、髭を貯えた王者然としたイメージ・キャラクターにあったのだ。 

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Gambrinus ORIGINÁL 10, photo by urashima-e

*参考:

dvojka.rozhlas.cz

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