ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ベーアボックの「気候保護」

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 ドイツ連邦共和国で、緑の党のアナレーナ・ベーアボック共同代表が次期連邦宰相候補に選出されたことは、この4月、おおいに報じられた。アンゲラ・メルケル宰相の後継として、行政の長のポストに就く可能性も取り沙汰されている。といっても、すでに正月に、秋までの展開を予言したかのような記事を書いていたひともあった。

 ベーアボックもまた、今どきの政治家らしく、政策についてツイートするなどして発信をしている。たとえば「温暖化防止プログラムを直ちに開始しよう」として、(1)温暖化防止目標、2030年:マイナス70%、(2)再生可能エネルギーの急速な使用拡大、(3)環境負荷の高い補助金の削減、(4)石炭利用廃止の前倒し、(5)2030年以降:新規登録はエミッションフリー車のみ、(6)産業構造改革のための気候変動にかんする協定、というのを掲げている。

 さらに、口を開けばくりかえされる語「気候保護(クリーマシュッツ)」が、政策の鍵となっている。それはベーアボックらにとっては単なる環境政策ではなく、もっと大局的な観点なのだとされ、気候保護をすべての政治活動の中心にすえる政策政策が必要である、としている。具体的にはどういうことであろうか。

 5月にはいって、公共放送ZDFのインタヴュー番組に出演し、論争的なテーマについて質疑に応じたようだ。それがたまたまTwitterに流れてきて、たとえば空の旅について議論している部分の抜粋を見かけた。交通手段のうちでもとりわけ二酸化炭素排出量が高く、議論が過熱しやすい航空機となると、視聴者の注目も集まったであろう一方、このひとのいう「気候保護を中核にすえる政策」というのが端的に示されていた箇所でもあった。曰く、気候保護とは、社会政策、産業政策、そして自由政策でもある、と。

 男の司会者が訊く──しかし、「断念」も意味するはずですね。私たちは何を断念することになるんでしょうか。たとえば、自動車を運転するひとにとって、あるいは旅行者にとって。将来においても、好きなだけ飛行機で旅ができるのでしょうか。

 ベーアボックはこたえる──つまるところ、私たちすべてにとっての豊かさに、よい影響をあたえるものではなく、害を及ぼすものを「放棄」するということなんです(Verzicht:断念、放棄)……

 もうひとりの女の進行役が割ってはいる──はあ、しかしそれというのはけっきょく、ベーアボックさん、旅行やフライトがふたたび富裕層だけに可能なものになって、いま休暇に格安航空の便を利用している人たちが、もはやできなくなるということでしょうか。

 ──いえ、私たちは、あらたな社会の分断を望んでいるわけではないんです。くりかえしますが、気候保護なんです。気候保護は、社会正義を増進します。というのも、現在、気候変動によってもっとも苦しんでいるのは貧困層だからです。でも今回は、飛行機のことに話題を戻しましょう。みなさんが望むテーマでしょうから。

 ──簡潔におこたえください。フライトの回数に制限が設けられるんですか。年にいちどのマヨルカ旅行はオッケーとしても、10回行くことはまかりならんと、こう仰るわけですか。

 ──いいえ、めいめい休暇旅行にゆくさきに制限をかけるわけではないんです。だれがどこで休暇をすごしてもかまわないのです。しかし、これが大事なことですが、抑制が必要なのは、地球上の航空輸送量の総体です。というのは、私たちがこれまでみてきたのは、成長過程にあった航空輸送だったからです。それにははっきりノーと言います。このさき航空輸送がさらに増加するのであれば、それはもう破綻せざるを得ないのです。これをいま否定するというのはつまり、航空輸送じたい、これまでの国際的な気候保護の対象にはまったく含まれていませんでしたが、パリで私たちが今回、航空輸送をとりあげたのは、それが今後も増大しつづけるはずだからです。それに、私ははっきりとノーと言います。それは通らない。それにコロナで明らかになったように、航空輸送が増加せずとも、私たちは今後とも世界規模で交流をつづけてゆくことができるんです……

 さて、日本の某環境大臣はいつも、くるくるパーのようなコメントを発して、SNSがお祭り状態になる。けっきょく日本人は、環境政策に通じた政治家を育ててこなかった。結果として、みな官僚まかせで、ご都合主義的に降って湧いた数値目標がどのように決定されたのかという問いに、身も蓋もない内実なんぞ口にするわけにいかない事情は汲むとしても、その代わりに自身のことばでみずからの環境観を朗々とやってお茶を濁すくらいの芸当すら、誰もできない。堂々たる態度で侃々諤々と議論するベーアボックと、われらが日本の政治家と比較するにおよんで、さびしい気分になった。

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

www.bloomberg.co.jp

www.reuters.com

jp.reuters.com

www.dir.co.jp

 

*上掲画像はWikimedia

アンドレイ・バビシュの壺皿(3)

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photo by Miloslav Hamřík

利益相反

 承前アンドレイ・バビシュ・チェコ共和国首相が批難されているもうひとつの廉は、利益相反である。この件は、長年にわたってEUから追及を受けている。それが、この4月下旬というタイミングで、欧州委員会から最終的な判断が示された。判断とは、これまで通り「黒」である。つまりバビシュのアグロフェルト社への権利関係は明白であり、EUの農業助成を受け取る資格がなかったことを意味している。

 EU側は、チェコ共和国が2017年以降に受け取った、アグロフェルト社へのEU補助金を返還すべきとし、その内訳として欧州地域開発基金と欧州社会基金補助金にかかわる約1100万ユーロ(約14億円)であるとした。

 これに対するチェコ側の見解は、当局内部でも割れている。反論する者は、チェコの国内法をもちだして、利益相反には当たらないと断言する。なにやら、国内の三権分立が国際条約に優越すると繰り返す、極東のなんとかいう半島の国を想起させる言い分ではないか。

 首相本人はといえば、これは野党・海賊党によって意図的に操作された監査の結果であると主張し、利益相反を否定している。ミロスラフ・カロウセク元TOP党代表などは、すぐにツイートで反応したものだった──すべての犯罪者には、ばかばかしく出鱈目な発言で自己を弁護する権利がある。しかし、議会にはそのような人物を信任しつづける権利はない。重要なことは、信用できない人物は辞任すべきだと文明世界は知っていたということだ。

 これを嚆矢とするかのように、野党側では、中道右派連合を中心に不信任決議案を準備する動きが生じたが、かならずしも足並みが揃っているわけではない。議会の信任抜きでもバビシュを続投させる旨、憲法を蔑ろにせんばかりの方針をゼマン大統領が放言していることから、決議によって大統領に決定を委ねるべきではないという意見はあった。しかしじつのところは、直近の世論調査でもっとも高い支持率をほこる海賊党らにとって、ただちに代議院を解散して選挙を実施してもらった方が有利であるからにほかならない。選挙は10月に予定されているとはいえ、前倒されたほうが現今のブームに乗ることができる。この勢力にとって、不信任決議は得策ではないのだ。

 たしかに、もともと国民の関心は薄いのかもしれない。あるいは、2019年の退陣要求デモで気が済んでしまったのかもしれない。けっきょくは返還するもしないも、政府しだい、アグロ社しだい、バビシュしだい。どうせEUは、この決定を行政代執行するような機構をもたない。……そんなことより、ロシアによる主権侵害が問題だ、ゼマン大統領が諸悪の根源だ──という優先順位になってしまっているようであるのは、同国内メディアの議題設定機能の為せるわざで、支配的な傾向とみえる。それは、バビシュ政権の延命に資する。

 では、この共産チェコスロヴァキアの亡霊による、現在のチェコ=アグロフェルト共和国はいかにして生まれたのだろうか。

 

アグロフェルト社

 アンドレイ・バビシュは、社会主義体制が崩壊したころ、外国貿易会社・ペトリメクス社に籍を置いていた。工業用や農業用の化学製品を外国と取り引きできる貿易会社で、国外へ自由に行き来し、外貨で給与を受け取るなど特権的な生活を享受し、また有力者との人脈も築いた。ブラチスラヴァに拠点を有する国有企業ではあったものの、バビシュ自身は1985年以降、モロッコに駐在しており、アフリカに置かれた関連企業15社の代表を務めていた。

 帰国したのは革命ののちであったが、次に訪れた好機はスロヴァキアの分離独立、いわゆるビロード離婚であった。ANO党のサイトに掲載されている手記「私のものがたり」によると、1992年にクラウスとメチアル両首脳の間でチェコ・スロヴァキア分離が合意された直後、バビシュは経営会議にて、プラハに拠点を置くべしと提案した。そして共和国分裂から3週間後の1993年1月25日には、アグロフェルト社が設立された。社名は、農業と肥料とに由来する造語であった。

 この会社の成功は、最初に運転資金として400万ドルの融資をしてくれた米シティバンクによるところが大きい、とバビシュは述べている。だが、本当にそれだけで可能であったのか、訝る向きも多く、メディアでは喧々囂々の論争がつづいた。というのも、当人は主たる資産として、アグロフェルト社の全資本金に相当する28の株式を挙げるのみであるが、のち明らかになっているところでは、2つの信託基金を通じて250以上の企業を所有しており、一説によると、その資産価値は750億コルナ(約3800億円)とも推定されている。選挙の際は、自分はじゅうぶん持っているのであるから、これいじょう盗む必要がないのだと、政治の腐敗を批判しつつ、自らの利点を有権者にアピールしていたところであったが、いまやバビシュその人がEUや腐敗撲滅に取り組む団体などから、その腐敗を糾弾されている。

 政界進出や首相就任に前後して、何冊もの評伝が刊行されており、それらに依拠するにやぶさかではないけれど、ここですべてを要約することも手に余る。ただ、バビシュがあらゆる人脈を駆使して、市場経済が導入されてまもない社会で、元の国営企業のうちの主だったところ、文字通りの「有望株」をつぎつぎに買収していったことが、公刊資料にも実証的に綴られている。そこではStBのエイジェントだったかどうかは、じつはたいした問題ではない。いずれにしても、バビシュは共産主義体制の一員であったし、その恩恵を受けてきた。

 たとえば、オンラインで公開されている会社登記をみると、アグロフェルト社の監査役会のトップには、リボル・シロキーという名がある。バビシュ伝のひとつ『ブレシュからバビシュへ』によれば、この人物も旧体制下では公安当局に身をおいており、カウンターインテリジェンスに従事していたとされ、とりわけ1980年代のラジオ・フリー・ヨーロッパに対する工作が知られているという。バビシュは、ジュネーヴ時代の同級生だとさかんに吹聴しているが、わずか数か月しか通学しなかったリセにいた少年を、後年ビジネスで重用するというのは考えにくい、と著者であるトマーシュ・レメシャニは疑義を呈している。

 重要な出来事は、すべて1995年4月から5月にかけて起こったと、さらに同書は述べる。このころ、アグロフェルト社は資本金を100万コルナから400万コルナに引き上げた。ここで根拠として持ち出されるのは、1995年2月13日に国有合資会社ペトリメクスの本社で行われたとされる、アグロフェルト社臨時株主総会の議事録である。そこで、件の増資のことであろう、1株あたりの額面が1万コルナの株式を300株、発行することが決定された。これには、親会社である旧外国貿易会社・ペトリメクスが優先的に引き受ける権利があったが、これを行使しないと宣言することになった。しかも、希望者に発行済みの株式を譲渡することに同意した。この決定にもとづき、取締役会は2日以内に適切なビジネス・パートナーに株式の引き受けを求めることとされた。

 この不可解な決定によって、アグロフェルト社への出資比率でいえば、ペトリメクス社の保有分は4分の1になり、65%の株式が、謎のスイス企業の手に渡った。このオスト・フィナンツ・ウント・インヴェストメントAGという投資会社の代表者というのが、ほかでもない、リボル・シロキーだった。むろん共産党の防諜活動にながく携わってきたシロキー自身が、この件について口外することはなく、謎は謎のままである。しかし、のちにペトリメクス側から、1995年2月のアグロフェルト社総会の決定取り消しと、5月の登記からの削除を要求する訴訟がおこされたことにかんがみれば、やはり真っ当なものとは言い難い手続きだったようである。


メディアの帝国

 アグロフェルトを中心とする帝国が、こうした手口を繰り返して築かれていったことは想像に難くない。かつての情報機関のネットワークがあれば造作もないことであろう。それにバビシュ自身、農業、食品、化学といった業界については、なにしろ長年の経験と知恵がある。けれども、おそらくは政界進出を目指すにあたって、欠けている要素であると思いあたったのが、マスメディアであった。

 手始めに、2011から翌年にかけて自前のメディア事業を立ち上げ、無料の週刊新聞『5plus2』の発行を開始した。けれども、本格的な業界進出は2013年6月26日のことで、アグロフェルト社として、ドイツ企業からメディア・グループMAFRAを買収したのが契機である。

 これが「競合他社やジャーナリストたちを恐怖に陥れた」と前掲書の著者が書くのは、自身が当時スロヴァキアの経済新聞の記者であったため、事情を知悉しているゆえらしい。同年、MAFRA買収に先立って、バビシュはこの経済紙を買収していたのだ。

 スロヴァキアでは知られた経済紙の買収後、新経営陣は外国担当の編集部門と外国事情をあつかう欄を廃止してしまった。国内市場ではいぜんとして有力紙ではあったが、強力なリーダーシップを欠いたがために、経営難に喘いでいたという。そのため、編集者たちは待遇の改善と設備の刷新を望んでいたが、メディア業界を知らぬアグロフェルトが送り込んだ経営陣はぎゃくに、雇用契約の3分の1を切り捨てた。経験豊富な記者が去り、新卒の若者が空席を埋めた。戦力をうしなった編集部では、独自の記事にかわって、プロモーション用の資料を切り貼りしただけのページが増えた。同国のタブロイド紙にくらべると、さほどバビシュを褒める記事を書くわけでもないというが、それも独自取材による批判を展開するだけの優秀な記者が社内に残っていかっただけなのかもしれない。

 同様のことは、チェコ共和国側、『DNES』紙をはじめとするMAFRA傘下の各紙にもいえる。たとえば、個人的な友人を同傘下の『民衆新聞』の編集長に据えるなどして、あきらかに統制を強めている。買収からほどなく、2013年10月には国政デビューを果たしているのだから、公正とはいえない。公共放送にたいしては種々の圧力をかけているのはむろんのこと、同様に公的な性質を有する通信社・ČTKにしても、MAFRA傘下のメディア以外とは協働が機能していない状態にあると、前掲書は指摘している。

 同年をさかいに、経験豊富なジャーナリストたちは、雪崩を打ったようにオンラインのメディアへ流れたのだという噂もよく聞いたところだ。あたかも「文春砲」よろしく、さいきんスクープをとばし続けるポータルサイト・Seznamのニュース部門などは、その代表格だろうか。そういえば、週刊誌の編集部にいた旧友も、いつからかこの媒体に寄稿するようになっていることに気がついた。どういう契約なのか存じないが、新興メディアにしては、それなりに経験のある記者が取材や執筆を担当していることがわかる。既存メディアに浸ったふるい世代を尻目に、ネットと親和性のたかい層の発想を代弁する海賊党が支持を伸ばしている現状も、このあたりと関係がありそうだ。

 とまれ、バビシュ首相とて、おそらくうまくやったつもりではあったのだ。しかし、EUの基準をクリアすることはできなかった。たびたび反バビシュの抗議集会を企画している団体「百万の瞬間」が、かねてより主張することにも頷ける。なんといっても、チェコスロヴァキアの旧体制の側にいた人間が行政の長になっていることは、見方によっては革命を否定する不条理劇のようにも思える。また、国民監視を担ったStB時代の有形無形の資産を利用して億万長者になりあがったことは、機会均等の否定ともいえ、ひいては資本主義社会の否定につながりかねまい。そして、EUが指摘するように、国益を代表するではなく、私腹を肥やすためにEUの助成制度を利用しつづけているのであるとすれば、民主主義と欧州市民全体にたいする背任ということになるのであろう。

 マスメディアの影響は大したもので、たいていの世論調査で、いまだにANO党の人気はたかい水準にある。かつて多くの有権者の支持を集めたことも、たしかである。けだし背景については、直前の中道右派政権による極端な縁故主義と不正疑惑などによって、有権者のあいだに強烈な政治不信と既成政党への嫌悪がひろがっていた例外的な状況があった。目下、バビシュ首相本人も、自前メディアおよび御用メディアの助けも借りながら、すべての疑惑について否定しつづけているわけであるが、有権者による審判の日もまた、ちかづいている。

 

 

アンドレイ・バビシュの壺皿(2)

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photo by Lubos Houska

不可解なタイミング

 5月3日の月曜日に『ポリティコ』に掲載された記事は、スロヴァキアの議員で元NATO大使のトマーシュ・ヴァラーシェクによるもので、チェコ共和国の外交的な失敗が分析的に解説されている("The Czech diplomacy gap")。これを要するに、ヴルビェチツェの爆破をめぐる発表は、チェコ外務省の混乱のせいで最悪のタイミングで行なわれ、外交における機会損失をもたらしたが、どうしてこの時点における発表になったのかは、諸説あるも不明である。

 外務大臣更迭の直後で、ハマーチェク内相が何日か外相を兼務していた、外交がもっとも混乱した時期にあって、しかも土曜日の夜という政治の世界では考えられぬ時分に、どうしてこれを急いて発表する必要があったのか。おなじ文脈で攻撃を受けたブルガリアの外交当局とのすり合わせもなかった。

 翌4日の火曜日には、やや陰謀論めいた仮説がチェコ語のメディアで報じられた。すなわち、内相で、外相も兼ねていた件のハマーチェク副首相が、百万本単位のロシア製ワクチン・スプートニクVや、プーチン=バイデン会談のプラハでの開催とひきかえに、2014年の爆発がGRUの工作によるものであった旨の捜査結果について、公表しないことを申し出る算段であった──というのである。さすがに大臣本人は、否定会見に追われることとなった。

 この混乱したメディア上のお祭り騒ぎは、アンドレイ・バビシュ・チェコ共和国首相にとっては好都合であるように見える。というのも、この4月にいくつか、バビシュ首相にとって芳しくない報道が出来したし、5月にも出来する予定であった。しかしながら、こうして別のニュースが怒涛のいきおいでメディアを席巻したために、「不都合な真実」の報道はすっかり掻き消されてしまった。──4月17日にはじまったロシアとの外交官追放合戦と、その発端となった2014年ヴルビェチツェ爆破事件の真相に関する情報、それに関するゼマン大統領の25日声明とそれへの各界の反応、ハマーチェク副首相のモスクワ秘密交渉疑惑……といった一連のロシアがらみの報道に。

 おおよそ政治において、偶然などというものは存在しない。とりわけ、国内の政治、経済、メディアを統べる「オリガルヒ」と呼ばれて久しい、バビシュ首相にとってはなおさらである。


アンドレイ・バビシュとは

 アンドレイ・バビシュ──1954年9月2日、チェコスロヴァキア共和国、ブラチスラヴァ生まれ。2017年12月より、第12代チェコ共和国首相。国政デビューは2013年10月。のち2014年から2017年までボフスラフ・ソボトカ内閣の第一副首相兼財務大臣を務めた。

 それ以前には、あるいは以後も、企業家として知られる。200以上の関連会社を擁する巨大コングロマリットとなった、アグロフェルト社の創業者である。それが、いかなる理由で政界に進出したのか、仔細は知られていない。しかし、それを尋ねるのも、どうして賽子を振るのかと賭場で訊くような愚問かもしれない。しかもバビシュは博徒というより、胴元である。

 自身で立ち上げた政党「ANO_2011」の名称は、「憤悶せる市民の政治運動」ほどの意味である「Akce nespokojených občanů」の頭字語と設立年とから成る。要するに「ザ・ポピュリスト政党」と意訳してもよい。チェコ語でいう「ano」とは、英語の「yes」に相当する語ではあるにせよ、日本語で「あの党」というと、どうしても後ろ指をさしているような語感がある。だが、他の党や候補者をSNSで罵倒して支持を広げたのは、むしろこの党であった。

 党の公式サイトには、自らしたためたという自伝的な「私のものがたり」という文章がある。「事実でないことを書き立てるメディア」に対する反論という体裁をとっているために、やや言い訳がましい嫌いはあるものの、そのぶん要点がわかり易い。

 父親が工作機械の販売会社に職を得るなどしたことから、その転勤にともなって、エチオピアのおそらくアディスアベバ、フランス・パリ、スイス・ジュネーヴと家族で移り住んだ。この過程で、アンドレイ少年は公立の学校に通い、フランス語やチェコ語を習得している。ブラチスラヴァにもどった後は、経済大学で国際貿易を専攻した。

 ブラチスラヴァの外国貿易公社に入社すると、すぐ化学製品部門に配属された。英語すらできぬ上司を助けるのに得意の語学こそ役には立ったが、けっきょく嫌気がさして、ひと月で辞めた。のち別の貿易グループにポストを得、以降は肥料の原材料を輸入する業務に従事していたという。


StBの協力者

 ここで、この男に対する最初の疑惑がでてくる。バビシュは、StB──国家保安局のエイジェントであったのではないか、という噂が絶えない。じっさい、スロヴァキアでは最近までこの件をめぐって法廷闘争がつづいていた。

 手記にはこうある。「私が知る国家保安局は、貿易会社に勤めていた人なら誰でも知っているように、チェコスロヴァキア経済的利益を守っていた。外国貿易会社では、外国人との接触はすべて報告し、記録しなければならないという厳格なルールが課されており、海外出張についても同様だった。職場にはStBの正規職員が常駐しており、周りには多くの潜入者もいた。StBの職員らは、従業員をコーヒーに誘うなどして、業者から袖の下をとる者がいないかどうか調べるという方法で仕事をしていたが、これは現在のBISとまったく同じだ」

 要するにStBは、外貨との接点がある貿易会社内で、収賄とか業務上の横領がないか、つねに監視していた、身近な存在であったというのだ。その後、別のStBがやってきて、ドイツ・マルクの現金を隠し持っているなどした幹部らが摘発されたことがあったが、バビシュはこのときの捜査に協力していただけだと言いたいらしい。そしてこの説明は、チェコ国内ではひろく容れられたようで、すくなくとも代議院議員に当選した時点で、有権者はこれを不問に付したことになる。

 ところが、この2021年4月9日になって、ウェブ・メディアに記事が出来した。バビシュとStBとの協力関係を示す、新たな証拠が発見されたというのである。

 スロヴァキアでは「民族の記憶機構」なる機関によって、この手の共産期の文書が管理されており、そこで、StBの協力者が個別に記載されている登録カードとでもいうべき書類がみつかった。秘匿名の欄には「ブレシュ」とあり、種別の欄にはエイジェントを示す「agent」の語がはっきりとタイプされている。人材の「獲得日」として、1982年11月11日という日付も見える。

 しかし、この書類に書かれていた内容じたいは、コードネーム「ブレシュ」とともに、もう何年も前より知られていた。それでも10年ちかくにおよぶ裁判のなかで、なんども否定されていた。また、前出の記憶機構との裁判でも、協力者であったとしても「故意に協力したわけではない」旨の判決が出されてもいる。ほかでもない、判事のこうした言質こそが、政界進出を可能にする前提でもあった。

 しかし、考えてみれば、それも当たり前の判決だった。法廷で発言する証人は主として当時のStBの将校らで、そのStBの人脈は、いまでもバビシュのアグロフェルト社をめぐる経営や雇用や取り引きの関係のうちに、生きつづけている。つまり、所詮は身内の証言ばかりなのだ。それだから、やはりバビシュ首相本人も「私はいちども署名したことはないし、三回も法廷で勝訴している」話だと疑惑をあらためて否認し、報道を一蹴してみせた。「署名」というのは、協力者になるための書類にブラチスラヴァ市内の酒場で署名したと、さんざん報じられてきた挿話を指しているのであろう。

 ところで、これをスクープしたのは、大手ポータルサイトSeznamが運営するニュース・サイトであった。報道はほかのメディアにもとりあげられはしたが、通り一遍の淡白な扱いであった。だが、この報道が独『シュピーゲル』誌などにとりあげられるや、そのドイツ語圏でとりあげられたことをチェコ共和国の公共放送などが報じるという、迂遠な伝言ゲームの様相も呈した。メディアは報じたがっているのか、それとも扱いたくないのか。あるいは、この件について国民は知りたがっているのか、もうたくさんなのか……。

 じつは、スロヴァキアと袂を分つことになったチェコ共和国内にも、件の「民族の記憶機構」と同等の機関が必要かどうかという問いがあった際、識者の意見は割れた。

 けだし、魔女狩りを始めたらたらきりがないのだ。StBに協力したという人間は、ひと知れず社会にごまんといる。もうそっとしておこう、というのが正直なところだったのではないか。それに、もとより人的資源にかぎりのある小国とて、赤狩りのごときパージをおこなっていたらば、どの業界も廻らなくなったかもしれない。

 あるモラヴィア史の大家が、設置に反対する側で意見を寄せていたのが印象ぶかい。そこに「市民には、たんに過去と折り合いをつけるのではなく〝和解〟する必要があるのだ」というくだりがあった。分断を煽るポピュリストが弄するのとは真逆のことばであって、なるほどと思わざるを得なかった。──カコと和解せよ。つづく。(→その3

 

*参照

www.politico.eu

www.anobudelip.cz

www.seznamzpravy.cz

アンドレイ・バビシュの壺皿(1)

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photo by husnerova

 チェコ共和国政府が4月17日、ロシアの外交官18名に退去を命じた。それは2014年に国内で起きた弾薬庫爆発に、ロシアの機関が関与したことを理由にしていた。どうして今になって6年半ほど前の事件の真相が判明したのか、という素朴な疑問については、前回すこし触れた。その後、事態は両国の外交官の追放合戦に発展した。チェコ側が、ロシアの外交官が工作に関わっていたことを理由に挙げたのもふしぎはなかった。

 米ソ冷戦終結後の1991年、当時のチェコスロヴァキアに駐留していた赤軍部隊は撤収し、ほどなくソヴィエト連邦も崩壊した。ところが、後身のロシア連邦はひきつづき、プラハ・ブベネチュの広大な大使館のほか、30をかぞえる地所、100にのぼる車輛など、他国にはみられない巨大な外交資産を維持して、スロヴァキア分離後のチェコ共和国への影響力の保持につとめた。

 報道によると、直近の人員は140名で、アメリカの外交官の76名、中国の31名とくらべても、いかにおおきい数字であるか、よくわかる。このうちの多くのが諜報員ないし工作員として活動しており、弾薬庫の爆破にも関わっていたというのが、チェコ側の言い分の真意であった。

 23日には、ウクライナ国境地帯に集結していたロシア軍が、撤退を開始したと報じられた。それでもチェコ国内にあっては、市民のあいだの反露感情が目に見えて昂まっていった。すでに18日、プラハロシア大使館前で、種々の抗議をする人びとの姿が報道されていたが、23日には、ブルノ市に在るロシア領事館の門扉にケチャップがかけられた様子までが報じられた。

 こうした状況のもと、沈黙を守ってきたミロシュ・ゼマン共和国大統領が、25日午後になってやっと声明を発表した。自らの口から弾薬庫爆破事件をめぐる見解を、カメラのまえで国民に開陳したのだった。ところが同大統領は、かなり鷹揚な調子の演説のなかで、ロシアが関与した決定的な証拠の存在を否定した。捜査の過程でいちど否定された「過失による爆発」説をむしかえし、ロシア・GRUによる工作の線との両面から捜査をつづける方針を説いたのだ。親露派として知られる同大統領が、ロシアをかばったものと視聴者に映ったのも当然であった。興奮した国民感情を逆撫でし、火に油を注ぐがごとき結果となった。

 週末にはいった29日、プラハやブルノなどで、ゼマン大統領に抗議する抗議集会やデモが行われた。プラハでは数千人規模に達したと報じられた。ちなみにウクライナがらみも含めて、こうした「親西側」のデモが行われるさいは、プラハではヴァーツラフ広場で檄を飛ばして始めるのが定番で、ブルノでは最近はドミニコ会広場で催されることが多い。暴力を批判する勢力とて、危険はないとはいえ、巻き込まれたくない向きは近づかぬほうがよい。通信社・ČTKの推計では、ブルノの集会には約800人が参加したとされるほか、プルゼニュ中心部では300人ちかい参加者の集会があり、オパヴァでは約200人のデモ、ズリーンでは約100人のデモがそれぞれ行われたという。これをČTKやDNES紙が熱心に報じているのにも相応の背景があるわけだが……。

 あくる30日には、追い討ちをかけるような報道が出来した。2回にわたる爆発のあいだの時期にあたる2014年11月、ゼマン大統領は中央アジア歴訪の一環として、タジキスタン共和国を訪れている。その際、同行した代表団のなかに、アイメクス・グループ社のオーナー、ペトル・ベルナチークがいたというのだ。つまり、爆破された「商品」の主である。そしてタジキスタンといえば、実行犯が視察という名目で現地入りするさい、それを同社に掛け合ったのが他ならぬ「タジキスタン国民警護隊」であった。そのような仕儀で、ゼマン大統領による公式訪問じたいが、警察の捜査対象になっていることもメディアによって確認されたという。要は、大統領みずから、なんらかの役割をはたした疑いが持ち上がっている。火に注がれる油とは、もっぱら情報のことである。

 ところで情報といえば、去る19日、チェコ共和国政府は「ハイブリッド介入に抗する国民戦略」を閣議決定したことが伝わっている。いま話題の「ハイブリッド脅威」への対処の方針を、30箇条で規定しているもので、ロシアに対する毅然たる政府の態度を示したかったものと思われるも、外交官の追放の発表と同時に準備が進行していたことになる。戦略の策定そのものは、2016年に行われた国家安全保障監査によって国防省に指示されてはいた。しかし、このタイミングでの発表は、何を意味するのであろうか。これが国家安全保障会議で審議されており、週明けの19日にオンライン閣議によって承認される予定であることを、17日にいち早く報じたのはたとえば、政権与党・ANO党の事実上の機関紙、DNES紙である。

 こうした動きは全欧的なものであるし、どこの国であっても、国内における破壊工作は脅威には間違いない。公共放送(ČT)が紹介した調査によると、61%の被験者が安全上、ロシアをなんらかの脅威と見做しているという。これは公共のラジオ局が民間の企業をつうじて実施したアンケートらしかった。ただ、10%の回答者がまったく脅威はない(žádná hrozba)としていたところを、ことさら強調した番組の意図するところは、なんだったのか。また、この情報番組では、ロシアの外交官を「ゴキブリのよう」とまで形容した。しかし、たとえばこれがNHKだったらば、公共の電波で放送しおおせた表現だろうか。極端な物言いは、敵愾心をことさら煽り、隠れ親露派を剔抉するかのような「犯人探し」ないし「魔女狩り」を招きかねず、ひいては国民の分断を助長するだけではないのだろうか。

 しかしそれこそ、こうした状況を仕組んだ者の意にちがいない。要するに、こうした反ロシア・反ゼマン大統領の風潮が勢いを増す束の間、追及の手が緩むことを望んでいたのは誰か。ANO党代表にして共和国首相、アンドレイ・バビシュにほかならない。つづく

 

ヴルビェチツェ爆破工作

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photo by Umut İzgi

 チェコ共和国政府は、ロシアの外交官18人を国外に追放すると発表した。2014年に国内で起きた弾薬庫の爆破事件への、ロシア連邦軍参謀本部情報総局・GRUの関与が明らかになったためとしている。これを受けて反発したロシア側も、チェコの外交官20人を自国から追放する措置を発表した。

 識者がいうように、現今の「新冷戦」が、リベラル民主主義国家と権威主義国家のそれぞれの陣営による対立であるとすれば、チェコEUNATOに属すとはいえ、双方からの綱引きのなかで、近年は東側にちかい国だと西側からは思われている。「オリガルヒ」のバビシュ首相率いるANO党と社会民主党による連立政権は、いまだに存続する共産党が政権の外から支持する形で成立しており、さらに親露・親中のゼマン大統領が任命権を有している──という図式的な解釈は『シュピーゲル』誌などがよく説明につかうものだ。ただ、かろうじて元老院(上院)では反共政党の市民民主党が優勢で、西側からみれば「良識の府」を体現しているといえそうだ。昨年ここで、米トランプ政権時のポンペイ国務長官が演説をぶったのも道理であって、のちヴィストルチル議長の台灣訪問はおおいに話題になった。

 それゆえ、バビシュ首相とて今回の措置をとらざるを得なかったのは、西の方角から風が吹いたからにちがいない、とまず思った。どういう種類の風なのかは、まだわからない。ロシア外務省はチェコ政府が米国に気に入られようとしてやったのだと批難しているが、本当にそうだろうか。このところ、ロシアを拝み倒してワクチンを入手することすら検討していた首脳部なのである。たしかに米バイデン政権も15日、サイバー攻撃を理由に、ロシアの外交官10人の追放措置などを発表したところではあった。しかしこれで、EUからも個人的な不正を追及されてきたバビシュ首相としても、西側に向けていい顔ができるようになった。いずれは、EUが対露制裁に動くという専門家もあるようだ。

 そもそも、外交官追放の理由とされたのは、件の爆発事件の捜査結果だった。2014年、モラヴィア東部ズリーン県ヴラホヴィツェ村の集落・ヴルビェチツェ付近に位置する倉庫が、二度にわたって爆発した。10月16日に第16倉庫が、同年12月3日には第12倉庫が炎と煙に包まれた。武器の製造や販売を手がけるオストラヴァの企業、アイメクス・グループ社が借り受けていた倉庫で、従業員2人が死亡したが、当初は作業中のミスという観測もあった。当時の報道では、付近の住民が着の身着のまま避難する映像が流されていた。

 今になって、これにGRUの特殊工作班29155が関わったことが判明したというのだが、ウクライナ向けの武器を阻止するための工作であったとの推測がつたわる。それが、どうして今なのかと問われれば、まさに今しかないというタイミングでもあった。折からロシアがウクライナ国境地帯に軍を集結させつつあると報じられており、19日の時点では15万人超にもなっているというのである。陸上自衛隊全体の定員に匹敵する規模だ。

 被疑者は、のち2018年に英国で元諜報員が殺害された、いわゆるスクリパリ事件にも関与した工作員とされる。「ソールズベリの巡礼者」とも通称されていたのは、ソールズベリには観光がてら「大聖堂を見に行っただけだ」とインタヴューで嘯いていたからであるが、今回ばかりは言い訳に窮することだろう。このときの書類上の名義「アレクサンデル・ペトロフ」と「ルスラン・バシーロフ」はむろん偽名とされ、調査報道によると、ふたりはGRUの将校で、それぞれアナトリー・チェピガとアレクサンデル・ミシュキンであると推定されている。爆破工作のあと、プーチン大統領からロシア英雄賞を受け、アパートなどを授与されたことまで判明しているという。

 ところがバビシュ首相は、沈静化を図ったものか「国家的テロ行為にあたらず」と、なんとも煮え切らない声明を出してもいる。GRUが行なった作戦は受け入れがたいことではあるものの、ブルガリアの武器商に売約した商品に対する攻撃であり、チェコ共和国に対する直接的な国家侵略行為には該当しない、というのだ。「国家的テロル」という表現は、ロシアの関与を糾弾する多くの政治家が口にしており、爆発事件当時の首相だったボフスラフ・ソボトカも使っていた。

 奇妙なことはそれだけではない。つい1週間ほど前に更迭されたトマーシュ・ペトシーチェク外務大臣は、この件についてポストを去るまえにすでに知らされていたそうだ。ところがその後に外相を兼務することになったヤン・ハマーチェク内務大臣は、ロシアの関与を知ったのちに急遽、予定されていたモスクワへの外遊を取り止めたというのだから、ちぐはぐな印象は拭えない。警察の捜査であれば、むしろ内務省の管轄のはずではないか。

 そのチェコの警察が被疑者の行方を追っているという。だが、なにしろ連中が爆破後に現場を離脱してから、6年半が経過している。

 決め手となったのが、工作の直前「タジキスタン国民警護隊」を名乗る者から、件のアイメクス社あてに送られてきた、偽造パスポートのスキャン画像だとされる。それぞれタジキスタンのルスラン・タバロフとモルドヴァのニコライ・ポパなる名義で、弾薬庫の視察を求めるメールだった。ふたりは10月11日にプラハに到着、2日後にオストラヴァのホテルにチェックインし、16日には100キロほど離れた現場にいたことになるが、その日のうちにモスクワ行きの飛行機に乗るためにウィーン・シュヴェヒャートに向かった。

 このときの画像中の顔写真が、スクリパリ事件の被疑者と一致したということらしい。だが、2018年3月の神経剤・ノヴィチョークが用いられたという暗殺事件は、世界中で煽情的に報じられ、同年9月には嫌疑をかけられたふたりのインタヴュー動画までが出まわっている。それが今になって発覚したというには、かなり無理がある。国家をあげて隠蔽していたというのでもないのだろうが、風雲急を告げる国際情勢のなかで、内外事情の変化に鑑み、とりわけバビシュ首相自身の利益にもっともかなう時宜をはかって公表したものではないか。そして、前述の元外相と内相の証言の不審さは、その決定におおきく影響したのが、国外からの情報なり圧力なりだった可能性を示唆しているのではないか。

 このことは、事件後の各国の監視の厳しさにも暗示されているようにも思える。爆破された倉庫の警備が当時からほとんどなされていなかったという報道にたいして、当のチェコ警察当局は、当該施設は国際的なネットワークで監視されており、いわばオープンソースの警備で万全なのだ、と他人事のようなコメントをSNSに出している。あきれたものではあるけれど、正直なところ小国の警察では手に負えないのかもしれない。

 監視といえば、かつても国際的な介入があった。プラスティック爆薬のSemtexは、チェコスロヴァキアの製品で、リビア等にさかんに輸出されていた。これが1988年のパンナム航空103便爆破事件で知られるようになってからというもの、製品の動きには西側が目を光らせてきた。いまでは同名のエナジードリンクがスーパーに並ぶほど、乗員・乗客270名が犠牲になった事件も風化してしまった観もあるが、製造元はいまだに自社サイトで「Semtexに関する10の間違い」なる記事を掲載し、「Semtexがすなわちテロルなのではない」などと悪評の払拭に躍起になっている様子だ。

 そういえば国際刑事警察機構のサイトの国別プロファイルにも、次のようなニュアンスの記述があった。すなわち、チェコ共和国は欧州中央部の内陸にあって、四方でそれぞれ別の国に接している。そこで国を跨ぐ組織犯罪に狙われやすいことから、国際的な監視が必要であり、じっさいそのための体制がとられている、と。いずれにしても、監視対象たらざるを得ない国らしい。“O nás bez nás”(我らに関するも、我ら抜きで)ではないだろうが、警察当局もこうした状況には慣れっこだとでも言いたかったのか。

 さて、ロシアとの緊張が戦後最高潮に達しているといわれるなかで、衆目があつまるのは、沈黙を守るゼマン大統領だ。同国の防諜機関・保安情報局(BIS)にロシア人工作員の名前を教えろと迫った、という報道が昨秋あったばかりだった。すでにその頃には、捜査結果が報告されていたものであろうか。その際もTwitter上はお祭り騒ぎだった。近年、ロシアとの懸案事項は多岐にわたり、そのたびに動静が注目されているわけだ。そのノリは、まさに「悪の黒幕」といったところである。今回はまだ声明もなく、いつものオフチャーチェク報道官による代理のツイートもないようだ。

  直近では、南モラヴィア・ドゥコヴァニ原発に予定されている工事に関して、露・ロスアトムを入札から除外するとさっそく発表されたのが、最新の案件である。また、ロシア製のワクチンとしてEU当局に先駆けて認可される可能性もあったスプートニクVも、断念せざるを得なくなった。さらに振り返れば、ちょうど一年ほどまえになるが、プラハのコニェフ元帥像撤去問題にさいしてのロシア側の反発も、意外なほど大きかった。のち、在モスクワのチェコ大使館が覆面をした謎の集団の襲撃を受けるなどしたものの、ひとりの逮捕者も出なかった。2019年には、かの1968年のワルシャワ条約機構による軍事介入に関しても、鞘当てがあった。ロシアが作戦に参加した軍人の名誉回復を図ろうとするいっぽう、チェコ側は8月21日を犠牲者のための「追悼の日」としたのである。ほかにも、こまごまとした件をふくめ、枚挙に遑がない。

  いずれにせよ、バイデン父子がウクライナに特殊な利益を有していることは、ご案内のとおりであるからして、ロシアに対してはトランプ時代にはなかった強硬な態度をとるのも至当であろう。日本も、G7の枠組みでロシアの軍事演習に「深い懸念」を表明したきりとはいえ、けっして対岸の火事ではない。東京ではGRUの「ガイジンさん」は目立ちすぎて仕事をしにくいという笑い話もあったが、最近では東京五輪の関連団体を標的にしたサイバー攻撃にも関与していたとも報じられている。

 そうなると先日、東電・柏崎刈羽原子力発電所警備体制に不備が指摘された旨の報道が気にかかる。あれも、ワシントンD.C.あたりから、ことによるとラングレーから内々に「教育的指導」をいただいて表沙汰になった一件だったのかもしれない。他の施設が、原発以上の警備を敷いているとは想像しにくいのである。日本のばあい、ロシアはともかくとしても……。

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*「映っているのは我々」ロシア元スパイ毒殺未遂の容疑者たち(BBC、2018):

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*参照:

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13時間

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photo by Ahmed Almakhzanji

 アメリカ合衆国に関しては、ショッキングなニュースに触れたのち、何年も経ってから映画で事件の真相を垣間見ることはよくある。

 ソマリアの一件がそうだった。たしかに特殊部隊・デルタの隊員の死骸がなぶられる映像は衝撃的だった。けれども1993年に報道された時点では、何が起こったのか、よくわからなかった。時を経て、2001年の映画『ブラックホーク・ダウン』を観て、あるいはその原作を読んで、事情を呑み込んだという向きも多いはずだ。

 映画『13時間──ベンガジの秘密の兵士』(マイクル・ベイ監督、2016年)も、その手のリアリズム劇だった。

 事件は2012年9月11日のことであったから、ウェブ上には往時の報道記事がいまも残っている。たとえば、AFPの記事などは「炎上する領事館内に取り残された駐リビア米国大使、死の真相は」と題され、米当局者の証言から状況を素描している。

 ベンガジ(バンガーズィ)市は、地中海に面したリビアの首都・トリポリから見ると、東のシドラ湾をこえた先にあって、600キロ以上隔たっている。そのベンガジ市内の米国領事館がどうやら舞台であった。そこへ9・11の日にあわせて、米スティーヴンス大使が首都からやってきていた。ところが日没後に「正体不明のリビア人過激派グループ」の襲撃を受けて、殺害されてしまう。けっきょく保安要員らが応戦し、夜半過ぎにようやく領事館を奪還した──と記事にはあるけれど、とても仔細がわかるほどの情報たりえない。くわえて、それはちょうどオバーマ政権にとって再選を賭けた選挙の年にあたっていた。大使の死は、ワシントンDCでも政争となった由で、その後も報じられつづけることになったが、それだからこそますます「もやもや」は募っていった。

 その前年から一帯を席捲した、いわゆる「アラブの春」は、リビアにおいても内戦を引き起こしていた。米英仏が軍事介入する事態に至り、じつに40年以上つづいたアル=ガッダーフィー(カダフィ大佐)の独裁政権は崩壊した。その混乱にまぎれて、統制を失った軍の武器が大規模に流出しないように──とは表向きの理由であるが、とにかく、ベンガジ市内にはCIAが活動拠点を有して秘密作戦に従事していた。この機密に指定された施設が第二の舞台となった。アネクス、すなわちCIA別館、別棟、附属施設……というように名付けられているけれども、敷地には四棟以上の建物があった。

 この施設の防護を担当する警備チームが、劇映画の主役であった。グローバル・レスポンス・スタッフという、わけのわからない秘匿名は誰も用いない。もっぱら略称でGRSと呼ばれる。いずれも誰かが耳にしても何をする要員だか見当もつかぬ、よくできた符牒だ。が、じつのところ、民間の個人事業主としてCIAと契約している非正規の雇員にすぎない。とはいっても、海軍特殊部隊・SEALSの元隊員とか、陸軍のレインジャー出身とか、元海兵とか、一人ひとりの経験値はそうとう高い。つまり兵隊としては、その道のエリートだ。

 ところが、CIAの現場職員のほうは正真正銘のエリートで、ハーヴァードやイェールを出て、みずからの力を全能のものとして過信している。なかんづくチーフと呼ばれる当該施設の長に顕著で、この御仁は革命が己の所業であったことを誇示しつつ、我われは戦いに勝ったのだ、平和をもたらしたのだと豪語する。勢いあまって、歴戦の警備スタッフを小馬鹿にし、いちいちやる気を削ぐ言動をとる。どこの組織にでもいる種類の人間で、いやな上司の一典型かもしれないが、だからこそ、純粋に物語の演出としてすぐれていた。リリー・フランキーみたいな俳優(デイヴィッド・コスタビル)が好演している。

 くだんのGRSの6名が、同市内の領事館が襲撃された際にも救援に駆けつけるわけだが、つづいてCIAの施設のほうも襲撃を受けるにおよんで、援軍のあてもないまま、包囲されることが前提の戦いに巻き込まれてゆく。個々の能力は圧倒的で、小火器を撃ち合うだけならば負けはしない。それでも、軽迫撃砲の一門も持ってこられると形勢がひっくり返るのもまた道理で、それだけ映画が現実に即しているという説得力も増す。そして死闘は、映画の題名に暗示されているように、翌朝までつづくのであるが……。

 2時間を超えているから、近年では長い作品といえようけれど、まったく息をつかせず、退屈などしない。空撮のカットは『ブラックホーク・ダウン』にも映えていた街のシルエットに似ているように見えたが、ひょっとするとロケの一部はまたもモロッコで行われたものか。そのいっぽう、やや俯瞰的な画角に示される古代ローマ時代の遺跡のほうは、観る者をして複雑な感情を抱かせはしまいか。フェニキアびとが建立したというレプティス・マグナが想起させるように、リビアにもふるい歴史があり、それをつたえる遺構があるのだ。

 皮肉にも、建国たかだか数百年のアメリカ合衆国のエリートが、民主主義を教えてやろうと「未開の」地で胸をはる。映画にも描かれる犠牲になった大使の屈託ない笑顔には、無邪気な理想主義がにじんでいる。憎めないひとたちには違いない。軍事力をもってして民主化させた、日本帝国などにたいする成功体験がそれを勇気づけてもいる。

 映画は、かつての独裁者ガッダーフィーに関して「クソ野郎だが、バカじゃなかった」と、現地の通訳者・アマルのせりふに言わせている。リベラル民主主義だけが、諸国民の統治にとっての最適解ではないのかもなと、ちらと観客に思わせるシーンなのである。GRSの一員で元レインジャーのタントが別れ際、このアマルに向かって「国をたて直すんだぞ」とエールを送るのが印象的だ。ちなみに「アマル」とは、アラビア語で「希望」を意味する名前らしい。──だが、見方によっては、アメリカ人に言われる筋合いもない。そもそも誰のせいなんだよ、と言ってやりたくなるのだ。

 いま、ミャンマーの軍事政権をめぐって、西側諸国は対応に苦慮しているようだ。デモを武力鎮圧したのがけしからんとか、民主化への歩みを止めてはならないとは言われている。それは間違いなくそうなんだけど。けれども、米・民主党政権の「理想世界実現公約」のごときものに付き合うと、えらい目に遭うこともありそうだ。

 もともと「ビルマ」では、カレン族をはじめ130以上いるという少数民族との武力紛争が絶えたことはなかった。ひとつ扱いを誤れば、ミャンマーソマリア化、リビア化という展開もあり得る。無政府状態となった土地にISISの残党など、ジハーディストがはいり込まないともかぎらない。内戦を回避したとしても、人権を理由とした過度の制裁の帰結は、よくて共産中国による傀儡化だろう。民主化も人権も、何もかもが水泡に帰す。

 そんなミャンマーにたいして、日本は官民あげて多大な投資をしてきており、幅広い人脈もあるという。ちょうど、10年前のリビアにたいするイタリアのような立場にあるわけだ。民主化固執するアメリカの政策に振り回されるだけならば、イタリア同様に権益を失うだけで、得るところは何もなかろう。なにより、リビアではいまだに混乱が続いているのだ。市民に銃を向けるミャンマー軍事政権も、たしかに「クソ野郎」ではあるが、なんとか「バカじゃない」統治者になるように働きかけてゆくことはできぬものか。

 今週、ガースー総理が米国へとぶ。バイデン大統領がどうしてもミャンマー民主化と苛烈な制裁に拘泥するというなら……、大統領閣下、『13時間』っていう映画はご覧になりましたか、と厭味ったらしく訊いてもらいたい。あのあと、ヒラリーさんはだいぶ共和党から攻撃されていましたよね、って。1オクターブ高い声で。

13時間ベンガジの秘密の兵士 (字幕版)

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デインジャー・クロウス──豪州の戦争映画

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 たまに戦争映画が観たくなる。

 それも、戦争を背景としたコメディや恋愛ドラマではなくて、ちゃんとしたハードコアのドンパチがあるもの。いや、ドンパチだけのものがいい。

 あらすじはお定まりで、戦場の平和な日常にいた部隊がある日とつぜん窮地に陥って、激闘の末にそこから脱出する──そういう意味で、プロット的には「パニック映画」の一変種ともいえそうだ。なかんづく、アジアの共産化を喰い止めるための戦いが題材にとられた場合、1960年代半ばまでの相手は、戦術もへったくれもない「人海戦術」で突進してくるだけのバッタの群れのごとき軍勢であるからして、「ゾンビー映画」の様相も呈してくる。民主主義国の軍隊では、有権者の子や孫をそんなやりかたで犬死にさせるわけにもゆかないので、反共映画としては、じつに効果的な宣伝ともいえる。

 インドシナ半島を舞台にした劇映画といえば、日本でもさんざん公開されてきた。なかでも『グリーン・ベレー』はジョン・ウェインを主役にすえた、ほぼ反共プロパガンダ。『地獄の黙示録』は例外的なサスペンスとはいえ、たとえば『プラトーン』、『フル・メタル・ジャケット』、『ハンバーガー・ヒル』といった1980年代のアメリカ製の泥沼は何度みたか知れない。ほか、ディエン・ビエン・フーの戦いを扱ったフランス映画なども、けっきょくは「反戦映画」ないし「厭戦映画」とも括れそうな共通性がある。

 2019年制作の豪州映画『デンジャー・クロース──極限着弾』もまた、インドシナを舞台にした正統派の戦争映画であった。戦争の不条理を説くいっぽう、ある国の先人を顕彰するような愛国的な作品も多々あるが、これもやはり戦没者を悼むメッセージが最後に現れる。同国の映画では『誓い(Gallipoli)』を思い出す。

 当該作品が描いているのは、1966年8月のロン・タンの戦いである。旧サイゴン市から100キロちかく離れたゴム農園が舞台となった。ゴムの木が並ぶほかには、ほとんど遮蔽物がない土地で、かつ単調な風景というのは戦さ場としてはこの上なく恐ろしい。四方から、あるいは三方からでも襲撃を受けたら、結果は目に見えている。そして、それが起きた。

 したがって物語としては、メル・ギブソンの『ワンス・アンド・フォーエバーWe Were Soldiers)』に酷似する。包囲された部隊が生き残りを賭けて応戦するやつだ。おなじインドシナ半島が舞台で、描かれていたのは、米軍によるヘリボーン戦術の草創期、イア・ドランの戦いである。

 比較すると、豪州作品のほうはかなり地味である。そもそも派遣された第一オーストラリア任務部隊というのが、米軍に比して小規模だった。豪州政府のサイト(Australian War Memorial)によれば、1962年8月から1975年5月までのあいだに6万人ちかくの同国人が派遣されたとある。けれども、これは延べ人数であって、ちょうど1966年の3月にタスク・フォースが拡大されたとはいえ、やっと2個大隊を基幹とする旅団で、人員すべて合わせても4500人ほどだったという。この豪軍部隊は形式上、米軍のヴィエトナム第2野戦軍の隷下にあったため、映画のなかでも航空機による支援を、ほかでもない米軍に要請する場面が描かれている。──ただ、ドラマトゥルギーからみた場合、こうしたリソースの限られた弱小の組織が困難におかれて果敢にたちむかうというのは、むしろ見せどころともなるわけだ。じっさい本編中の駐屯地には、戦闘部隊が数個の中隊しかいない。どういうわけか、数百人の規模なのだ。

 登場人物は、ステレオタイプ的な造形がやや平板で、ストック・キャラクター同然に思えることもあったけれど、実在した人物には関係者もとうぜんいるわけで、おおきく逸脱するような脚色はむずかしいとも思う。無事に帰ったら結婚式に……みたいな、判で押したようなせりふも多かったが、実話を基にしたと言われたら、どうしようもない。だからこそ見るべきところはやはり、ドンパチにかぎる。倖いにして、リアリズムを支える俳優陣は最高の布陣だった。

 当時の豪州軍の装備も、興味ぶかい。英軍と同型の小銃、L1A1(FAL)を装備するも、米軍同様に新型のM16が普及しつつある。作中では"SR"などと呼ばれていたようだ。これは「ストーナー氏設計のライフル」から来ているらしい。いまではAR-15として民間市場の人気商品ではあるけれど、最初期のモデルに関しては欠陥があって、現場での評価も芳しくなかったことが今作でも暗示される。さらに、衛生や無線を担当する者が手にしているのは、ステン短機関銃にも見えたが、国産のオゥウィン短機だったかも知れない。ちなみに小隊の軽機関銃は、往年の米軍とおなじM60だし、中隊長のスミス少佐は拳銃・コルトM1911を携行していた。なにか、英米の狭間に置かれた同国の立場が反映されているようでもあった。

 そして、全員がブーニーハットというのか、ブッシュハットというのか、例のお決まりの帽子をかぶっている。ハイキングに来たかのような気楽さを感じさせ、そこに襲いかかる悪夢のごとき展開がいっそう際立つ。人気歌手リトル・パティの慰問コンサートは史実とはいえ、冒頭の敵襲のなかでも紅茶を淹れてくる部下がたしなめられたり、カード遊びをやめない若い少尉がいるかと思えば、慄く兵に缶ビールを勧める軍曹もいる……。たしかに作劇上の効果はあった反面、どれも紋切り型の趣向にみえた。120分ちかくある尺もあって、やや冗漫に感じた。

 こうした描写は「オージー」らしさの演出でもあったのかもしれない。ただ「豪州らしさ」を映画にもとめるならば、『荒野の千鳥足』に如くはなし。あわせてお薦めしたい。

デンジャー・クロース 極限着弾(字幕版)

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  • 発売日: 2020/10/21
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荒野の千鳥足(字幕)

荒野の千鳥足(字幕)

  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: Prime Video

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*参照:

dangerclose.ayapro.ne.jp

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ピストルとは何ぞや

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 先日、米コロラド州のスーパーで起きた発砲事件で、容疑者が使用したのがAR-556「ピストル」だとCNNで伝えられた。──コンパクトながら、どう見ても現代的なアソールト・ライフル(突撃銃)なのだが。誤記なのかとも思ったけれど、『ニューヨーク・タイムズ』紙など、よその記事でも「ピストル」表記になっている。

 ルガー・ファイアーアームズ社のサイトをみると、はたして「AR-556® Pistol」と銘打たれている。NATO標準の5.56mm弾仕様のラインナップには、899ドルと949ドルのモデルがあるようだ(ここ)。その外観は、AR-15にそっくりに見える。近年では関西でも、その筋の団体が抗争に使用したというほど、出まわっている小銃である。

 『ワシントン・ポスト』電子版の記事が、事情をわかりやすく解説してくれている。この手の銃を「ライフル=スタイル・ピストル(Rifle-style pistol)」と同紙は呼んでいる。日本語でいうと「小銃様式の拳銃」ないし「小銃型拳銃」といった風情か。米国における法制上、ライフルとは、おもにバレル(銃身)とストック(銃床)によって規定される。それだから、メイカーはこれらの部分を巧みに設計して規制を回避し、ライフルの機能を備えながら、法的にピストルと分類される製品を製造している。前提として、ライフルの販売規制のほうが厳しいことはいうまでもないが、こうした製品は現に「ピストル」として流通しているのだと記事にある。しかしてその実態は、ピストルに比して、射程もながく殺傷能力もたかい小銃弾を使用する武器なのである。市井には、普及したAR-15の扱いに習熟したひとが多いため、機構が似通った製品は好まれやすく、要人を警護するような職種ではとくに人気がたかい、とのこと。

 ピストルとはいったい何だったのか。シュールすぎて、またぞろ狐につままれたような話だ。たしかに「拳銃」という語には「拳」という形態素がふくまれており、その期待される寸法を窺い知ることができる一方、「ピストル」という語では漠としている。我われはピストルのことを、こぶし大の小型火器であると、勝手に思い込んでいただけなのだろう。

 ややもすれば、日本語の「ピストル」という語も、もとは英語だろうかと勝手に思ってはいまいか。ところが『精選版日本国語大辞典』は、オランダ語の「pistool」を項目の冒頭に挙げている。つまり蘭学からきているというのだが、それならば音としては「ピシュトール」にちかいはずではないか。また、ものの本によると、17世紀に新井白石シチリアの宣教師から「ペストル」と聴き取ったというのだけれど、現代イタリア語であればむしろ「ピストーラ」となりそうなものだ。いずれにせよ、すでに徳川幕府のむかし、さまざまな口から語られるほど欧州にひろく流通していた語であった。

 起源をたどれば、たとえば英語のpistolとは、トスカーナ地方のピストイアにちなんでいる、とブリタニカの百科事典は言っている。かの地では、15世紀後半にすでに銃器が製造されており、16世紀にはさかんな生産で名がとどろいていたとある。

 いまひとつ英語の辞書をひけば、もとはドイツ語のPistole(ピストーレ)からの転で、その起源をさらに辿ると、チェコ語のpíšťala(ピーシュテャラ)にゆきつく、という説にも出合う。『メリアン=ウェブスター』など、おおかた英語のオンライン辞書では、このピーシュテャラ説のみ採用していることが多い印象である。

 ピストルとその類の語彙がロマンス系の出自であり、件のピストイアに発するという前者の説は、16世紀、かのアンリ・エティエンヌが唱えたものらしい。それにたいし、19世紀に反論よろしく「ピーシュテャラ説」を開陳したのが、じつはフランチシェク・パラツキーだった。

 史実をロマン主義的な眼鏡でながめれば、15世紀にフス派の反乱にみられた独特のゲリラ火器の使用には、たしかにナショナリストの胸をわしづかみにする浪漫がある。それがのち『愛郷歴史事典』などに採り上げられ、人口に膾炙するようになったものとおもわれる。ただし、現代チェコ語でピーシュテャラといえば、楽器としてのパイプないし笛のみを意味する。拳銃のことはそう呼ばず、借用語を用いてpistole(ピストレ)と称している。パラツキーの時代までにはそうなっていたのだ。

 フス戦争のピーシュテャラにしてからが、やはり長物であったと考えられており、拳サイズの武器にかならずしも限定されないピストルという語の起源としては、なるほど合致する。たとえば、プラハ軍事史研究所のサイトの記事に、先端部のレプリカの写真がある(これ)。鉄製で、たしかに笛に似る。長さ420ミリ、口径が16ミリとはいうものの、木製の柄にとりつけて使用したと思われるため、残念ながら発砲時の全長まではわからない。

 

*参照:

www.cnn.co.jp

edition.cnn.com

www.washingtonpost.com

www.ruger.com

www.vhu.cz

 

*上掲画像はWikipedia

 

チェコスロヴァキアの将星

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  疫禍の春も3月にはいって早々、100万人あたりの死者数がベルギーを追い抜き、世界最悪の水準におどりでたのが、チェコ共和国である。ことしも15日には、第二共和政チェコスロヴァキアの占領が開始された日を記念する記事が出た。もっとも、82周年という半端な数字だから控え目ではあったが。「共和国占領」と公共放送の記事にはあるけれども、まだチェコスロヴァキアが存続しているつもりでいるものか。とまれ、1939年の3月16日には第三帝国ベーメンおよびメーレン保護領が成立したのだった。

 前年のミュンヒェン会談の際、いわゆる「1938年の一般動員」がおこなわれたが、ベネシュ大統領は、列強の合意の報せを受けたのちにも何もせず、動員を解いただけだった。──これがのちのち21世紀にいたっても、酒場で大衆になじられつづけることになる、臆病なインテリ大統領の決断であった。……とはいっても、あのとき武力に訴えたとして、ヒトラー国防軍を撃退する勝算は、どれほどあったのだろうか。

 ところで、これにつづいて勃発する世界大戦を追体験できるゲームに、〈Hearts of Iron IV〉がある。〈Hoi4〉の略称で検索してもおびただしい記事があるので、かなりの人気があるようだ。

 

〈Hoi4〉というゲーム

 ユーザーは、1936年の正月元日の時点における各国の政府を選択してプレイにのぞむ。それぞれ経済政策や徴兵法などをえらび、富国強兵をはかって、きたる世界戦争に備えることになる。戦がはじまるや、師団、軍、軍集団という規模で作戦を下達し、国運を賭してたたかうのだ。

 むろんゲームなりに単純化されてはいるものの、多くはしぜんにデフォルメされつつ作り込んである。たとえば、貯め込んだ「経験値」を消費すると自軍の師団編成が変更できるのであるが、初期の編成表をみると、イタリアの歩兵師団では、歩兵大隊を示すコマが縦2列にならんでいる一方、日本帝国の歩兵師団では縦4列になっている。これは、前者がエチオピアでの成功体験やムッソリーニの虚栄から、「師団」だというのにたった2個連隊で編成されていたことに対応しているし、後者では、世界の趨勢にあわせて、3個連隊編制に切り替えることを議論していた当時の4個「聯隊」編制の日本の歩兵師団を思わせる──おそろしいゲームだと思う。

 たほう、政治力ポイントを消費して政府に顧問を雇うと、そのぶん各種の数値にボーナスが加算される仕組みもあるのだが、そこで「南雲忠一」が航空戦の専門家として用意されているあたりは、おもわず「惜しい」と唸ったものだ。真珠湾ミッドウェイ海戦の司令官として知られるがゆえの設定であろうが、ほかならぬその門外漢ぶりが惨敗を招いたことまでは、ゲームのデザイナーは考慮しなかったものか。もちろんゲームであればこそ、許容される程度のことではある。

 話を本題にもどすと、このゲームでは、ベネシュ大統領のチェコスロヴァキアを選択してプレイすることが可能なのである。ミュンヒェン会議の決定をつっぱねて、ドイツ国防軍の侵攻を迎え撃つ。本土決戦だ。

 1936年というゲーム開始時点で、二十何個かの師団がプレイヤーの手中にある。平時にそんなにあったかなあとは思うけれど、ともかくこれを増強してゆかねばならない。史実における1938年秋時点のチェコスロヴァキア共和国軍の陣容は、クトナー・ホラに司令部をおく第一軍が11個師団と1個旅団、同じくオロモウツの第二軍の4個師団、クレムニツァの第三軍が7個師団、ブルノ・第四軍が9個師団、そして予備の9個師団で、合計40個師団と1個旅団──この程度までは、必要になるのだろう。

 しかし結論からいえば、それだけあっても、あの狂気じみた好戦的な軍事大国に勝てるわけがないのである。──勝てるわけがないのであるが、じつはDLCとよばれる追加のプログラムを別途、購入すると、一条の光明がみえてくる。〈Death or Dishonor〉という製品がそれである。これを適用すると「国境地帯にはりめぐらせた要塞が、もしドイツ軍にたいして効果を発揮したら……」という架空の想定などにもとづいて、ゲーム上の諸条件が調整され、あらたな展開が起こりうるようになる。マジノ線が役立たずだったことからしても、おおよそ空想にすぎないわけであるが、そこは浪漫である。あとは、お愉しみ。めいめいご照覧あれ、ということにしておこう。

 ところで、ちょっと書いておきたかったのは、チェコスロヴァキアでプレイするときに利用できる将軍のことである。開始の時点では、4人の将軍が選択肢として用意されている。どうしてこの4人なのか、この人選にしても、いまひとつわからないところもあるが、とまれ来歴をかいつまんでメモしておく。チェコスロヴァキアという呪われた国家の一面が、かいまみえてくる気もするからだ。


セルゲイ・ヴォイツェホフスキー(1883-1951)

 ヴィテプスク(現ベラルーシ・ヴィーツェプスク)にて、ポーランド貴族の血をひくロシア人家庭に生まれた。帝政ロシアの将校として、日露戦争にも参加した。のち、チェコスロヴァキア軍団に参加、チェコスロヴァキア人狙撃師団の参謀長を務めた。1921年に新生チェコスロヴァキアにわたり、同年5月1日、将官としてチェコスロヴァキア共和国軍入隊。 翌1922年1月20日帰化。1929年、元帥。

 ミュンヒェン危機の際には第1軍の指揮を執り、軍として政府の決定に反対すべきであると主張した。共和国解体後の1939年4月1日には退役するも、非合法組織「民族防衛隊」に参加し、抵抗活動に従事した。保護領時代をつうじて、ゲシュタポの監督下にはあったが、生き延びた。

 ところが戦争終結後まもなく、ソ連防諜機関に拘束され連れ去られた。シベリアの収容所で没した。


リハルト・テサジーク(1915-1967)

 このひとがもっともよくわからない人選。映画でもよく知られる、1944年のドゥクラ峠の戦いに戦車大隊長として参加している。つまり、将軍ではなかった。将官への昇進は戦後、1950年代であった。ゲームには「機甲士官」がどうしても必要だったのかもしれない。ドゥクラ峠での負傷がもとで片眼を失った。ヤン・ジシュカにしろ、ヤン・スィロヴィーにしろ、ボヘミアモラヴィアには隻眼の将が多いのか。黒い眼帯の姿は凄みがあって、画面に映える。

 戦後は、ソ連の戦車アカデミーなどに幾度か留学もし、1954年には師団長にもなった。けれども、共産党にとっては問題児だったらしく、不遇の晩年をおくり、51の若さで急死した。プラハ生まれ。


ヨゼフ・シュネイダーレク(1875-1945)

 モラヴィア出身。オーストリア=ハンガリー軍の士官を辞して、フランス外人部隊に参加。北アフリカで実戦経験を積んだ。第一次大戦では、西部戦線で参戦。少佐に昇進。

 1919年、フランス市民として新生チェコスロヴァキアに凱旋した。その直後、ポーランドとの七日間戦争でチェコスロヴァキア軍を率いた。のち、ハンガリーとの戦いにも師団長として参加。1920年将官。1930年、元帥。1935年、退役。

 共和国解体後の1939年には、ふたたび渡仏。フランス占領後はカサブランカへ逃れ、そこで没した。あっけない気もするが、享年70。

 みずから手記にて披露しているエピソードが面白い。13歳のとき「イスタンブールでパシャになる」といって家出するも、トリエステまで行ったところで資金が尽き、親族に連れ戻された。生来の無邪気な言動や猪突猛進ぶりがよくわかる、典型的な牡羊座うまれだったというところか。


ヴォイティェフ・ルジャ(1891-1944)

 モラヴィア出身。ブリュン(ブルノ)の工科にて電気工学を専攻したが、在学中に大戦が勃発した。総動員がかかる前日という8月3日、ピルゼンプルゼニュ)の第35歩兵連隊に志願入隊。ウィーン包囲でオスマン帝国と対峙するなど、オーストリア=ハンガリーでもとりわけ名高い連隊である。11月には少尉・小隊長としてロシア戦線に送られるも、翌年8月、ロシア軍の捕虜となった。翌1916年、チェコスロヴァキア軍団に参加。シベリアを転戦する。

 1920年5月、トリエステ経由で新生チェコスロヴァキアに帰還。ほどなく共和国軍少佐任官。1920年代後半には、参謀本部作戦部長。1935年、トレンチーンにて第5軍団長をしばらく務めたのち、1937年、オロモウツにて第4軍団長。のちベネシュ大統領よりじきじきの指名により、モラヴィア州総司令官。

 1938年9月23日動員の際は、モラヴィア北部国境の防衛を担う第2軍を指揮した。やはり戦わずして負けたことに納得がゆくわけもなかった。クー・デタ画策に与した嫌疑で軍を逐われることになる。とはいえ、闘争はつづけた。保護領時代にはやはり民族防衛隊に参加し、ゲシュタポとの死闘のなか、自決を強いられた。53歳であった。

 

チェコ共和国と比例代表選挙

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 イタリアではひとあし早く「スーパーマリオ」政権が成立したけれど、今年はおおくの国で選挙を控えており、いっせいに国政の顔ぶれが様変わりすることもありうる。

 ひと月ほどまえ、チェコ共和国憲法裁判所が、平等な投票権と立候補の機会に反するとして、選挙法の一部を無効とした。これが今年の選挙にもおおきく影響する可能性がある。地域による「一票の格差」を是正する措置は日本でもよくあるが、注目されているのは阻止条項をめぐる細則の廃止である。

 同共和国の下院にあたる代議院の選挙では比例代表制が採用されており、小党の乱立をふせぐ阻止条項が設けられている。つまり各党とも議席を得るために、全国得票率で5%以上の票が必要となっている。ところが、選挙に際してふたつの党が政党連合を組むばあい、これが10%以上となり、3党ならば15%、それ以上は20%という「割り増し」の足切りラインが適用される追加条項が、2000年から発効していた。さまざまな会派に属する元老院議員21人から提出された申し立てを受け、2017年の末からこうした不平等の問題が討議されてきた。たとえば海賊党の主張によると、この年の選挙で5%以上の票をかろうじて獲得した政党・STAN運動は、ひとつの議席を得るのに、政権政党となったANO党のじつに2倍の票を要したとされる。

 とうぜん、ANO党を率いるバビシュ首相はじめ、政権与党は裁判所の決定に反発した。いっぽう歓迎のツイートなどしたのは、ヴィストルチル元老院議長ら、市民民主党(ODS)やTOP_09党、キリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)の面々であった。3党はすでに、来たる選挙における協力を約しているのである。この中道右派連合の形成に尽力してきたTOP党のカロウセク元代表は、正月に政界を引退してしまったが、そのときすでに新たな政局がはじまっていたのかもしれない。今後は代議院選挙には立候補しないとはいえ、状況しだいで大統領選へ出馬することには含みをのこしている。

 ところで、デュヴェルジェの定式を引くまでもなく、比例代表制による選挙では多党制の政治になることが宿命づけられている。古典的なジョセフ・ロスチャイルドの概説によれば、1918年の新生チェコスロヴァキア多民族国家であったことにくわえて、他のハプスブルク継承国家に比して多様な産業を擁していたため、はたして政党が林立した状態となった。こうなると政権の安定が危ぶまれるが、リアリストのマサリク大統領のもとで「ヴェルカー・ピェトカ」あるいは単に「ピェトカ」と呼ばれる、非公式の会議が催されることが、やがて慣例となった。「五大政党代表者協議会」と意訳するとわかりやすい。これは憲法にも規定がなく、ややもすれば議会制民主主義を形骸化させかねない諸刃の剣ではあった。それでも、この時期には内閣不信任決議が通るようなことはなかったのだから、所期の目的は達せられた。

 そこまでしても、建国このかた、おおよそ公正な選挙というものは比例代表制と決まっていた。というのも、かつてのオーストリア君主政における多数代表制では、民族的多様性を議会に十全に反映することができず、また、いわゆるゲリマンダー、つまり我が田へ水を引くような区割りにも不公平感が昂じていたためでもあった。それだから戦間期の「第一共和国」をつうじて、代議院(下院)だけでなく元老院(上院)も、そして地方議会選挙にいたるまで、徹底して比例代表制が採られた。特徴としては、厳格な拘束名簿がもちいられたことで、今日の研究者のなかには「もっとも比例代表的な」システムであったと評価する者もある。だが、たとえば1920年の選挙では、マジャル人=ドイツ人社会民主党が1.8%の得票で4議席を得る一方、悪名高い「拘束名簿制に抗する同盟」にいたっては、じつに0.9%で3議席を得たのだという。阻止条項について考えさせられる話である。

 戦後は、チェコスロヴァキア共産党比例代表選挙を奪い去った。共産党のやる選挙とは人民民主主義出来レースで、比例代表の代わりに1950年代に導入されたのが、小選挙区制であった。……あれだ。極東のどこかの国で二大政党制をめざして導入されたものの、散々な目にあったやつ。候補者と選挙区の有権者のあいだの意思疎通が緊密になる点が、とくに重要であるらしかった。

 それだから、ビロード革命を経て比例代表制が復活したのは、しごく当然のことと思われた。上述のような歴史的な経緯もあるが、じっさい多数代表制のもとで、共産党や人民戦線の「顔なじみ」に票があつまったのでは、社会主義時代と変わらないことになってしまう。あるいは、当時のハヴェル人気からすると、市民フォーラムの独り勝ちになる可能性もあったものか。こうなると、せっかくの民主主義の芽が育つことなく消滅してしまいかねない。ひとつの政党しかまともな選択肢がないという極東の不幸な島国をみれば、これは避けるべきとわかるだろう。投票ができても選択はできないというのでは、もはや民主主義ではない。

 すぐのち成立したチェコ共和国では、憲法に「比例代表の原則」に沿う選挙がおこなわれることが明記されている。文面にsystémという語こそもちいられていないが、事実上、比例代表選挙が国是となったのである。こうして、同国の代議院で比例代表制が採用されて、現在に至っている。

 むろん、比例代表制にも批判がないわけではない。典型的には、近年ドイツ連邦共和国に起こっている懐疑論である。ドイツの場合はヴァイマル期に完全な比例代表制が採られた結果、ナツィの擡頭を招いた。それだけに件の阻止条項がもうけられ、多数代表制で補完する仕組みを採っている。小選挙区比例代表併用制と呼ばれる。ところが、それにも拘わらず、かのAfDの躍進をゆるすことになってしまったのだ。周知のように、これは極右政党であるが、実質はネオナツィではないかという疑義の声が絶えない。ついでに、共産党は戦後の西ドイツで早々に非合法化されたが、こんにち気がつけば左翼党が現れてもいる。同党は、スターリン主義を標榜する派閥すら内包し、公安当局の監視下にあるという。

 チェコ共和国では一見、ドイツほどの深刻な事態にはなっていないようにみえる。しかしながら、あるODS系のシンクタンクは、共和国は少数与党による不安定な政治に悩まされてきたなどとして、多数代表制が理想の制度である旨、主張している。改憲派ということか。もっともODSの本音としては、社会民主党(ČSSD)とともにスペクトルの左右に君臨した、黄金期をとりもどしたいにちがいない。たしかに当時は、左端にはボヘミアモラヴィア共産党(KSČM)がおり、中ほどにKDU-ČSLも鎮座して、有権者にはわかりやすい形で選択肢が並んでいた時代であったとはいえる。だがそれも、比例代表選挙のもとで成立したものであった。

 この二大政党的な政党システムもけっきょくは、足のひっぱり合いによって当の左右の政権が交代したのち、最終的に消滅したようにみえた。その後の中道連立政権も、チェコ版スンシルゲートのごとき疑獄がもちあがって瓦解した。つづく欧州ポピュリスト政党ブームのなか、得体の知れないマーケティング政党が政権を握っている現状である。比例性の不平等という憲法違反の帰結だといわれればそうかもしれないが、このあたり、選挙法がすこし改定されたところで、政治文化までもが大幅に変わるとも思えない。どうだろうか。

 ひるがえって日本である。筋論でいえば、ほんらい日本の衆議院小選挙区比例代表並立制など廃して、全面的な比例代表制を採用すべきなのだ。よく日本の選挙には「地盤・看板・鞄が必要」などといわれるが、今日それらをもつ者は「貴族」と呼んでもよかろう。そして貴族には、たとえば貴族院の後身である参議院(上院)に行ってもらう。少なくとも衆議院(下院)の議員には、国民各層がおのおのに比例してそれぞれの代表を選べてこそ、平民の民主主義が成立し得る。経団連も、日本医師会も、東北新社も、それぞれロビイスト翼賛政党や省庁に送り込んで、密室で政策が決まってしまってのち、議場ではポンコツ野党がくだらない質問をして、政府閣僚は官僚の書いた紙を読むだけの答弁に終始する──こんなのはまともな民主主義とはいわない。感染症と闘う医師たちとはなんの関係もない医師会を称する利益団体が、病床を増やす努力もせずに、直に政権中枢に働きかけ、ひたすら下々に外出自粛や休業を強いるとき、飲食店や中小企業の利益を代表するための政党は皆無なのである。──例えばの話だが。

 また、多数代表制のもとでは、政党助成金など選挙区にばらまくのがもっとも効率がいい使い道……ということになってしまっていても不思議はない。昨年からさかんに報じられてきた広島における公職選挙法違反疑惑の公判をみていれば、明らかである。そもそも政党交付金というのは、比例代表制とセットで運用されるはずの制度だ。なおかつ、それぞれの政党が一定の割り合いで「ブレーン」に支出することを義務づける必要がある。すなわちシンクタンクのことであるが、これ抜きには、ポンコツ野党はいつまでもポンコツのまま、要領を得ない質問と週刊誌ネタの追求しかできない。与党だって、自前のブレーンをもたぬ政治家はまともに反証できず、官僚の言いなりになっている。

  

*上掲画像はWikimedia