ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコスロヴァキアの将星

f:id:urashima-e:20210318062728j:plain

 

  疫禍の春も3月にはいって早々、100万人あたりの死者数がベルギーを追い抜き、世界最悪の水準におどりでたのが、チェコ共和国である。ことしも15日には、第二共和政チェコスロヴァキアの占領が開始された日を記念する記事が出た。もっとも、82周年という半端な数字だから控え目ではあったが。「共和国占領」と公共放送の記事にはあるけれども、まだチェコスロヴァキアが存続しているつもりでいるものか。とまれ、1939年の3月16日には第三帝国ベーメンおよびメーレン保護領が成立したのだった。

 前年のミュンヒェン会談の際、いわゆる「1938年の一般動員」がおこなわれたが、ベネシュ大統領は、列強の合意の報せを受けたのちにも何もせず、動員を解いただけだった。──これがのちのち21世紀にいたっても、酒場で大衆になじられつづけることになる、臆病なインテリ大統領の決断であった。……とはいっても、あのとき武力に訴えたとして、ヒトラー国防軍を撃退する勝算は、どれほどあったのだろうか。

 ところで、これにつづいて勃発する世界大戦を追体験できるゲームに、〈Hearts of Iron IV〉がある。〈Hoi4〉の略称で検索してもおびただしい記事があるので、かなりの人気があるようだ。

 

〈Hoi4〉というゲーム

 ユーザーは、1936年の正月元日の時点における各国の政府を選択してプレイにのぞむ。それぞれ経済政策や徴兵法などをえらび、富国強兵をはかって、きたる世界戦争に備えることになる。戦がはじまるや、師団、軍、軍集団という規模で作戦を下達し、国運を賭してたたかうのだ。

 むろんゲームなりに単純化されてはいるものの、多くはしぜんにデフォルメされつつ作り込んである。たとえば、貯め込んだ「経験値」を消費すると自軍の師団編成が変更できるのであるが、初期の編成表をみると、イタリアの歩兵師団では、歩兵大隊を示すコマが縦2列にならんでいる一方、日本帝国の歩兵師団では縦4列になっている。これは、前者がエチオピアでの成功体験やムッソリーニの虚栄から、「師団」だというのにたった2個連隊で編成されていたことに対応しているし、後者では、世界の趨勢にあわせて、3個連隊編制に切り替えることを議論していた当時の4個「聯隊」編制の日本の歩兵師団を思わせる──おそろしいゲームだと思う。

 たほう、政治力ポイントを消費して政府に顧問を雇うと、そのぶん各種の数値にボーナスが加算される仕組みもあるのだが、そこで「南雲忠一」が航空戦の専門家として用意されているあたりは、おもわず「惜しい」と唸ったものだ。真珠湾ミッドウェイ海戦の司令官として知られるがゆえの設定であろうが、ほかならぬその門外漢ぶりが惨敗を招いたことまでは、ゲームのデザイナーは考慮しなかったものか。もちろんゲームであればこそ、許容される程度のことではある。

 話を本題にもどすと、このゲームでは、ベネシュ大統領のチェコスロヴァキアを選択してプレイすることが可能なのである。ミュンヒェン会議の決定をつっぱねて、ドイツ国防軍の侵攻を迎え撃つ。本土決戦だ。

 1936年というゲーム開始時点で、二十何個かの師団がプレイヤーの手中にある。平時にそんなにあったかなあとは思うけれど、ともかくこれを増強してゆかねばならない。史実における1938年秋時点のチェコスロヴァキア共和国軍の陣容は、クトナー・ホラに司令部をおく第一軍が11個師団と1個旅団、同じくオロモウツの第二軍の4個師団、クレムニツァの第三軍が7個師団、ブルノ・第四軍が9個師団、そして予備の9個師団で、合計40個師団と1個旅団──この程度までは、必要になるのだろう。

 しかし結論からいえば、それだけあっても、あの狂気じみた好戦的な軍事大国に勝てるわけがないのである。──勝てるわけがないのであるが、じつはDLCとよばれる追加のプログラムを別途、購入すると、一条の光明がみえてくる。〈Death or Dishonor〉という製品がそれである。これを適用すると「国境地帯にはりめぐらせた要塞が、もしドイツ軍にたいして効果を発揮したら……」という架空の想定などにもとづいて、ゲーム上の諸条件が調整され、あらたな展開が起こりうるようになる。マジノ線が役立たずだったことからしても、おおよそ空想にすぎないわけであるが、そこは浪漫である。あとは、お愉しみ。めいめいご照覧あれ、ということにしておこう。

 ところで、ちょっと書いておきたかったのは、チェコスロヴァキアでプレイするときに利用できる将軍のことである。開始の時点では、4人の将軍が選択肢として用意されている。どうしてこの4人なのか、この人選にしても、いまひとつわからないところもあるが、とまれ来歴をかいつまんでメモしておく。チェコスロヴァキアという呪われた国家の一面が、かいまみえてくる気もするからだ。


セルゲイ・ヴォイツェホフスキー(1883-1951)

 ヴィテプスク(現ベラルーシ・ヴィーツェプスク)にて、ポーランド貴族の血をひくロシア人家庭に生まれた。帝政ロシアの将校として、日露戦争にも参加した。のち、チェコスロヴァキア軍団に参加、チェコスロヴァキア人狙撃師団の参謀長を務めた。1921年に新生チェコスロヴァキアにわたり、同年5月1日、将官としてチェコスロヴァキア共和国軍入隊。 翌1922年1月20日帰化。1929年、元帥。

 ミュンヒェン危機の際には第1軍の指揮を執り、軍として政府の決定に反対すべきであると主張した。共和国解体後の1939年4月1日には退役するも、非合法組織「民族防衛隊」に参加し、抵抗活動に従事した。保護領時代をつうじて、ゲシュタポの監督下にはあったが、生き延びた。

 ところが戦争終結後まもなく、ソ連防諜機関に拘束され連れ去られた。シベリアの収容所で没した。


リハルト・テサジーク(1915-1967)

 このひとがもっともよくわからない人選。映画でもよく知られる、1944年のドゥクラ峠の戦いに戦車大隊長として参加している。つまり、将軍ではなかった。将官への昇進は戦後、1950年代であった。ゲームには「機甲士官」がどうしても必要だったのかもしれない。ドゥクラ峠での負傷がもとで片眼を失った。ヤン・ジシュカにしろ、ヤン・スィロヴィーにしろ、ボヘミアモラヴィアには隻眼の将が多いのか。黒い眼帯の姿は凄みがあって、画面に映える。

 戦後は、ソ連の戦車アカデミーなどに幾度か留学もし、1954年には師団長にもなった。けれども、共産党にとっては問題児だったらしく、不遇の晩年をおくり、51の若さで急死した。プラハ生まれ。


ヨゼフ・シュネイダーレク(1875-1945)

 モラヴィア出身。オーストリア=ハンガリー軍の士官を辞して、フランス外人部隊に参加。北アフリカで実戦経験を積んだ。第一次大戦では、西部戦線で参戦。少佐に昇進。

 1919年、フランス市民として新生チェコスロヴァキアに凱旋した。その直後、ポーランドとの七日間戦争でチェコスロヴァキア軍を率いた。のち、ハンガリーとの戦いにも師団長として参加。1920年将官。1930年、元帥。1935年、退役。

 共和国解体後の1939年には、ふたたび渡仏。フランス占領後はカサブランカへ逃れ、そこで没した。あっけない気もするが、享年70。

 みずから手記にて披露しているエピソードが面白い。13歳のとき「イスタンブールでパシャになる」といって家出するも、トリエステまで行ったところで資金が尽き、親族に連れ戻された。生来の無邪気な言動や猪突猛進ぶりがよくわかる、典型的な牡羊座うまれだったというところか。


ヴォイティェフ・ルジャ(1891-1944)

 モラヴィア出身。ブリュン(ブルノ)の工科にて電気工学を専攻したが、在学中に大戦が勃発した。総動員がかかる前日という8月3日、ピルゼンプルゼニュ)の第35歩兵連隊に志願入隊。ウィーン包囲でオスマン帝国と対峙するなど、オーストリア=ハンガリーでもとりわけ名高い連隊である。11月には少尉・小隊長としてロシア戦線に送られるも、翌年8月、ロシア軍の捕虜となった。翌1916年、チェコスロヴァキア軍団に参加。シベリアを転戦する。

 1920年5月、トリエステ経由で新生チェコスロヴァキアに帰還。ほどなく共和国軍少佐任官。1920年代後半には、参謀本部作戦部長。1935年、トレンチーンにて第5軍団長をしばらく務めたのち、1937年、オロモウツにて第4軍団長。のちベネシュ大統領よりじきじきの指名により、モラヴィア州総司令官。

 1938年9月23日動員の際は、モラヴィア北部国境の防衛を担う第2軍を指揮した。やはり戦わずして負けたことに納得がゆくわけもなかった。クー・デタ画策に与した嫌疑で軍を逐われることになる。とはいえ、闘争はつづけた。保護領時代にはやはり民族防衛隊に参加し、ゲシュタポとの死闘のなか、自決を強いられた。53歳であった。

 

チェコ共和国と比例代表選挙

f:id:urashima-e:20210302042154j:plain

 イタリアではひとあし早く「スーパーマリオ」政権が成立したけれど、今年はおおくの国で選挙を控えており、いっせいに国政の顔ぶれが様変わりすることもありうる。

 ひと月ほどまえ、チェコ共和国憲法裁判所が、平等な投票権と立候補の機会に反するとして、選挙法の一部を無効とした。これが今年の選挙にもおおきく影響する可能性がある。地域による「一票の格差」を是正する措置は日本でもよくあるが、注目されているのは阻止条項をめぐる細則の廃止である。

 同共和国の下院にあたる代議院の選挙では比例代表制が採用されており、小党の乱立をふせぐ阻止条項が設けられている。つまり各党とも議席を得るために、全国得票率で5%以上の票が必要となっている。ところが、選挙に際してふたつの党が政党連合を組むばあい、これが10%以上となり、3党ならば15%、それ以上は20%という「割り増し」の足切りラインが適用される追加条項が、2000年から発効していた。さまざまな会派に属する元老院議員21人から提出された申し立てを受け、2017年の末からこうした不平等の問題が討議されてきた。たとえば海賊党の主張によると、この年の選挙で5%以上の票をかろうじて獲得した政党・STAN運動は、ひとつの議席を得るのに、政権政党となったANO党のじつに2倍の票を要したとされる。

 とうぜん、ANO党を率いるバビシュ首相はじめ、政権与党は裁判所の決定に反発した。いっぽう歓迎のツイートなどしたのは、ヴィストルチル元老院議長ら、市民民主党(ODS)やTOP_09党、キリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)の面々であった。3党はすでに、来たる選挙における協力を約しているのである。この中道右派連合の形成に尽力してきたTOP党のカロウセク元代表は、正月に政界を引退してしまったが、そのときすでに新たな政局がはじまっていたのかもしれない。今後は代議院選挙には立候補しないとはいえ、状況しだいで大統領選へ出馬することには含みをのこしている。

 ところで、デュヴェルジェの定式を引くまでもなく、比例代表制による選挙では多党制の政治になることが宿命づけられている。古典的なジョセフ・ロスチャイルドの概説によれば、1918年の新生チェコスロヴァキア多民族国家であったことにくわえて、他のハプスブルク継承国家に比して多様な産業を擁していたため、はたして政党が林立した状態となった。こうなると政権の安定が危ぶまれるが、リアリストのマサリク大統領のもとで「ヴェルカー・ピェトカ」あるいは単に「ピェトカ」と呼ばれる、非公式の会議が催されることが、やがて慣例となった。「五大政党代表者協議会」と意訳するとわかりやすい。これは憲法にも規定がなく、ややもすれば議会制民主主義を形骸化させかねない諸刃の剣ではあった。それでも、この時期には内閣不信任決議が通るようなことはなかったのだから、所期の目的は達せられた。

 そこまでしても、建国このかた、おおよそ公正な選挙というものは比例代表制と決まっていた。というのも、かつてのオーストリア君主政における多数代表制では、民族的多様性を議会に十全に反映することができず、また、いわゆるゲリマンダー、つまり我が田へ水を引くような区割りにも不公平感が昂じていたためでもあった。それだから戦間期の「第一共和国」をつうじて、代議院(下院)だけでなく元老院(上院)も、そして地方議会選挙にいたるまで、徹底して比例代表制が採られた。特徴としては、厳格な拘束名簿がもちいられたことで、今日の研究者のなかには「もっとも比例代表的な」システムであったと評価する者もある。だが、たとえば1920年の選挙では、マジャル人=ドイツ人社会民主党が1.8%の得票で4議席を得る一方、悪名高い「拘束名簿制に抗する同盟」にいたっては、じつに0.9%で3議席を得たのだという。阻止条項について考えさせられる話である。

 戦後は、チェコスロヴァキア共産党比例代表選挙を奪い去った。共産党のやる選挙とは人民民主主義出来レースで、比例代表の代わりに1950年代に導入されたのが、小選挙区制であった。……あれだ。極東のどこかの国で二大政党制をめざして導入されたものの、散々な目にあったやつ。候補者と選挙区の有権者のあいだの意思疎通が緊密になる点が、とくに重要であるらしかった。

 それだから、ビロード革命を経て比例代表制が復活したのは、しごく当然のことと思われた。上述のような歴史的な経緯もあるが、じっさい多数代表制のもとで、共産党や人民戦線の「顔なじみ」に票があつまったのでは、社会主義時代と変わらないことになってしまう。あるいは、当時のハヴェル人気からすると、市民フォーラムの独り勝ちになる可能性もあったものか。こうなると、せっかくの民主主義の芽が育つことなく消滅してしまいかねない。ひとつの政党しかまともな選択肢がないという極東の不幸な島国をみれば、これは避けるべきとわかるだろう。投票ができても選択はできないというのでは、もはや民主主義ではない。

 すぐのち成立したチェコ共和国では、憲法に「比例代表の原則」に沿う選挙がおこなわれることが明記されている。文面にsystémという語こそもちいられていないが、事実上、比例代表選挙が国是となったのである。こうして、同国の代議院で比例代表制が採用されて、現在に至っている。

 むろん、比例代表制にも批判がないわけではない。典型的には、近年ドイツ連邦共和国に起こっている懐疑論である。ドイツの場合はヴァイマル期に完全な比例代表制が採られた結果、ナツィの擡頭を招いた。それだけに件の阻止条項がもうけられ、多数代表制で補完する仕組みを採っている。小選挙区比例代表併用制と呼ばれる。ところが、それにも拘わらず、かのAfDの躍進をゆるすことになってしまったのだ。周知のように、これは極右政党であるが、実質はネオナツィではないかという疑義の声が絶えない。ついでに、共産党は戦後の西ドイツで早々に非合法化されたが、こんにち気がつけば左翼党が現れてもいる。同党は、スターリン主義を標榜する派閥すら内包し、公安当局の監視下にあるという。

 チェコ共和国では一見、ドイツほどの深刻な事態にはなっていないようにみえる。しかしながら、あるODS系のシンクタンクは、共和国は少数与党による不安定な政治に悩まされてきたなどとして、多数代表制が理想の制度である旨、主張している。改憲派ということか。もっともODSの本音としては、社会民主党(ČSSD)とともにスペクトルの左右に君臨した、黄金期をとりもどしたいにちがいない。たしかに当時は、左端にはボヘミアモラヴィア共産党(KSČM)がおり、中ほどにKDU-ČSLも鎮座して、有権者にはわかりやすい形で選択肢が並んでいた時代であったとはいえる。だがそれも、比例代表選挙のもとで成立したものであった。

 この二大政党的な政党システムもけっきょくは、足のひっぱり合いによって当の左右の政権が交代したのち、最終的に消滅したようにみえた。その後の中道連立政権も、チェコ版スンシルゲートのごとき疑獄がもちあがって瓦解した。つづく欧州ポピュリスト政党ブームのなか、得体の知れないマーケティング政党が政権を握っている現状である。比例性の不平等という憲法違反の帰結だといわれればそうかもしれないが、このあたり、選挙法がすこし改定されたところで、政治文化までもが大幅に変わるとも思えない。どうだろうか。

 ひるがえって日本である。筋論でいえば、ほんらい日本の衆議院小選挙区比例代表並立制など廃して、全面的な比例代表制を採用すべきなのだ。よく日本の選挙には「地盤・看板・鞄が必要」などといわれるが、今日それらをもつ者は「貴族」と呼んでもよかろう。そして貴族には、たとえば貴族院の後身である参議院(上院)に行ってもらう。少なくとも衆議院(下院)の議員には、国民各層がおのおのに比例してそれぞれの代表を選べてこそ、平民の民主主義が成立し得る。経団連も、日本医師会も、東北新社も、それぞれロビイスト翼賛政党や省庁に送り込んで、密室で政策が決まってしまってのち、議場ではポンコツ野党がくだらない質問をして、政府閣僚は官僚の書いた紙を読むだけの答弁に終始する──こんなのはまともな民主主義とはいわない。感染症と闘う医師たちとはなんの関係もない医師会を称する利益団体が、病床を増やす努力もせずに、直に政権中枢に働きかけ、ひたすら下々に外出自粛や休業を強いるとき、飲食店や中小企業の利益を代表するための政党は皆無なのである。──例えばの話だが。

 また、多数代表制のもとでは、政党助成金など選挙区にばらまくのがもっとも効率がいい使い道……ということになってしまっていても不思議はない。昨年からさかんに報じられてきた広島における公職選挙法違反疑惑の公判をみていれば、明らかである。そもそも政党交付金というのは、比例代表制とセットで運用されるはずの制度だ。なおかつ、それぞれの政党が一定の割り合いで「ブレーン」に支出することを義務づける必要がある。すなわちシンクタンクのことであるが、これ抜きには、ポンコツ野党はいつまでもポンコツのまま、要領を得ない質問と週刊誌ネタの追求しかできない。与党だって、自前のブレーンをもたぬ政治家はまともに反証できず、官僚の言いなりになっている。

  

*上掲画像はWikimedia

 

チェスカー・ズブロヨフカによるコルト買収

f:id:urashima-e:20210215013643j:plain

photo by Mike Gunner

 チェコ共和国の銃器メーカーである、チェスカー・ズブロヨフカ・グループ・SE(CZG)が、同業の老舗、米・コルト社(コルト・ホールディング・カンパニー・LLC)とそのカナダの子会社の全株式を取得すると報じられた。2億2000万ドル(およそ47億コルナ、約230億円)の現金と100万株以上の新規発行の株式を充てる。目下のところ規制当局の承認待ちとされるが、手続きは2021年第2四半期中には完了する見込み。両者はそれぞれの国において、軍への代表的なサプライヤーとして認知されてもいる。売上高はあわせて、110億コルナ(約540億円)ちかくになるという。

 「全世界の軍や法執行機関、民間市場における象徴的なブランドであり指標であるコルト社の買収は、銃器業界のリーダーに、そして軍事組織の主要なパートナーになるという弊社の戦略に、ぴったり合致します」と、同グループの会長兼最高経営責任者であるルボミール・コヴァジーク氏の言がプレスリリースにある。「175年以上にわたって米軍とともに歩んできたコルトを、ポートフォリオに加えることができるのを誇りに思います」とつづく。コルトは米軍だけでなく、子会社をつうじて、カナダ軍にも独占的に火器を納入しているとつたわる。

 コルト社の経営といえば、2013年に陸軍への「M4A1カービン」納入の契約を失って以降、近年はあまり芳しい評を聞いた記憶がなかった。けれども、現在の同社のCEOは「過去5年間で、経営成績と財務成績は歴史的な好転を遂げた」と、2015年の破産保護申請から再建が順調であることを強調している。

 さかのぼれば、サミュエル・コルトが回転式拳銃の特許を取得したのは、じつに1830年代のことだった。1836年に会社を興したものの、しばらく経営は安定しなかったようだ。それでも、やがて米墨戦争などもあり、政府からの大口注文が舞い込むようになる。南北戦争のさなか、47の若さで病没するが、会社はまさにそのとき莫大な利益を上げていた。同年のリンカーン奴隷解放宣言を知ることはなかったが、世間をして「神は人間を創造し、コルトは人間を平等にした」と言わしめた。のちのサーヴィス・ピストル「M1911」は二度にわたる世界大戦を経て、同社の名声を世界規模で不動のものとした。

 いっぽうCZG社も、軍や法執行機関はもとより、狩猟用や競技用といった民間用途向けの銃器を手がけており、チェコ、米国、ドイツ連邦共和国に約1650人の従業員を擁する、と前述のリリースにある。

 がんらい「チェスカー・ズブロヨフカ」といえば、すくなくとも最近までは南モラヴィアのウヘルスキー・ブロトに置かれた、ČZUB社を指した。ながい歴史があるとはいえ、1997年に米国へ本格的に進出してのちの飛躍は、まったく別の企業になってしまった印象すらある。その年、米国法人であるCZ-USAが設立されたのだが、その後の成功は、自動拳銃「CZ_75」シリーズのかねてよりの人気によって、すでに約束されていた。2005年には早くも、「M1911」クローンも製造するダン・ウェッソン・ファイアーアームズを買収しおおせたほどである。そもそも、今回の主役であるCZGじたい、2018年にCZ-USAから生じた持ち株会社であった。つい昨年6月にプラハ証券取引所に上場し、買収の資金を調達したとされている。

 「CZ_75」の開発は、ボヘミア中部出身の技師、フランチシェク・コウツキーによって1960年代の末に始まっていたという。それにしては人間工学的なデザインとダブルスタックによる大容量の弾倉をもち、ダブルアクション仕様のトリガー機構には独特のものがあったというから、往時の共産圏にあって、よっぽど例外的な製品だったにちがいない。例外といえば端的に9mmルガー弾というのがワルシャワ陣営の規格になく、お膝もとチェコスロヴァキア軍にすら採用されなかった。とまれ、民主化を経て、後身のチェコ共和国NATO入りした今となっては、とうぜん軍や警察でも使用されており、俗にツェーゼーチュカなどと愛称で呼ばれるほど、親しまれている。

 じっさい撃ったことがある。そのときはパスポートなどの身分証明書を射撃場にもってゆけば、だれでも実射できた。残念ながら性能について公平に批評するほどの知見はないが、いずれにせよ世界に誉れたかい優秀なピストルとして、同国ではひそかな誇りになっている。それだから、このところのロックダウンで人びとが逼塞も同然に暮らすなか、各媒体がつたえる著名な米社買収のニュースは、寒空の下わずかに熱を帯びているようにも感じた。

 

*参照:

www.czg.cz

www.lidovky.cz

www.euro.cz

economictimes.indiatimes.com

www.arkansasonline.com

www.military.com

www.guns.com

 

プシェロフの虐殺

f:id:urashima-e:20210211032819j:plain

リモート劇『目撃者』

 通話ソフトというのか、ウェブ会議アプリというのか、リモート勤務の普及にともなって、その手の仕組みを用いるひとは増えた。すっかり公演の減った演劇界でも、これを利用したプロダクションが生まれ、増えつづけている。動画として自宅から観覧できるゆえ、観る側も気楽ではあるが、それだけに演出にもさまざまな配慮が要りそうだ。映像ではあるものの、映画のような映像作品ともいえないから、どういう鑑賞がよいのか、考えてしまう。似たような映画もあったけれど、すくなくとも映画学的な構図論では語りきれないことは確かだろう。演劇学では、ラジオ・ドラマに固有の地位が与えられていたものだが、このあらたなフォーマット(オンライン動画劇?)も特別な理論の出来を待っているのかもしれない。

 そういう試みのひとつとして、チェコ共和国の公共放送がとりあげていたのが『目撃者』という国民劇場の演目で、この2月から劇場サイトをつうじてオンラインで公開されるそうである。演出は、ユィジー・ハヴェルカ。ありふれた題目から、おおよそ予測がつくように、証人が代わるがわる出てきて、ひとつの事件の別の側面をそれぞれ語りついでゆくらしい。映画であれば、黒澤明の『羅生門』に代表されるような、ある意味では古典的な形式といえるだろう。──しかし題材がまた、煽情的なのである。

 

プシェロフの虐殺

 扱われるのは、1945年におこった「シュヴェーツケー・シャンツェにおける虐殺」、あるいはもっと簡単に「プシェロフの虐殺」と呼ばれる事件である。ヒトラーすでに亡き第三帝国が瓦解し、アルフレート・ヨードルが降伏文書に調印してから、ひと月あまりが過ぎていた。とはいえ混乱のつづく大陸のあちこちで、いまだに家路をいそぐ人びともあった頃である。

 6月18日、特別列車のふたつの便がプシェロフ駅に到着した。片方の列車には、もとの第一チェコスロヴァキア人軍団の兵士らが乗っており、プラハでの式典からの帰路であった。もう一方の旅客はスロヴァキアの村々の住民たちで、スロヴァキア語やハンガリー語を話す者のほか、20世紀初頭に「カルパティア・ドイツ人」と名づけられた、中世からドイツ語を話した家系の人びともいた。といっても証言によれば、家庭内でいずれの言語がはなされていたとしても、少なくないひとがトライリンガルであったと思われる。この民間人らは、1944年12月以降、なかば強制的にスロヴァキア東部からボヘミア北東部へ疎開させられていた。

 いっぽう兵士たちは、ブラチスラヴァ近郊ペトルジャルカの駐屯地へ戻る途上であったが、そのなかに、カロル・パズールという28歳の尉官があった。はじめ、独立スロヴァキア国にてフリンカの親衛隊に所属、のち機動師団に転じて参戦したものの、1943年に赤軍の捕虜となり、そこでファシズムから共産主義に「転向」して、チェコスロヴァキア人部隊に身を投じた。ベルリンが陥落して、5月下旬にチェコスロヴァキア人軍団は解散したが、国防情報局の将校として軍にとどまった。どうやら、家族のうちにSSに入隊した者や、ドイツ側の軍人と交際していた者があり、執拗に「汚名返上」の機会をもとめていたと推測されている。

 パズールとその副官であったベドジフ・スメタナ(!)は、予防的な尋問であるとの口実のもと、列車にいた件のスロヴァキアの住民をあつめた。そこで、おのおのがスロヴァキア人であることを証明する書類を携行していたにも拘わらず、第三帝国統治下における占領者への協力者であったと一方的に断じた。

 そうして、これを近郊の丘へ連行し、地元住民には墓穴を掘らせた。日付けが19日にかわるころ、部下たちによって処刑が開始され、朝の5時までつづいた。一説には合計して270人、内訳が男75、女120、子ども75人ともいわれるが、証言により数字は異なっている。生後半年ほどの乳児もふくまれていた──と、公共放送の記事にはある。

 パズールは軍法会議にかけられ、最終的に禁錮20年が言い渡された。ところが、ほどなく「2月事件」で共産党が天下をとると、1年ほど収監はされはしたが、けっきょく有耶無耶にされた。検察役としてパズールを追いつめた法務士官のほうが、政治裁判で裁かれる始末だった。

 

その後

 事件は、長いあいだタブー視され、共産党体制下では口外が禁じられていたが、近年になって解明がすすんだ。とりわけ、史家のフランチシェク・ヒーブル氏が権威として知られ、その功績によりドイツ連邦共和国から功労勲章が授与されている。対して、スロヴァキア共和国にしろ、チェコ共和国にしろ、冷淡なものである。それというのは、おそらく直接の関係者への配慮にとどまらない。じつは戦後の「ドイツ人」の私的な処刑の噂は各地で聞かれるところで、なかにはグレーな事案も相当数あることだろう。それだから藪蛇を避け、だんまりを決め込み、あえて蒸し返すことをしないのも、学術行政的にはともかく、政治的には偉大な知恵とはいえそうだ。さいきんの社会の分断や極東の外交を眺めていると、つくづく思う。

 それでも2018年になると、シュヴェーツケー・シャンツェの現場には、高さ約4メートルの十字架が奉納され、まいとし追悼が行われるようになった。これをもって、一応の落着をみるかとおもいきや、ウェブ上ではこの話題に膨大なコメントが連なっていることがある。いわゆる炎上であるが、それを見るに、研究者の顕彰などあり得ないことを思い知るのである。そうした人びとも、それなりの信念があって書き込んでいるには違いない。というのも、実効性はともかくとして、チェコ共和国では2000年末の刑法改正により、ナツィあるいは共産主義者によるジェノサイドやそのほか人道に対する罪を公の場で否定した者には、6か月以上3年以下の禁錮刑が科されることになっているためである。いずれにせよ、いまだに関心を呼ぶテーマであることは確かなのだろう。

 チェコスロヴァキアの演劇史からみれば、こうしたモティーフは民主化以前には舞台に上げることができなかった、いわばやり残した宿題のようなものだ。演出のハヴェルカは四十そこそこの気鋭のひと。いわゆる傍観者効果など社会心理学の理論も援用して、事件の謎にもせまる意欲作であるらしい。窮状におかれた演劇界が、すこしでも公衆の興味をとりもどせれば良いのであるが。

 ちなみにプシェロフは、街なかをベチュヴァ川が流れるしずかな小都市である。民俗的にはハナー地方、行政的には現在オロモウツ県に属する。事件当時は2万人ほどであったと思われる人口も、1990年代に5万を超えたのち減少に転じ、現在は4万人あまり。

 また、シュヴェーツケー・シャンツェとは、カタカナにするとやや冗長に感ずる地名ではあるけれど、その意味するところは「スウェーデン人の丘」──モラヴィアの地名にスウェーデン人が出てきたら、おおかた三十年戦争で遠征してきた新教軍に由来するに決まっている。シャンツェとは、一般名詞としてはチャンス、すなわち好機の意味だが、地理的にはちょっとした山や高地を意味する。標高300メートル弱の丘とはいえ、北北西に数キロ先のプシェロフ市街も見わたせるから、軍事的には要衝であったことだろう。じっさい、レンナート・トルステンソンに率いられた1万名あまりが、付近に駐屯したらしい。それも17世紀のむかしである。

  

*上掲画像はWikimedia

 

 

 

 

鶏卵と動物の福祉

f:id:urashima-e:20210209023441j:plain

photo by Emiel Maters

 鳥インフルエンザが猛威をふるっている。日本各地で感染が報告され、すみやかに殺処分の措置がとられている由である。

 人間に感染する型もあるにせよ、そもそも鳥類のインフルエンザが変異してヒトに感染するインフルエンザが発生したとも考えられているという。かつて「スペイン風邪」と名づけられた感染症も、起源には諸説あっていまだに決め手を欠くものの、鳥類が関わっていたという説も複数ある。むろんこれは医学的にインフルエンザが風邪と区別がつけられるようになる以前の命名であって、正体はインフルエンザのウイルスであったことはいうまでもなかろう。

 やっかいであることは間違いないが、さいきんでは、発見されると即時「殺処分」するという対応に疑問の声も聞かれるようになった。動物の権利や福祉との兼ね合いも想像されたところだ。

 折しも、年末から年初にかけて、元農相の衆院議員にたいする鶏卵生産業者・アキタフーズ社からの現金提供疑惑が話題になっていた。いわゆる「アニマル・ウェルフェア」への国際的な意識のたかまりのなかで、養鶏業における国際基準採用を阻止してもらいたがったゆえの陳情であった、という推測が報じられている。

 たしかに日本の卵は割安の感があるが、「物価の優等生」の政治的なからくりを見た思いがした。また価格だけではなく、よその国では加熱せずにたべる習慣がないゆえに、日本の鶏卵は鮮度でも見映えでも抜きん出ているようにみえる。たとえば英国の当局は近年、生食も可能である旨の発表をしているが、それでも日本の外では、生でたべる気にはならないひとも多いことだろう。それも、賄賂ぬきには維持できぬものであったということなのか。

 個人的には、こういう煩わしげな領域にできるだけ首を突っ込みたくはないものではあるが、それが特定の種類の文化の差異に関係するばあいには、興味を引かれてしまうことはある。それに、人類がどこへ向かっているのかということには多少の好奇心もわく。動物の福祉。

 この文脈でなかんづく印象ぶかかったのは、年末の『シュピーゲル』誌によるルクセンブルクからの報道である。欧州司法裁判所(ECJ)の判決により、EU諸国では動物の屠殺のさい、麻酔の使用が義務づけられるかもしれない、という趣旨であった。

 ハラールについては、日本でもインバウンド対策をきっかけにひろく知られるようになった。いっぱんにイスラームの作法に則って処理された食材を念頭に、その認証をさして用いられる語である。典型的には、屠殺するさいに決められた手つづきを遵守して捌かれた精肉であるかどうかが焦点となる。ユダヤにも似たような概念があり、カシュルートとか、コーシャーとか呼ばれている。

 これを規制したとしても、宗教的自由という権利を侵害することにはならないというのが、裁判官の「発見」であったらしい。動物の福祉を促進するというのはEUが定めた目標であって、それだから加盟各国は、動物の福祉と信教の自由とのあいだで「適切なバランス」をとる権利と義務がある、ということのようだ。

 もとはベルギーから求められた案件だった。2017年にフランデレン地域において、動物福祉の観点から、麻酔なしの屠殺が禁止されたことが端緒であったという。これにユダヤイスラームの団体から反対意見があがった。どちらの宗教にも、コーシャーまたはハラールにするために麻酔なしで屠殺する規則がある。そこで、信者らが宗教的自由が脅かされていると感じたようだ。

 ベルギーの憲法裁判所は紛争をECJに付託した。判決によると、EU法は例外的な場合や宗教的自由の観点から、麻酔を用いない儀式的な屠殺じたいは許可されてはいるものの、EUの各国政府は、麻酔使用を義務づけることもまたできるという。

 今回のフランデレン地域の場合、儀式的な屠殺じたいが禁じられているわけではないので、信教の自由はじゅうぶん尊重されていることになり、またコーシャーやハラール認証をうけた食肉を他所から搬入することも禁じられていない。そのため、このような判決になったとされている。

 一神教の神様がかかわってくるとなかなかに大変そうだ……というのは偏見だろう。統計上は無神論の国であるチェコ共和国でも昨秋、残虐行為からの動物の保護に関する法律が成立したという報道があった。それはまさに、日本でもいちやく議題になった「ケージ」を用いた養鶏を禁じるものであったが、むしろ同法で注目されたのは、野生動物の調教までも禁じていた点である。

 ここでは信教の自由ではなくて、職業選択の自由生存権との兼ね合いが問題になってくるのであろうが、そのあたりがどう手当てされているのかはしらない。サーカスの興行主や鸚鵡のブリーダーなどが懸念を表明しているようで、はては馬術競技などにも影響がおよぶらしい。

 調教という概念の定義がどうもよくわからない。大雑把すぎる立法は、ぎゃくに細かすぎる運用を生じることもありそうだ。同国には、薬物関係にしろ、交通法規にしろ、曖昧でよくわからない規則が多い印象がかねてよりあった。けっきょくは現場の官吏や警官の裁量によって、恣意的に運用されてしまうのであろう。

 たとえば、ひとくちに調教といっても、犬に「おすわり」や「お手」や「おかわり」を仕込むのは合法なのかどうか、まず気になる。仮に適用されたとして、「おすわり」まではよいが「お手」は禁止──などと一挙手一投足まで口を出されてはたまらない。昨今では、スーパーの同一の売り場内において食品以外の商品の販売を禁ずるという、緊急事態宣言下での無茶な営業規制に典型的にみられたが、こうなると極端である。……さすがに「お手」禁止まではありえないだろうが、事細かなスーパーの販売規制の例にかんがみるに、やりかねない国なのではと思えてくる。

 要するに、議論が煮詰まってなさげなのである。汎ヨーロッパ的な「長いもの」に巻かれただけにもみえる立法だった。だが意外にも「反ヨーロッパ」的なゼマン大統領が、四の五のいうことなく署名したらしい。政党が林立する共和国にあって、かつての環境主義的な法案にちかい位置づけの政治イシューになっているのかもしれない。いずれにせよ、進歩派の意見が通りやすくなってきているように思えるのは、あながち気のせいでもあるまい。

 むろん単純な話ではない。問題はそうとう多岐にわたり、さらに多面的である。ペットの殺処分問題ひとつ取り上げても、単に「ゼロ」を目指しただけでは、飼育環境の悪化をまねくなど、別の問題につながりかねない。1990年代には「鯨はたべてよいか」という問題がずいぶん盛り上がりをみせて、応用倫理学の書物などがよく読まれていたものだった。けれども最近はまた、あの頃とも様相が変わった。めいめい利害を主張するのはよいけれど、感染症対策と同様に「正論」を言い合うだけで済む話でもなくなってきている。このことは日本の産業界のえらい人も、政治家に工作を依頼するくらいには認識しているのだろう。しかし、海の向こうの異文化だといって、いつまで受け容れずにいられることやら。グローバル化は退潮ぎみとはいえ、気がかりではある。

 

*参照:

www.nippon.com

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

keimei.ne.jp

 

冬のオロモウツと「民族の館」

f:id:urashima-e:20210126094853j:plain

 

 モラヴィア辺境伯の記事を書いていて、オロモウツのことをおもいだした。はじめて訪れたのはもう、20年ほどまえの話である。つもった雪をみると、思い浮かぶ光景も多々あれども、どうしてゆくことになったことになったのかは、さだかではない。

 当時オランダに留学していた友人と、メールかなにかでやりとりしていたのだ。共通の恩師というのか、教会史にも通じた先生からの書簡にこの町の名前がでてきて、そのことを伝えたら、友人が行きたいといいだしたのではなかったか。ひょっとすると現地での生活や、経済史の研究に行き詰まりを感じていたのかもしれない。そうでなくとも、クリスマスの休暇の時期には、人びとが家族のもとへ帰って街の商店も閉まり、単身者は孤独や寂寥の念をふかめるのが常である。むろん、ロックダウンなどない年でもそうなのだ。

 しかし大陸ヨーロッパを見わたせば、ほかに愉しそうな観光地はいくらでもある。チェコ共和国にかぎっても、プラハを筆頭に観光客に人気のあるスポットは枚挙に遑がない。

 オロモウツは、共和国内で6番目にあたる10万という人口規模の小都市で、ふるくは交通の要衝であったものの、国境からも隔たったモラヴィアの内陸に位置する。いまでこそユネスコ世界遺産やその他の文化財の豊富さで知られるが、ビジネスや留学をのぞけば、とりたてて目的地とするよりも、近くまで来たら立ち寄るというほどの旅程のひとが多いのではないだろうか。

 はたして訪れてみると、道ゆくひとも稀にはあったが、雪ぶかい市街地は不思議なしじまに満ちていた。いまかんがえると、友人もあまり騒ぐ気分にもなれなかったろうし、この隠れ家のごとき宗教都市というのは絶妙な選択であったのかもしれない。

 中心部の街並みは、とりわけバロック色が濃い。その通りをつい何年かまえに訪れたというヨハネ・パウロ2世の大きな写真が、礼拝堂の入り口など、そこかしこに掲げられていた。統計上は世界有数の無神論国家ではあるけれど、ローマ教皇の降臨となると、なかんづく大司教座を擁することを誇る町にとって、このうえない栄光の一頁となったのであろう。

 じっさいのところ宗教改革の端緒とは、豪奢な聖職者の暮らしを知った庶民の憤懣に関係しているにちがいない。格差や分断といえば、現代人にもわかりやすい。だからといって蓄財の成果というわけでは必ずしもないのだろうけれど、オロモウツ郷土史博物館や美術博物館の常設展ではやはり、キリスト教美術関連が充実していた印象をうけた。とはいえ、これはとくに教会のお膝元にはかぎられない。日本でも地方の博物館というとほとんどは、仏教美術が館蔵品の中心を占めるから、なんとはなし親近感がわくことはたしかである。

 さて、夜のとばりが下りるとまもなく、あまり酒につよくない友人は酩酊して眠ってしまった。わたくしはといえば、どうも飲み足りず、ひとりホテル内のバーに赴いたのだった。

 暗がりのなかで麦酒の杯を受け取ると、とたんに騒々しい音楽がはじまって、やや弱いスポットライトが灯り、思ったより広いフロアに大勢の地元の若者らが集っていたことに気づいた。ネオルネサンス様式の上っ張りだけが取り柄の見すぼらしい安宿にしては、意外にも立派な空間である。とまれ、これは面倒なところに来てしまった。一杯やったらすぐに退散しようと思った。

 その矢さき、酔っぱらったひとりに捕捉された。音響が凄まじく、しかたなしに大声をだしてはいるが、友好的な口ぶりではあった。

 ──景気はどうだ。売れてるのか。
 ──まあ、ぼちぼち……いや、なんだって? 
 ──天幕だして、もの売っているんだろう? 靴か。古着か。クンパオか。

 どうやら、ヴィエトナム系の商店主だと思われたようだった。オロモウツにも多いのだと察した。ただ、アジア人というだけで眉を顰める者もおおい国で、意表な棘のなさであった気もしたが、このていどの会話とて、差別だと感じるひとにとっては差別なのだろう。微妙なところだ。

 ところが、このとき泊まった建物が、19世紀から20世紀はじめにかけて、同市の民族運動の最前線ともいうべき施設であったことは、のちに知ったのである。──いやいや。正直なところ、うすうすわかっていた。ネット予約など普及していない時代に、どうやって手配したのか記憶にないとはいえ、その時点で「民族会館」というような名称に気づかぬものではない。

 カトリシズムのつよさからも連想してしまうように、モラヴィアオーストリア帝冠領であった時代、オロモウツもまた、歴史家がいうところの「ドイツ人の町」のひとつであった。少数派であったスラヴ系の住民は文化的な環境を改善すべく、1888年「ナーロドニー・ドゥーム」すなわち「民族会館」ないし「国民の家」を開設した。そのころ民族意識のたかまりのなかで、文化的な行事をつうじて人びとの自覚をうながし、懇親をふかめようという趣旨で、この手の施設が各地でたてられるようになっていた。それでプラハをはじめ、ほかの町々で志を同じくする団体や個人からも、支援の手が差し伸べられたのである。

 いっぽうドイツ語をはなす人びとは、都市部などかぎられた地区をのぞけば、ボヘミアモラヴィアをはじめ帝国のおおくの土地で、じつは数的に劣勢であった。唯一の公用語をはなすという優位性も、いわゆるターフェの言語令や、のちバデーニの言語令によって失われていったようにおもわれた。それでも窮地に立つと燃えあがるのがナショナリズムというもので、ドイツ語話者は結束をつよめ、ほうぼうに「ドイツ人会館」が建設されてゆく。町によって両者の建設に前後はあろうが、民族ごとに組織された団体によって津々浦々に同種の文化施設が建てられていったのはたしかである。そして対立が昂じるなか、そのシンボル的な重要性もたかまっていった。ただ、オロモウツのドイツ人らが1870年代から計画をすすめていた施設は、戦火やインフレによって実現が難渋したらしく、1930年代になってようやく落成をみている。この建築物も市内に現存し、いまでは「スラヴ人会館」と名づけられているが、こういうのは修正主義とは呼ばれないらしい。

 オロモウツの経緯は例外に属するかもしれない。だが、第一次大戦を経て、帝国崩壊のどさくさのうちにチェコスロヴァキア共和国が成立してしまうと、こんどはぎゃくに諸民族の融和と国民の統合が喫緊の課題となって急浮上する。なにやらトランプ政権のあとを継いだ、ジョー・バイデンのスピーチに通ずるものがある。それだから相対的な重要性の低下は否めなかった反面、たいていの町々の「民族の家」じたいは壮麗な外観にとどまらず、コンサートや舞踏に好適なホールをそなえていたことから、その後もさまざまな催しにひろく利用されていった。オロモウツの「館」も社会主義体制の時代になってなお、わりと親しまれていたようだ。しかしそれも、ビロード革命によって、いちじるしい価値観の変化がおこるまでの話であったのだろう。

 21世紀はじめの時点で、われわれが投宿したオロモウツの「館」は、朽損はげしく、あわれに廃壊の惨状を呈していた。強制収容所だといわれても信じてしまったであろう拵えの客室で、廃墟に漆喰が塗りたくられていたようなものであったが、それも破格の宿泊料から推して知るべきであった。しかしそのころはむしろ、好奇心のほうがまさっていた。立地のよさも手伝って、しばらくのち二度、三度と滞在することになったのである。その間、なんらかの尽力があったことは明白で、客室は徐々にホテルらしくなっていったのだ。

 それでもほどなくして、ホテルとしての「館」は廃止されてしまった。直近の報道によると、現在ではかろうじて地上1階だけは銀行の支店や世界的なカフェのチェーン店がテナントとしてはいり、有効に活用されてはいるものの、内部の荒廃は相変わらずのようだ。所有権者らに歴史的な価値は理解されていても、先だつものがないという事情らしい。部分的な営業だけでは、やはり維持や修復に不安があるということか。数年前には、2021年を期してホテル業も再開される見通しとも報じられたが、さてどうなるだろう。観光客が絶え、飲食や宿泊の業界にきびしい情勢がつづくなかで、文化財保全にも暗雲がただよっている。

 

 *アクセス:

 

*参照:

olomouc.rozhlas.cz

 

*上掲画像はWikimediaより。

モラヴィア辺境伯ヨープスト

f:id:urashima-e:20210123030631j:plain

photo by urashima-e

 いつぞやのブルノ市の広報誌の記事によると、モラヴィア辺境伯ヨープストが没してから、2021年は610周年になるようである。命日が1月18日だったというから、すでに幾日も経ってしまったが、とおいむかしの話であるからして、このくらいの差はなんでもないことのようにもおもえてしまう。

 便宜上ヨープストJobstと書くけれど、現在のモラヴィアではむろん、ヨシュトJoštと一般に呼ばれる。幼少のみぎりからブルノで育った偉人で、いっとき帝冠をも射程におさめたほどの出世頭であるから、市民も誇りとするわけである。市の中心部には、チェコ共和国憲法裁判所が置かれているが、その前の通りが「ヨシュト通り」と名づけられているのも不思議はない。この通りを東へゆくとつきあたるのが聖トマス教会で、中世モラヴィア随一の君主がここに眠るからである。

 2015年の秋であったが、この教会のあるモラヴィア広場のいちばん目立つところに、ヨープストをモティーフとした騎馬像がたてられた。地面から槍の穂先までの全高は、じつに8メートル。かなり以前からコンペがおこなわれていたものの、デザインの選定に難航していた。曲折を経て、プラハの《フランツ・カフカ記念像》などで知られる彫刻家、ヤロスラフ・ローナの案が採用された。時代考証から異論が噴出した経緯もあり、それかあらぬか公式の名称は《勇気》の像ということになった。企画の段階から、プラハ・ヴァーツラフ広場にたつ《聖ヴァーツラフの騎馬像》を意識したとおぼしいところもあって、それこそ対抗心の発露であったようにもみえた。どこか、政治的野心から近しい者との抗争に明け暮れたヨープストの生涯にもつうずるところがある。

 では、ヨープストとはいかなる生涯をおくったのか、ということになるが、往年のルクセンブルク家における親族間の権謀術数は複雑にして込んでおり、要約をこころみるには手に余る感がある。それでも、くだんの広報にある記事が簡にして要を得ていたので、主としてこれに依拠して紹介したい。文責はマルケータ・ジャーコヴァー氏となっている。どのようなかたちであれ、気軽に中世史をあつかうことは畏れおおいことではあるにせよ、とまれそのむずかしさのひとつには史料の欠如というのがある。モラヴィアも多分にもれず、14世紀後半については同時代の年代記の裏づけを欠く。それだから、ヨープストの出生にしても、ブルノ市の出納記録から、1354年10月のいつかと推定されるのみという。

 ヨープストは、ルクセンブルク家のヨーハン・ハインリヒ(ヤン・インドジフ)の第二子にして長男としてうまれた。伯父、つまり父の兄がボヘミア王カレル、のちの神聖ローマ皇帝のカール4世で、兄弟のあいだで封土として下賜されてまもないころのブルノに、父の廷臣らとともに移り住み、そこで育った。そのころ王には嫡子がおらず、そのためヨープストの養育には手がかけられた。伯父の跡を襲ってボヘミア王位につくことも考慮されていたわけだ。

 事情が変わったのは1361年で、すでに皇帝となっていたカール4世に、壮健な息子ヴェンツェル、のちのボヘミア王ヴァーツラフ4世が生まれたのである。いっぽうブルノでもヨープストの家族が殖えており、ふたりの姉妹のほか、ヨーハン・ゾービェスラオス(ヤン・ソビェスラフ)とプローコプ(プロコプ)の兄弟がうまれ、のちのち従弟のヴェンツェルや、その弟にあたるズィーギスムント(ズィクムント)らと同様、ヨープストの人生にとって数奇な役割を演ずることとなる。

 ヨーハン・ハインリヒが複数の遺言をのこしたのも、息子たちへの相続を確実なものとし、紛争を回避するためであったにも拘わらず、結果としては諍いをもたらすこととなった。遺産の大部分と「辺境伯にしてモラヴィアの君主」なる称号とともに統治権はヨープストに与えられることとされていた。だが、弟に一部の財産が与えられるとともに「辺境伯」の称号も用いることができることになっていたのが、よくなかった。

 はたして1375年の父の死後、ヨープストがモラヴィアの統治を引き継いだが、すぐに弟のヨーハンとの抗争に巻き込まれた。けっきょくはヨーハンは聖職者の道をあゆむことになり、1380年にはリトミシュルの司教におさまっている。

 この70年代から80年代にかけては、さまざまな問題に直面した──モラヴィアの住民はペスト禍におそわれており、オロモウツの聖職者参事会との軋轢にあっては、空位となっていた司教に弟のヨーハンを擁立するもうまくゆかず、もうひとりの弟であるプローコプとのあいだとなると、遺産をめぐって短期の武力衝突にすら発展していた。

 争いがおさまったとき、ヨープストはモラヴィアだけでなく、ボヘミアでも、そしてルクセンブルク家のうちでも地歩を確固たるものとしていた。1378年にカール4世は崩御し、その子、ズィーギスムントがポーランドに遠征したさいには、多額の資金を貸与しもしたが、けっきょくポーランド王位を得ることはできなかった。いっぽうハンガリー王位をめぐっては、ヨープストやプローコプの多大な援助によってズィーギスムントが獲得し、その見返りに、現在のスロヴァキア西部一帯にあたるハンガリーの領土を抵当として譲渡した。

 ただ、80年代の後半には、ヨープストは財政問題に直面し、父親から相続した財産の一部を売却することを余儀なくされる。また、弟のヨーハンをオロモウツ司教の座に据える目論見も、ふたたび挫折した。のちヨーハンはアクイレイアの総大司教となり、1394年にウーディネで暗殺されることになる。

 ヴァーツラフ4世からルクセンブルクアルザスの封土を借財の抵当として譲られたとき、ヨープストの権勢はがぜん伸長をみた。ハンガリーの諸侯らは、領域の一部がよそものの統治者によって抵当がわりにされたことに不満をいだいており、それがひとつの理由らしいのだが、王ズィーギスムントは代わりに、ヨープストとプローコプにたいし、ブランデンブルクの大部分をも抵当として譲った。これらの資産がまた、諍いのもとになったことは想像にかたくない。

 90年代前半に、弟プローコプとのあいだで二度目の紛争が勃発した。また同じころ、統治に不満を抱いていたボヘミアの貴族たちによってヴァーツラフ4世にたいする謀反がおこり、ヨープストはこれにも加勢した。1394年5月の初めに反乱勢力がヴァーツラフを捕らえたとき、ヨープストはボヘミアの事実上の統治権を掌握しさえした。その後、交渉の末にヴァーツラフは解放され、逆にヴァーツラフは翌年ヨープストを捕縛したが、すぐに釈放している。けっきょく1396年にボヘミアに赴いたズィーギスムントによって情勢は収束に向かい、モラヴィアでも講和が成立した。

 その後、90年代後半には影響力をとりもどしていたヨープストにたいし、ヴァーツラフ4世は両ラオズィッツを抵当とし、さらにブランデンブルク辺境伯領の封土も譲渡した。ヨープストはブランデンブルク辺境伯にして選帝侯に就いたことで、皇帝を選定する権利までも手にした。しかしのち、ヴァーツラフ4世が遠征にでた一時期、弟プローコプにボヘミアの執政が委ねられると、プラハを明け渡すよりほかなかった。

 こうしてモラヴィアに兄弟間の紛争がつづいていた1400年、選帝侯らがローマ王・ヴァーツラフ4世を廃し、ヴィッテルスバッハ家のプファルツ伯ループレヒトをあらたに選出するという事態がおこった。ルクセンブルク家内部の抗争をいっこうに収めることができぬ「怠慢王」に、不適格の烙印が押されたのだとしても無理からぬものがあった。ヨープストは従弟であるヴァーツラフ4世側を支持するも、モラヴィアでの戦いに忙殺されていた。そこをついてプラハはズィーギスムントが掌握し、さらにボヘミア全域の統治権も確保すべく、ヴァーツラフを捕らえ、のちプローコプも捕らえた。ヨープストはこのときズィーギスムントに反旗を翻し、ボヘミアの大多数の町や貴族もこれに参集した。結果、ズィーギスムントは1403年ボヘミアを去り、1420年になるまで戻ることはなかった。

 1403年にウィーンの牢獄を脱したヴァーツラフは、ヨープストの忠実なる態度を顕彰して報償を与えた。モラヴィアにおける紛争も終結するいっぽう、1405年、ヨープストはヴァーツラフ4世の名のもと、ブダにおいてズィーギスムントと和平を結んだ。辺境伯プローコプもプレスブルク(現ブラチスラヴァ)の監獄からもどったものの、いちじるしく健康を害しており、現在はブルノの一部となっているクラーロヴォ・ポレにあるカルトゥジオ会の修道院にみじかい余生をおくり、まもなくそこで没した。ヨープストは、戦乱によって荒廃しきったモラヴィアをひとり治めたが、たほうで同様に混乱したブランデンブルクでもかなりの時間をすごした。当時まだ官邸のひとつも整備されていなかったベルリーンに好んで滞在し、種々の特許状を発するなどして、その発展に寄与したという。それが、のちのブランデンブルクプロイセンドイツ連邦共和国の首都となってゆく巨大都市の礎をかたちづくった。

 1410年、ローマ王・プファルツ伯ループレヒトが没したとき、選帝侯のなかにはズィーギスムントを支持した者もあったが、10月になるとヨープストも後継者に選出された。周知のように「ローマ王」とは、時代がくだると「ドイツ王」と表記されることがおおくなるが、つまるところ帝位継承者が帯びるものと解された君主号である。すなわち、モラヴィアから皇帝が輩出するのも目前かとあるいは受け取ることもできた。

 ところがヨープストは、ことの成り行きを見届けることなく、1411年1月18日、ブルノに居ながらあっけなく頓死してしまった。あまりに唐突であったがために、毒殺されたのだという憶測もながれたが、捜査にもかかわらず真相はわからなかった。それでもともかく亡き骸は、くだんの聖トマス教会に埋葬された。往時は聖アウグスチノ修道会に属しており、ヨープストの父、辺境伯ヨーハン・ハインリヒが開闢したものであった。

 ときはさらに下って1998年。同教会のヨープスト廟の考古学調査のおり、遺骸の人類学的研究もおこなわれた。報告によれば、ヨープストは上背180センチの偉丈夫ではあったものの、骨格に変性疾患も認められたという。それでも死因の特定には至らなかった。

 

*1400年頃の神聖ローマ帝国ルクセンブルク家の版図(Wikimedia):

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/HRR_1400.png

 

あいまいな私見の私

f:id:urashima-e:20210118020222j:plain

photo by Henning Sørby

 各国でワクチンの接種も始まったというのに、終熄しそうでいてなかなかしないのが、パンデミックパンデミックたる所以というところか。おなじコロナウイルスといっても、SARSは2002年に最初の感染例が報告された翌年に終熄宣言がでたものの、2012年のMARSに至っては、いまだに終熄の目処はついていないそうな。

 たいていの国では、政策の音頭をとっているのが疫学や感染症学の専門家であるからして、社会活動には規制を課す方向に傾きがちである。しかも報道によると日本では、特措法による制限に従わない場合の罰則をもうける方向で議論がすすんでいる。なるほど、私権を制限し放題の体制である国は、封じ込めに「成功」しているとつたわっている。だが、日本でそれをするのは、どうなのだろう。

 先週のことである。新年の日曜日。昼ごろ、メールがはいった──

 先ごろ発足した新政権が、緊急トレーニング令を発出した。13:50より、いつもの場所で。

 そんなかんじの内容だった。

 むろん、冗談めかして書かれた告知である。要は、おっさんが五、六人で集まって、屋外の卓球台に陣取り、なにかをちびりちびり飲りながら汗をながすつもりであるから、かならず来るように……というメールなのだ。じつは初めてではない。秋口くらいから、ほぼ週末の恒例となっていた。それを毎回まいかい、のらりくらりと躱してきた。一度か二度、顔を出したていどだ。

 いや、じつのところ運動はしたい。こちとら昨夏からジムに行っていない。こころなしか、いや確実に、衣類のウエストがきつくなった。それでも、あえて「不要不急の外出」の禁を犯してまで、また職務質問に遭うリスクを冒してまで出かけるのも、しょうじき面倒くさい。どの国でも官憲が巡廻しているが、じっさい卓球をしているときにも警官がやってきて、注意を喚起していったことがあったと聞いた。

 忘年会やクリスマスや大晦日にきた招待やお誘いをうけながら、ていちょうに辞退した向きは多いのではないか。このご時世であるから、なにもわたくしだけ、というわけではあるまい。

 どうも世の常として、ふたつの種類の人間がいる。気にするひとと、気にしないひとの二種である。そのあいだで、コミューニケイション上の齟齬や困難が生じる。たとえば、自分は気にしないけれど、相手が気にしていたらどうするのか。あるいは逆に、自分は細心の注意を払っているのに、相手はまったく意に介さない。──これはもう、何につけてもそうなのだ。

 営業自粛を守れとか、外出を控えよとか、マスクをせよとか、声高にきれいごとをならべるだけならば簡単である。だが、われわれが生きているのは、もっとグレーで、あいまいな世界だ。現実的には、周囲にいるさまざまなひとと、うまく折り合いをつけねばならない。白黒つかない世界で、0か1かと迫られた帰結が、社会全体の分断であったのだとすれば、しごく当然の成り行きであった。それだから、白か黒かはひとまず保留して、その場その場で好手をさぐるしかない。

 こうしたばあい、どういう行動が最適解なのか。相手に合わせるのがよいのだろうけれども、蝙蝠のごとく、まいかい行動を変えつづけることは可能だろうか。そこまで器用にたちまわることも実際にはむずかしい。──けっきょく一律に断ってしまうのがたやすかろう、という結論にいたった。事なかれ主義だといわれたら、その通りである。一事が万事であるからして、いずれの国にせよ、国民全体での危機感の共有なんぞ、はなから無理な難題であった。

 日本語にいわれる「自粛要請」という変な表現にも、すでに慣れっこになってしまった。といっても、同調圧力になれている日本人にとっては、さほど奇妙なことではない。むかし学校では「自主練習に強制参加」させられたものだったし、会社では「自主退職を勧奨」されたりもする社会なのだ。

 ではそれで、上から下まで唯々諾々したがうかといえば、どうも様子がかわってきている。報道によれば、先週末に日本でおこなわれた各種行事も対応がわかれたらしい。成人式もオンラインに切り替えたところもあれば、入れ替え制にして挙行した自治体もあった。高校サッカーの決勝は急遽、無観客試合になったが、大学ラグビーのほうは、1万人以上の観衆がスタジアムをうめた。

 よその国はともかく、日本人の行動様式がかわってきているのだとすれば、私権の制限というのは自然な議論のゆくえなのかもしれない。だが、刑事罰をもともなう法律となるとどうであろう。癩予防法や優生保護法の教訓を無視した、むしろ時代錯誤の立法になりうるのではないか。

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.newsweekjapan.jp

 

エピファニー

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/3K%C3%B6nige%2CRavennaGe%C2%B9%C2%B375%C2%B0.jpg

 客席から手拍子がきこえぬ「ラデツキー行進曲」では、新年が明けた気がしない。

 元日といえばウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、まいとしほろ酔いのあたまでノイヤールコンツェアトを聴くのが習慣である。といっても高価なチケットを入手して出かけるほどの気概もなく、もとより「リモート」で満足していた。それでも、感染症対策のために観客をいれずにおこなわれた今年は、中継映像もやはり異様である。左右の壁に32体ならぶ黄金の女像柱が、眼下の空っぽの客席を睥睨しているのが、なんとも不気味な楽友協会であった。

 そうこうしているうちに日は過ぎて、すでに正月も6日。20世紀の半ばまで、カトリック教会でいう降誕節とは、クリスマスからこの日までを指していた。おおくの地域でクリスマスの飾りをかたづける日である。つまり、この期日までが日本の「松の内」に当たるのか。アドヴェントクランツくらいならまだしも、おおきなツリーを用意した家庭は大儀そうで、都会ではごみ捨て場に樅や唐檜の木が集積される光景もみられる。この日にツリーを燃やさない文化では、2月2日の聖燭祭(キャンドルマス)までそのままというところもあり、春がくるまでクリスマス気分がつづいてしまいそうだ。

 1月6日が「聖なる三王の日」とか「エピファニー」とか呼ばれるのは、イエスが世にあらわれた日という記念の主旨に由来し、東方からベツレヘムを訪れた王、ないし占星術の学者らが「世」を代表している。ひろく公現祭というけれど、辞書によれば主顕日、顕現日、また宗派によっていろいろの呼び方がある。それもむろん教会によって捉え方が異なるためである。

 正教では暦が異なって、二週間ほどの差があるけれど、とまれ神現祭とも主の洗礼祭とも呼ぶそうで、むしろこれからがクリスマス本番という観がある。というのも、東方教会ではがんらい、イエスが洗礼を受けたことを祝う日となっていることによる。起源をたどると、ナイルの神・オシリスを祀った祝祭の名残りだというから、そうとう年季がはいっている。たとえばロシアでは、プーチン大統領みずからが古式に則って、寒中水泳めいた奉神礼を受けているのが報じられたこともあった。

 西方では、つい戦後の1955年になってカトリック教会が「主の洗礼日」を分離独立させて13日としたことから、エピファニーの意味合いが明確になった。1969年にはさらに、以降の直近の日曜日にあらためられている。そうした経緯を経て、現在のエピファニーの日は、イタリアやスペイン、またオーストリアクロアチアなど、それからドイツ連邦共和国でもカトリシズムがつよい諸州にかぎって、法定の休日となっている。わりと重きがおかれている日なのである。

 聖三王の祝祭とは別に、おなじドイツ語圏でも呼び名がじつにいろいろあるのには少々おどろく。俗にホーホノイヤール(Hochneujahr)ともいうらしいが、グロースノイヤール(Großneujahr)の称にいたっては、「大正月」みたいな語感がある。が、日本語では元日から7日までの意味であるから、たしょう混乱するけれど、大差ないか。オーストリア弁で、ヴァイナハツツヴェルファー(Weihnachtszwölfer)とよばれるのは、クリスマス(ヴァイナハト)から12日目(ツヴェルファー)のことかと想像がつく。つくけれども、連想するのはまったく別のことで、ありきたりだが『十二夜』である。

 シェイクスピア_Twelfth Night, or What You Will_を『十二夜』と最初に訳したのは、おそらく逍遥坪内雄蔵先生であろうが、十三夜とか十五夜が秋の月見を思い出させることからすれば、近代の日本語にあらたな混沌をもたらした訳業だったのかもしれない。それからエピファニー・イヴのことも日本語で十二夜と呼べるようにはなりはしたが。とはいえ、かの地ではエリザベス朝のむかしから宴会の日だったわけだ。劇そのものには、どたばたの印象しかないものの、10年以上まえにアン・ハサウェイ男装の麗人ヴァイオラを演じたのが話題になったのは覚えている。

 お祝いについては、前夜といわず、クリスマスからつづくばあいもあるし、これまた土地ごとにさまざまな様相を呈している。

 フランスでは、ガトー・デ・ロワ(le gâteau des rois)などと呼ばれる菓子を焼くのだろう。これもふれておかねばなるまい。直訳すると「王のケーキ」というわけだが、めいめいに切り分けられたひと切れのなかに、陶器の人形がひそんでいれば「当たり」という、「王様ゲーム」のたぐいがつきものである。

 これがひろく知られるのも、ふるく「真珠嬢」とも訳された、モーパッサンの「マドムワゼル・ペルル」という味わいぶかい短篇による。──シャンタル家にお呼ばれした主人公は、予期せず「王様」役を拝命してしまう。となると「女王」を指名せねばならないが、おもうところあってか、シャンタル氏の令嬢をさしおいて、ペルル嬢と呼ばれていた正体不明の中年女性をえらぶ。のち、シャンタル氏とビリヤードにくりだすと、その口から件の女性に関する意外な過去が明かされる──真実の顕現、すなわち「エピファニー」という現象をえがいた古典的な傑作という気がする。

 さて、もっと牧歌的な風習は、旧ドーナウ帝国の領域にのこっている。現在のオーストリアのみならず、もとの領内であったポーランドや、ボヘミアモラヴィアなどの各地には、シュテルンズィンガーなどといって、子どもたちが「王さま」に扮して家々を訪ねてはキャロルを歌う慣らいがある。なにがしかの心づけを献じた家には、扉や鴨居などに「C+M+B」とか「K+M+B」とか、白いチョークで祝福の文字列をのこしてゆく。とはいえ報道によると、ことしは例によって感染拡大予防の見地から、実施が見送られたところがおおいようだ。

 この手書きの標識はむろん、エピファニーに現れた「マギ」の名を暗示している。

 拝火教の指導者をさしたともいう「マギ」とは、とりわけ複数形だけよく知られた謂いである。それも「マタイ伝」第2章のみに出てくるきりなのに。翻訳によって「王」とか「博士」とか「賢人」とか「占星学者」とか、いろいろな素姓で書かれてはいるとはいえ、氏名はおろか、人数すら明かされていない。黄金・乳香・没薬を贈ったという記述から、訪問者が3人であったということになったのは短絡的にもおもえるけれど、そこから具体的な名前までが案出され定着してしまっているのだから、カトリシズムという壮大な二次創作物の受容史にあって、とりたてて興味ぶかいものがある。正典と認められないながら、こういう形で布教に利用された文書も膨大にあったと思しい。

 新共同訳によれば、こうである──

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  ガスパール、メルキオール、バルタザールとか名づけられているものの、そもそもどうしてこのひとたちは、「星」を見たというだけで、イエスの誕生を知ったのか。星にチョークで書いてあったとでもいうのか。ほかでもない啓示(エピファニー)というわけであろうが、天文学のメディアに面白い記事をみつけた。

  記事によると、おそくとも13世紀いらい天文学界では議論があった。可能性として、超新星、彗星、太陽フレア、惑星のなんらかの配列という事象が想定された。あるいは、じつは何も起こっていなかった、つまりまったくの「神話」という場合もあり得る。

 筆者であるエリク・ベッツは、冴えたことを言っている。聖書では「star」と単数形の星になっているけれども、仮にそれが「彗星」であったとして、古代の人びとはふつう、それを差し迫った破滅的な運命のきざし、すなわち凶兆と考えていたはずであり、したがってマギとて、それを救世主が生まれたしるしと解したとは想像しがたい。

 このひとは現代の便利なアプリをもちいて、歴史的な天体の配置を模擬的に再現してみたらしい。すると、紀元前7年に木星土星が、うお座の領域にて「接近」したことがみとめられた。さらに4年後の紀元前3年の夏には、木星と金星が、つい暮れにもあった「グレイト・コンジャンクション」にも似た配列をみせたという。すなわち、同年8月12日、木星と金星が、ほぼ重なった状態で未明の空にあらわれた。その隔たりは、満月の直径の1/5という、わずかなひらきしかなかった。けっきょく両の天体は、翌年の6月にほとんどひとつの星にみえるまで「ダンス」をつづけた。こうした天体の配置には、たとえば17世紀のヨハネス・ケプラーなども気づいていたのだという。

 「グレイト・コンジャンクション」については、現代の天文学者占星術師たちも、最近さかんに指摘していた。2020年12月21日に木星土星が「接近」するため、夜空にひとつの天体のようにみえるようになるという話である。当該記事では、800年ぶりとされているが、解釈のちがいにより媒体によっては400年ぶりとも600年ぶりとも書かれている。

 とまれ、そのばあい天体は単数ではなくなるではないか、という指摘もできる。しかし、マギが何らかを予感したとすれば、これがきっかけであったろう、という推論じたいは成り立ちうるし、わたしたちも困難な時代にあって、この天体現象が自分にとって何を意味するのか、ひとりひとりが自身で決めたらよいのではないか──というふうに、記事は締めくくられている。けだしそれこそが、今日この日がエピファニーでありつづけていることの意義であったのかもしれない。

新訳 十二夜 (角川文庫)

新訳 十二夜 (角川文庫)

聖書 新共同訳 新約聖書

聖書 新共同訳 新約聖書

  

*参照:

astronomy.com

www.ceskenoviny.cz

 

*上掲画像はWikipedia

 

ゆく年のベートホーフン

f:id:urashima-e:20210101073632j:plain

photo by Taylor Deas-Melesh

 2020年は、ベートーヴェン生誕250周年であった。この、せっかくの観光客万来の年だというのに、こうむったのは疫病さわぎの冷や水であった。「ベートーヴェンハウス」を擁するボンやウィーンの関係者はさぞや、ほぞを噛んだことであろう。

 どうして「ベートホーフン」など、原語の音にちかい表記がメディアに採用されていないのか、ふしぎでならなかった。音にさとい音楽関係者たちがよく平気でいられるものだと。250周年を機に、いっせいに切り替えたらよかったのに。報道機関がロナルド・リーガンを「レーガン」に訂正したのは、よっぽど早かったらしいが、アンゲラ・メルケルが「メルクル」に直されるのはどうやら、任期切れの2021年9月までなさげである。さいきんは学校の教科書もルーズベルトから「ローズヴェルト」になっているらしいというのに……。

 詮ないこととはいえ、気になるたちである。日本語に正書法がない以上、けっきょくは、おのおのの業界の慣行に合わせるしかない。英語圏をはじめ、世界の演奏家や批評家たちのあいだで会話するには、ベートーヴェンと言ったほうが通りがよいのではあろう。スペイン語圏の発音に至ってはベートーベンと音写されるはずで、かなり日本語にちかいのではないか。とはいえ、オリジナルだけが例外的な発音というのもなんだか、いっぽ日本を出たら世界中でハラキーリ、フジヤーマ、カマカーゼ、サヨナーラだった──みたいな話だ。

 さて、ベートホーフンといえば、とりわけ年の瀬には「第九」すなわち「歓喜の歌」でお馴染みであるが、この楽曲は現在では「欧州の歌」としても知られている。原詩をものしたのが、かのフリードリヒ・フォン・シラーであった。

 ウィーンの中心部、オーペァンリングとエリーザベト通りをはさんで、ゲーテの坐像と向かい合うように佇むのが、シラーの立像である。その名も「シラーパルク」という、こぢんまりとした公園になっている。いっぽうテューリンゲンのヴァイマルには、ゲーテとシラーが並んでたつ像がある。19世紀後半の作というが、じっさい行って見てみたら、どうもポーズが劇的すぎる気がして、旧東独だけにソーシャリスト・リアリズムっぽさを感じてしまった。いずれにせよ、シラーといえばゲーテゲーテといえばシラーといったところがあるほどの友誼であった。

 そういえば両者の表記とも、19世紀からギョッテとか、シルレルとか、いろいろの変遷を経ている。いつだかSNSでも文献学的に考証してまとめていたひとがいた。ゴェーテとシラァあたりが、もとの音っぽい気がして好みではあるのだが。ほかにも歴史的にはさまざまな表記があったいっぽう、共時的にみてドイツ文学をはじめ、現代ではどの界隈でも同じような表記がつかわれているようであるから混乱もすくなく、なにより、もっと原語の発音から遠い表記もあることをおもえば、ゲーテとシラーが無難であろう。……この話はきりがない。

 チェコ共和国では、かならずしもドイツ系ということを意味するわけではないにせよ、いまでもドイツ姓のひとがそうとう多い。秋口に訃報がつたわったイジー・メンツルもそうであった。じつにこのシラーさんとて、「シレル」にちかい音で発音されるものの、いらっしゃるわけだ。ほかでもない、アレナ・シレロヴァー現財務大臣が該当している。女性の苗字が原則的に-ová(-オヴァー)という語尾となるのは文法に由来する習慣であるが、シレロヴァー(Schillerová)さんの男性の家族は「シレル」さんであるはずで、綴りもかのシラー(Schiller)と同一である。

 シレロヴァー財相に関しては、元次官の経験からくる実務能力が買われたらしく、アンドレイ・バビシュ首相の肝煎りで起用されたが、むろん、民意の洗礼を受けていない「貴族政治」という批判もある。それでもやはり特殊な年であったがため、2020年には存外に活躍の機会があった。各種の補助や補償金の給付制度はもちろん、この年末には税制改革までやりおおせた。会計上のいわゆるスーパー・グロス賃金の見直しをともなう大掛かりなもので、話題になった。SNSで自らの手柄をアピールするのも忘れないが、親分とはちがってインスタ派のようすで、ツイッターでも各種の立法などを広報している。ちょっと気どった面持ちでいつも写真に収まっており、じつはけっこう出たがりなのかもしれない。

 政治の事件もSNSで知ることも多くなってひさしい。おもえば日本の総理を筆頭に、年の初めと終わりでは、人が交替してしまっているポストもすくなくない。チェコ共和国でいえば、ヴォイティェフ元保健大臣などは、春にはツイッターでさかんに感染症対策について広報をおこなっていた。このひとも「バビシュ・チルドレン」のひとりだった。あのころは、未知のウイルスへの不安もあってか、どこの国でもひとは熱心に情報収集に努めていた。たとえばドイツ語圏にはクリスティアン・ドロステン、北米にはアンソニー・ファウチというカリスマ的な権威がいて、人びとは注意ぶかく、こうしたひとの発言を追ったものだったし、ある程度までは今でもそうにちがいない。けれども、ほかのたいていの「普通の」国では、こうしたウイルス学や感染症学といった学界のスーパースターがいることは、まれである。次善の方途として、政府の対策にかんする情報くらいはタイミングよく知りたくなるというのが人情だったのであろう。よくわからんけど、政府のいうことにつき合おうと。

 人間の馴化のすばやさを目のあたりにしたのもまた、2020年だった。それまで習慣のない国ぐににおける、マスク装用の普及などは最たる例である。それでもあれ以降にも、疫病とのつきあいかたというか、規制との折り合いのつけ方や態度も、だんだん変わってきているような気もする。慣れというのもあるだろうし、またワクチンがすでに開発されてしまった事情もあるのだろうけれども。

  春から夏にかけてのころだっただろうか。100年前のスペイン風邪に関する書籍が、平凡社東洋文庫〉の公式サイトにて無料で公開されていた。『流行性感冒スペイン風邪」大流行の記録』といった。読まれた向きも多かったとおもう。資料が充実していて、大正時代の官僚の手によって、ありとあらゆる情報が網羅されていたことに嘆じつつ、読みふけってしまったのも、なんだか遠い昔のことにようにも思える。ひとつだけ、往時の臣民の流行り病への態度の移り変わりのようなものは、記述が薄かったようにおもうのだけれど、どうだっただろうか。なお、内務省衛生局の報告自体はデジタル化されていて、国会図書館の「デジタルコレクション」から閲覧することもできる(流行性感冒)。

 ベートホーフンの「交響曲第9番」が、日本ではじめて本格的に演奏されたのは、このスペイン風邪のさなか、徳島の捕虜収容所であったという説がある。疫禍から解放されたとき、やはり人びとに歓喜は満ちていたのだろうか。それとも感覚はすでに鈍磨していたか。もしくは、疲弊してそれどころではなかったか。実際には、それぞれだったろう。いずれ、2021年もなかばを過ぎれば、あるいはわかることかもしれない。

 

*参照:

book.asahi.com

natgeo.nikkeibp.co.jp

sp.universal-music.co.jp

 

www.bbc.com