ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

モラヴィア辺境伯ヨープスト

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photo by urashima-e

 いつぞやのブルノ市の広報誌の記事によると、モラヴィア辺境伯ヨープストが没してから、2021年は610周年になるようである。命日が1月18日だったというから、すでに幾日も経ってしまったが、とおいむかしの話であるからして、このくらいの差はなんでもないことのようにもおもえてしまう。

 便宜上ヨープストJobstと書くけれど、現在のモラヴィアではむろん、ヨシュトJoštと一般に呼ばれる。幼少のみぎりからブルノで育った偉人で、いっとき帝冠をも射程におさめたほどの出世頭であるから、市民も誇りとするわけである。市の中心部には、チェコ共和国憲法裁判所が置かれているが、その前の通りが「ヨシュト通り」と名づけられているのも不思議はない。この通りを東へゆくとつきあたるのが聖トマス教会で、中世モラヴィア随一の君主がここに眠るからである。

 2015年の秋であったが、この教会のあるモラヴィア広場のいちばん目立つところに、ヨープストをモティーフとした騎馬像がたてられた。地面から槍の穂先までの全高は、じつに8メートル。かなり以前からコンペがおこなわれていたものの、デザインの選定に難航していた。曲折を経て、プラハの《フランツ・カフカ記念像》などで知られる彫刻家、ヤロスラフ・ローナの案が採用された。時代考証から異論が噴出した経緯もあり、それかあらぬか公式の名称は《勇気》の像ということになった。企画の段階から、プラハ・ヴァーツラフ広場にたつ《聖ヴァーツラフの騎馬像》を意識したとおぼしいところもあって、それこそ対抗心の発露であったようにもみえた。どこか、政治的野心から近しい者との抗争に明け暮れたヨープストの生涯にもつうずるところがある。

 では、ヨープストとはいかなる生涯をおくったのか、ということになるが、往年のルクセンブルク家における親族間の権謀術数は複雑にして込んでおり、要約をこころみるには手に余る感がある。それでも、くだんの広報にある記事が簡にして要を得ていたので、主としてこれに依拠して紹介したい。文責はマルケータ・ジャーコヴァー氏となっている。どのようなかたちであれ、気軽に中世史をあつかうことは畏れおおいことではあるにせよ、とまれそのむずかしさのひとつには史料の欠如というのがある。モラヴィアも多分にもれず、14世紀後半については同時代の年代記の裏づけを欠く。それだから、ヨープストの出生にしても、ブルノ市の出納記録から、1354年10月のいつかと推定されるのみという。

 ヨープストは、ルクセンブルク家のヨーハン・ハインリヒ(ヤン・インドジフ)の第二子にして長男としてうまれた。伯父、つまり父の兄がボヘミア王カレル、のちの神聖ローマ皇帝のカール4世で、兄弟のあいだで封土として下賜されてまもないころのブルノに、父の廷臣らとともに移り住み、そこで育った。そのころ王には嫡子がおらず、そのためヨープストの養育には手がかけられた。伯父の跡を襲ってボヘミア王位につくことも考慮されていたわけだ。

 事情が変わったのは1361年で、すでに皇帝となっていたカール4世に、壮健な息子ヴェンツェル、のちのボヘミア王ヴァーツラフ4世が生まれたのである。いっぽうブルノでもヨープストの家族が殖えており、ふたりの姉妹のほか、ヨーハン・ゾービェスラオス(ヤン・ソビェスラフ)とプローコプ(プロコプ)の兄弟がうまれ、のちのち従弟のヴェンツェルや、その弟にあたるズィーギスムント(ズィクムント)らと同様、ヨープストの人生にとって数奇な役割を演ずることとなる。

 ヨーハン・ハインリヒが複数の遺言をのこしたのも、息子たちへの相続を確実なものとし、紛争を回避するためであったにも拘わらず、結果としては諍いをもたらすこととなった。遺産の大部分と「辺境伯にしてモラヴィアの君主」なる称号とともに統治権はヨープストに与えられることとされていた。だが、弟に一部の財産が与えられるとともに「辺境伯」の称号も用いることができることになっていたのが、よくなかった。

 はたして1375年の父の死後、ヨープストがモラヴィアの統治を引き継いだが、すぐに弟のヨーハンとの抗争に巻き込まれた。けっきょくはヨーハンは聖職者の道をあゆむことになり、1380年にはリトミシュルの司教におさまっている。

 この70年代から80年代にかけては、さまざまな問題に直面した──モラヴィアの住民はペスト禍におそわれており、オロモウツの聖職者参事会との軋轢にあっては、空位となっていた司教に弟のヨーハンを擁立するもうまくゆかず、もうひとりの弟であるプローコプとのあいだとなると、遺産をめぐって短期の武力衝突にすら発展していた。

 争いがおさまったとき、ヨープストはモラヴィアだけでなく、ボヘミアでも、そしてルクセンブルク家のうちでも地歩を確固たるものとしていた。1378年にカール4世は崩御し、その子、ズィーギスムントがポーランドに遠征したさいには、多額の資金を貸与しもしたが、けっきょくポーランド王位を得ることはできなかった。いっぽうハンガリー王位をめぐっては、ヨープストやプローコプの多大な援助によってズィーギスムントが獲得し、その見返りに、現在のスロヴァキア西部一帯にあたるハンガリーの領土を抵当として譲渡した。

 ただ、80年代の後半には、ヨープストは財政問題に直面し、父親から相続した財産の一部を売却することを余儀なくされる。また、弟のヨーハンをオロモウツ司教の座に据える目論見も、ふたたび挫折した。のちヨーハンはアクイレイアの総大司教となり、1394年にウーディネで暗殺されることになる。

 ヴァーツラフ4世からルクセンブルクアルザスの封土を借財の抵当として譲られたとき、ヨープストの権勢はがぜん伸長をみた。ハンガリーの諸侯らは、領域の一部がよそものの統治者によって抵当がわりにされたことに不満をいだいており、それがひとつの理由らしいのだが、王ズィーギスムントは代わりに、ヨープストとプローコプにたいし、ブランデンブルクの大部分をも抵当として譲った。これらの資産がまた、諍いのもとになったことは想像にかたくない。

 90年代前半に、弟プローコプとのあいだで二度目の紛争が勃発した。また同じころ、統治に不満を抱いていたボヘミアの貴族たちによってヴァーツラフ4世にたいする謀反がおこり、ヨープストはこれにも加勢した。1394年5月の初めに反乱勢力がヴァーツラフを捕らえたとき、ヨープストはボヘミアの事実上の統治権を掌握しさえした。その後、交渉の末にヴァーツラフは解放され、逆にヴァーツラフは翌年ヨープストを捕縛したが、すぐに釈放している。けっきょく1396年にボヘミアに赴いたズィーギスムントによって情勢は収束に向かい、モラヴィアでも講和が成立した。

 その後、90年代後半には影響力をとりもどしていたヨープストにたいし、ヴァーツラフ4世は両ラオズィッツを抵当とし、さらにブランデンブルク辺境伯領の封土も譲渡した。ヨープストはブランデンブルク辺境伯にして選帝侯に就いたことで、皇帝を選定する権利までも手にした。しかしのち、ヴァーツラフ4世が遠征にでた一時期、弟プローコプにボヘミアの執政が委ねられると、プラハを明け渡すよりほかなかった。

 こうしてモラヴィアに兄弟間の紛争がつづいていた1400年、選帝侯らがローマ王・ヴァーツラフ4世を廃し、ヴィッテルスバッハ家のプファルツ伯ループレヒトをあらたに選出するという事態がおこった。ルクセンブルク家内部の抗争をいっこうに収めることができぬ「怠慢王」に、不適格の烙印が押されたのだとしても無理からぬものがあった。ヨープストは従弟であるヴァーツラフ4世側を支持するも、モラヴィアでの戦いに忙殺されていた。そこをついてプラハはズィーギスムントが掌握し、さらにボヘミア全域の統治権も確保すべく、ヴァーツラフを捕らえ、のちプローコプも捕らえた。ヨープストはこのときズィーギスムントに反旗を翻し、ボヘミアの大多数の町や貴族もこれに参集した。結果、ズィーギスムントは1403年ボヘミアを去り、1420年になるまで戻ることはなかった。

 1403年にウィーンの牢獄を脱したヴァーツラフは、ヨープストの忠実なる態度を顕彰して報償を与えた。モラヴィアにおける紛争も終結するいっぽう、1405年、ヨープストはヴァーツラフ4世の名のもと、ブダにおいてズィーギスムントと和平を結んだ。辺境伯プローコプもプレスブルク(現ブラチスラヴァ)の監獄からもどったものの、いちじるしく健康を害しており、現在はブルノの一部となっているクラーロヴォ・ポレにあるカルトゥジオ会の修道院にみじかい余生をおくり、まもなくそこで没した。ヨープストは、戦乱によって荒廃しきったモラヴィアをひとり治めたが、たほうで同様に混乱したブランデンブルクでもかなりの時間をすごした。当時まだ官邸のひとつも整備されていなかったベルリーンに好んで滞在し、種々の特許状を発するなどして、その発展に寄与したという。それが、のちのブランデンブルクプロイセンドイツ連邦共和国の首都となってゆく巨大都市の礎をかたちづくった。

 1410年、ローマ王・プファルツ伯ループレヒトが没したとき、選帝侯のなかにはズィーギスムントを支持した者もあったが、10月になるとヨープストも後継者に選出された。周知のように「ローマ王」とは、時代がくだると「ドイツ王」と表記されることがおおくなるが、つまるところ帝位継承者が帯びるものと解された君主号である。すなわち、モラヴィアから皇帝が輩出するのも目前かとあるいは受け取ることもできた。

 ところがヨープストは、ことの成り行きを見届けることなく、1411年1月18日、ブルノに居ながらあっけなく頓死してしまった。あまりに唐突であったがために、毒殺されたのだという憶測もながれたが、捜査にもかかわらず真相はわからなかった。それでもともかく亡き骸は、くだんの聖トマス教会に埋葬された。往時は聖アウグスチノ修道会に属しており、ヨープストの父、辺境伯ヨーハン・ハインリヒが開闢したものであった。

 ときはさらに下って1998年。同教会のヨープスト廟の考古学調査のおり、遺骸の人類学的研究もおこなわれた。報告によれば、ヨープストは上背180センチの偉丈夫ではあったものの、骨格に変性疾患も認められたという。それでも死因の特定には至らなかった。

 

*1400年頃の神聖ローマ帝国ルクセンブルク家の版図(Wikimedia):

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/HRR_1400.png

 

あいまいな私見の私

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photo by Henning Sørby

 各国でワクチンの接種も始まったというのに、終熄しそうでいてなかなかしないのが、パンデミックパンデミックたる所以というところか。おなじコロナウイルスといっても、SARSは2002年に最初の感染例が報告された翌年に終熄宣言がでたものの、2012年のMARSに至っては、いまだに終熄の目処はついていないそうな。

 たいていの国では、政策の音頭をとっているのが疫学や感染症学の専門家であるからして、社会活動には規制を課す方向に傾きがちである。しかも報道によると日本では、特措法による制限に従わない場合の罰則をもうける方向で議論がすすんでいる。なるほど、私権を制限し放題の体制である国は、封じ込めに「成功」しているとつたわっている。だが、日本でそれをするのは、どうなのだろう。

 先週のことである。新年の日曜日。昼ごろ、メールがはいった──

 先ごろ発足した新政権が、緊急トレーニング令を発出した。13:50より、いつもの場所で。

 そんなかんじの内容だった。

 むろん、冗談めかして書かれた告知である。要は、おっさんが五、六人で集まって、屋外の卓球台に陣取り、なにかをちびりちびり飲りながら汗をながすつもりであるから、かならず来るように……というメールなのだ。じつは初めてではない。秋口くらいから、ほぼ週末の恒例となっていた。それを毎回まいかい、のらりくらりと躱してきた。一度か二度、顔を出したていどだ。

 いや、じつのところ運動はしたい。こちとら昨夏からジムに行っていない。こころなしか、いや確実に、衣類のウエストがきつくなった。それでも、あえて「不要不急の外出」の禁を犯してまで、また職務質問に遭うリスクを冒してまで出かけるのも、しょうじき面倒くさい。どの国でも官憲が巡廻しているが、じっさい卓球をしているときにも警官がやってきて、注意を喚起していったことがあったと聞いた。

 忘年会やクリスマスや大晦日にきた招待やお誘いをうけながら、ていちょうに辞退した向きは多いのではないか。このご時世であるから、なにもわたくしだけ、というわけではあるまい。

 どうも世の常として、ふたつの種類の人間がいる。気にするひとと、気にしないひとの二種である。そのあいだで、コミューニケイション上の齟齬や困難が生じる。たとえば、自分は気にしないけれど、相手が気にしていたらどうするのか。あるいは逆に、自分は細心の注意を払っているのに、相手はまったく意に介さない。──これはもう、何につけてもそうなのだ。

 営業自粛を守れとか、外出を控えよとか、マスクをせよとか、声高にきれいごとをならべるだけならば簡単である。だが、われわれが生きているのは、もっとグレーで、あいまいな世界だ。現実的には、周囲にいるさまざまなひとと、うまく折り合いをつけねばならない。白黒つかない世界で、0か1かと迫られた帰結が、社会全体の分断であったのだとすれば、しごく当然の成り行きであった。それだから、白か黒かはひとまず保留して、その場その場で好手をさぐるしかない。

 こうしたばあい、どういう行動が最適解なのか。相手に合わせるのがよいのだろうけれども、蝙蝠のごとく、まいかい行動を変えつづけることは可能だろうか。そこまで器用にたちまわることも実際にはむずかしい。──けっきょく一律に断ってしまうのがたやすかろう、という結論にいたった。事なかれ主義だといわれたら、その通りである。一事が万事であるからして、いずれの国にせよ、国民全体での危機感の共有なんぞ、はなから無理な難題であった。

 日本語にいわれる「自粛要請」という変な表現にも、すでに慣れっこになってしまった。といっても、同調圧力になれている日本人にとっては、さほど奇妙なことではない。むかし学校では「自主練習に強制参加」させられたものだったし、会社では「自主退職を勧奨」されたりもする社会なのだ。

 ではそれで、上から下まで唯々諾々したがうかといえば、どうも様子がかわってきている。報道によれば、先週末に日本でおこなわれた各種行事も対応がわかれたらしい。成人式もオンラインに切り替えたところもあれば、入れ替え制にして挙行した自治体もあった。高校サッカーの決勝は急遽、無観客試合になったが、大学ラグビーのほうは、1万人以上の観衆がスタジアムをうめた。

 よその国はともかく、日本人の行動様式がかわってきているのだとすれば、私権の制限というのは自然な議論のゆくえなのかもしれない。だが、刑事罰をもともなう法律となるとどうであろう。癩予防法や優生保護法の教訓を無視した、むしろ時代錯誤の立法になりうるのではないか。

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.newsweekjapan.jp

 

エピファニー

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/3K%C3%B6nige%2CRavennaGe%C2%B9%C2%B375%C2%B0.jpg

 客席から手拍子がきこえぬ「ラデツキー行進曲」では、新年が明けた気がしない。

 元日といえばウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、まいとしほろ酔いのあたまでノイヤールコンツェアトを聴くのが習慣である。といっても高価なチケットを入手して出かけるほどの気概もなく、もとより「リモート」で満足していた。それでも、感染症対策のために観客をいれずにおこなわれた今年は、中継映像もやはり異様である。左右の壁に32体ならぶ黄金の女像柱が、眼下の空っぽの客席を睥睨しているのが、なんとも不気味な楽友協会であった。

 そうこうしているうちに日は過ぎて、すでに正月も6日。20世紀の半ばまで、カトリック教会でいう降誕節とは、クリスマスからこの日までを指していた。おおくの地域でクリスマスの飾りをかたづける日である。つまり、この期日までが日本の「松の内」に当たるのか。アドヴェントクランツくらいならまだしも、おおきなツリーを用意した家庭は大儀そうで、都会ではごみ捨て場に樅や唐檜の木が集積される光景もみられる。この日にツリーを燃やさない文化では、2月2日の聖燭祭(キャンドルマス)までそのままというところもあり、春がくるまでクリスマス気分がつづいてしまいそうだ。

 1月6日が「聖なる三王の日」とか「エピファニー」とか呼ばれるのは、イエスが世にあらわれた日という記念の主旨に由来し、東方からベツレヘムを訪れた王、ないし占星術の学者らが「世」を代表している。ひろく公現祭というけれど、辞書によれば主顕日、顕現日、また宗派によっていろいろの呼び方がある。それもむろん教会によって捉え方が異なるためである。

 正教では暦が異なって、二週間ほどの差があるけれど、とまれ神現祭とも主の洗礼祭とも呼ぶそうで、むしろこれからがクリスマス本番という観がある。というのも、東方教会ではがんらい、イエスが洗礼を受けたことを祝う日となっていることによる。起源をたどると、ナイルの神・オシリスを祀った祝祭の名残りだというから、そうとう年季がはいっている。たとえばロシアでは、プーチン大統領みずからが古式に則って、寒中水泳めいた奉神礼を受けているのが報じられたこともあった。

 西方では、つい戦後の1955年になってカトリック教会が「主の洗礼日」を分離独立させて13日としたことから、エピファニーの意味合いが明確になった。1969年にはさらに、以降の直近の日曜日にあらためられている。そうした経緯を経て、現在のエピファニーの日は、イタリアやスペイン、またオーストリアクロアチアなど、それからドイツ連邦共和国でもカトリシズムがつよい諸州にかぎって、法定の休日となっている。わりと重きがおかれている日なのである。

 聖三王の祝祭とは別に、おなじドイツ語圏でも呼び名がじつにいろいろあるのには少々おどろく。俗にホーホノイヤール(Hochneujahr)ともいうらしいが、グロースノイヤール(Großneujahr)の称にいたっては、「大正月」みたいな語感がある。が、日本語では元日から7日までの意味であるから、たしょう混乱するけれど、大差ないか。オーストリア弁で、ヴァイナハツツヴェルファー(Weihnachtszwölfer)とよばれるのは、クリスマス(ヴァイナハト)から12日目(ツヴェルファー)のことかと想像がつく。つくけれども、連想するのはまったく別のことで、ありきたりだが『十二夜』である。

 シェイクスピア_Twelfth Night, or What You Will_を『十二夜』と最初に訳したのは、おそらく逍遥坪内雄蔵先生であろうが、十三夜とか十五夜が秋の月見を思い出させることからすれば、近代の日本語にあらたな混沌をもたらした訳業だったのかもしれない。それからエピファニー・イヴのことも日本語で十二夜と呼べるようにはなりはしたが。とはいえ、かの地ではエリザベス朝のむかしから宴会の日だったわけだ。劇そのものには、どたばたの印象しかないものの、10年以上まえにアン・ハサウェイ男装の麗人ヴァイオラを演じたのが話題になったのは覚えている。

 お祝いについては、前夜といわず、クリスマスからつづくばあいもあるし、これまた土地ごとにさまざまな様相を呈している。

 フランスでは、ガトー・デ・ロワ(le gâteau des rois)などと呼ばれる菓子を焼くのだろう。これもふれておかねばなるまい。直訳すると「王のケーキ」というわけだが、めいめいに切り分けられたひと切れのなかに、陶器の人形がひそんでいれば「当たり」という、「王様ゲーム」のたぐいがつきものである。

 これがひろく知られるのも、ふるく「真珠嬢」とも訳された、モーパッサンの「マドムワゼル・ペルル」という味わいぶかい短篇による。──シャンタル家にお呼ばれした主人公は、予期せず「王様」役を拝命してしまう。となると「女王」を指名せねばならないが、おもうところあってか、シャンタル氏の令嬢をさしおいて、ペルル嬢と呼ばれていた正体不明の中年女性をえらぶ。のち、シャンタル氏とビリヤードにくりだすと、その口から件の女性に関する意外な過去が明かされる──真実の顕現、すなわち「エピファニー」という現象をえがいた古典的な傑作という気がする。

 さて、もっと牧歌的な風習は、旧ドーナウ帝国の領域にのこっている。現在のオーストリアのみならず、もとの領内であったポーランドや、ボヘミアモラヴィアなどの各地には、シュテルンズィンガーなどといって、子どもたちが「王さま」に扮して家々を訪ねてはキャロルを歌う慣らいがある。なにがしかの心づけを献じた家には、扉や鴨居などに「C+M+B」とか「K+M+B」とか、白いチョークで祝福の文字列をのこしてゆく。とはいえ報道によると、ことしは例によって感染拡大予防の見地から、実施が見送られたところがおおいようだ。

 この手書きの標識はむろん、エピファニーに現れた「マギ」の名を暗示している。

 拝火教の指導者をさしたともいう「マギ」とは、とりわけ複数形だけよく知られた謂いである。それも「マタイ伝」第2章のみに出てくるきりなのに。翻訳によって「王」とか「博士」とか「賢人」とか「占星学者」とか、いろいろな素姓で書かれてはいるとはいえ、氏名はおろか、人数すら明かされていない。黄金・乳香・没薬を贈ったという記述から、訪問者が3人であったということになったのは短絡的にもおもえるけれど、そこから具体的な名前までが案出され定着してしまっているのだから、カトリシズムという壮大な二次創作物の受容史にあって、とりたてて興味ぶかいものがある。正典と認められないながら、こういう形で布教に利用された文書も膨大にあったと思しい。

 新共同訳によれば、こうである──

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  ガスパール、メルキオール、バルタザールとか名づけられているものの、そもそもどうしてこのひとたちは、「星」を見たというだけで、イエスの誕生を知ったのか。星にチョークで書いてあったとでもいうのか。ほかでもない啓示(エピファニー)というわけであろうが、天文学のメディアに面白い記事をみつけた。

  記事によると、おそくとも13世紀いらい天文学界では議論があった。可能性として、超新星、彗星、太陽フレア、惑星のなんらかの配列という事象が想定された。あるいは、じつは何も起こっていなかった、つまりまったくの「神話」という場合もあり得る。

 筆者であるエリク・ベッツは、冴えたことを言っている。聖書では「star」と単数形の星になっているけれども、仮にそれが「彗星」であったとして、古代の人びとはふつう、それを差し迫った破滅的な運命のきざし、すなわち凶兆と考えていたはずであり、したがってマギとて、それを救世主が生まれたしるしと解したとは想像しがたい。

 このひとは現代の便利なアプリをもちいて、歴史的な天体の配置を模擬的に再現してみたらしい。すると、紀元前7年に木星土星が、うお座の領域にて「接近」したことがみとめられた。さらに4年後の紀元前3年の夏には、木星と金星が、つい暮れにもあった「グレイト・コンジャンクション」にも似た配列をみせたという。すなわち、同年8月12日、木星と金星が、ほぼ重なった状態で未明の空にあらわれた。その隔たりは、満月の直径の1/5という、わずかなひらきしかなかった。けっきょく両の天体は、翌年の6月にほとんどひとつの星にみえるまで「ダンス」をつづけた。こうした天体の配置には、たとえば17世紀のヨハネス・ケプラーなども気づいていたのだという。

 「グレイト・コンジャンクション」については、現代の天文学者占星術師たちも、最近さかんに指摘していた。2020年12月21日に木星土星が「接近」するため、夜空にひとつの天体のようにみえるようになるという話である。当該記事では、800年ぶりとされているが、解釈のちがいにより媒体によっては400年ぶりとも600年ぶりとも書かれている。

 とまれ、そのばあい天体は単数ではなくなるではないか、という指摘もできる。しかし、マギが何らかを予感したとすれば、これがきっかけであったろう、という推論じたいは成り立ちうるし、わたしたちも困難な時代にあって、この天体現象が自分にとって何を意味するのか、ひとりひとりが自身で決めたらよいのではないか──というふうに、記事は締めくくられている。けだしそれこそが、今日この日がエピファニーでありつづけていることの意義であったのかもしれない。

新訳 十二夜 (角川文庫)

新訳 十二夜 (角川文庫)

聖書 新共同訳 新約聖書

聖書 新共同訳 新約聖書

  

*参照:

astronomy.com

www.ceskenoviny.cz

 

*上掲画像はWikipedia

 

ゆく年のベートホーフン

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photo by Taylor Deas-Melesh

 2020年は、ベートーヴェン生誕250周年であった。この、せっかくの観光客万来の年だというのに、こうむったのは疫病さわぎの冷や水であった。「ベートーヴェンハウス」を擁するボンやウィーンの関係者はさぞや、ほぞを噛んだことであろう。

 どうして「ベートホーフン」など、原語の音にちかい表記がメディアに採用されていないのか、ふしぎでならなかった。音にさとい音楽関係者たちがよく平気でいられるものだと。250周年を機に、いっせいに切り替えたらよかったのに。報道機関がロナルド・リーガンを「レーガン」に訂正したのは、よっぽど早かったらしいが、アンゲラ・メルケルが「メルクル」に直されるのはどうやら、任期切れの2021年9月までなさげである。さいきんは学校の教科書もルーズベルトから「ローズヴェルト」になっているらしいというのに……。

 詮ないこととはいえ、気になるたちである。日本語に正書法がない以上、けっきょくは、おのおのの業界の慣行に合わせるしかない。英語圏をはじめ、世界の演奏家や批評家たちのあいだで会話するには、ベートーヴェンと言ったほうが通りがよいのではあろう。スペイン語圏の発音に至ってはベートーベンと音写されるはずで、かなり日本語にちかいのではないか。とはいえ、オリジナルだけが例外的な発音というのもなんだか、いっぽ日本を出たら世界中でハラキーリ、フジヤーマ、カマカーゼ、サヨナーラだった──みたいな話だ。

 さて、ベートホーフンといえば、とりわけ年の瀬には「第九」すなわち「歓喜の歌」でお馴染みであるが、この楽曲は現在では「欧州の歌」としても知られている。原詩をものしたのが、かのフリードリヒ・フォン・シラーであった。

 ウィーンの中心部、オーペァンリングとエリーザベト通りをはさんで、ゲーテの坐像と向かい合うように佇むのが、シラーの立像である。その名も「シラーパルク」という、こぢんまりとした公園になっている。いっぽうテューリンゲンのヴァイマルには、ゲーテとシラーが並んでたつ像がある。19世紀後半の作というが、じっさい行って見てみたら、どうもポーズが劇的すぎる気がして、旧東独だけにソーシャリスト・リアリズムっぽさを感じてしまった。いずれにせよ、シラーといえばゲーテゲーテといえばシラーといったところがあるほどの友誼であった。

 そういえば両者の表記とも、19世紀からギョッテとか、シルレルとか、いろいろの変遷を経ている。いつだかSNSでも文献学的に考証してまとめていたひとがいた。ゴェーテとシラァあたりが、もとの音っぽい気がして好みではあるのだが。ほかにも歴史的にはさまざまな表記があったいっぽう、共時的にみてドイツ文学をはじめ、現代ではどの界隈でも同じような表記がつかわれているようであるから混乱もすくなく、なにより、もっと原語の発音から遠い表記もあることをおもえば、ゲーテとシラーが無難であろう。……この話はきりがない。

 チェコ共和国では、かならずしもドイツ系ということを意味するわけではないにせよ、いまでもドイツ姓のひとがそうとう多い。秋口に訃報がつたわったイジー・メンツルもそうであった。じつにこのシラーさんとて、「シレル」にちかい音で発音されるものの、いらっしゃるわけだ。ほかでもない、アレナ・シレロヴァー現財務大臣が該当している。女性の苗字が原則的に-ová(-オヴァー)という語尾となるのは文法に由来する習慣であるが、シレロヴァー(Schillerová)さんの男性の家族は「シレル」さんであるはずで、綴りもかのシラー(Schiller)と同一である。

 シレロヴァー財相に関しては、元次官の経験からくる実務能力が買われたらしく、アンドレイ・バビシュ首相の肝煎りで起用されたが、むろん、民意の洗礼を受けていない「貴族政治」という批判もある。それでもやはり特殊な年であったがため、2020年には存外に活躍の機会があった。各種の補助や補償金の給付制度はもちろん、この年末には税制改革までやりおおせた。会計上のいわゆるスーパー・グロス賃金の見直しをともなう大掛かりなもので、話題になった。SNSで自らの手柄をアピールするのも忘れないが、親分とはちがってインスタ派のようすで、ツイッターでも各種の立法などを広報している。ちょっと気どった面持ちでいつも写真に収まっており、じつはけっこう出たがりなのかもしれない。

 政治の事件もSNSで知ることも多くなってひさしい。おもえば日本の総理を筆頭に、年の初めと終わりでは、人が交替してしまっているポストもすくなくない。チェコ共和国でいえば、ヴォイティェフ元保健大臣などは、春にはツイッターでさかんに感染症対策について広報をおこなっていた。このひとも「バビシュ・チルドレン」のひとりだった。あのころは、未知のウイルスへの不安もあってか、どこの国でもひとは熱心に情報収集に努めていた。たとえばドイツ語圏にはクリスティアン・ドロステン、北米にはアンソニー・ファウチというカリスマ的な権威がいて、人びとは注意ぶかく、こうしたひとの発言を追ったものだったし、ある程度までは今でもそうにちがいない。けれども、ほかのたいていの「普通の」国では、こうしたウイルス学や感染症学といった学界のスーパースターがいることは、まれである。次善の方途として、政府の対策にかんする情報くらいはタイミングよく知りたくなるというのが人情だったのであろう。よくわからんけど、政府のいうことにつき合おうと。

 人間の馴化のすばやさを目のあたりにしたのもまた、2020年だった。それまで習慣のない国ぐににおける、マスク装用の普及などは最たる例である。それでもあれ以降にも、疫病とのつきあいかたというか、規制との折り合いのつけ方や態度も、だんだん変わってきているような気もする。慣れというのもあるだろうし、またワクチンがすでに開発されてしまった事情もあるのだろうけれども。

  春から夏にかけてのころだっただろうか。100年前のスペイン風邪に関する書籍が、平凡社東洋文庫〉の公式サイトにて無料で公開されていた。『流行性感冒スペイン風邪」大流行の記録』といった。読まれた向きも多かったとおもう。資料が充実していて、大正時代の官僚の手によって、ありとあらゆる情報が網羅されていたことに嘆じつつ、読みふけってしまったのも、なんだか遠い昔のことにようにも思える。ひとつだけ、往時の臣民の流行り病への態度の移り変わりのようなものは、記述が薄かったようにおもうのだけれど、どうだっただろうか。なお、内務省衛生局の報告自体はデジタル化されていて、国会図書館の「デジタルコレクション」から閲覧することもできる(流行性感冒)。

 ベートホーフンの「交響曲第9番」が、日本ではじめて本格的に演奏されたのは、このスペイン風邪のさなか、徳島の捕虜収容所であったという説がある。疫禍から解放されたとき、やはり人びとに歓喜は満ちていたのだろうか。それとも感覚はすでに鈍磨していたか。もしくは、疲弊してそれどころではなかったか。実際には、それぞれだったろう。いずれ、2021年もなかばを過ぎれば、あるいはわかることかもしれない。

 

*参照:

book.asahi.com

natgeo.nikkeibp.co.jp

sp.universal-music.co.jp

 

www.bbc.com

アルフォンス・ムハの彷徨える《スラヴ叙事詩》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/Slavnost_svatovitova_na_rujane.jpg

 モラフスキー・クルムロフへ、アルフォンス・ムハの《スラヴの叙事詩》を観に行ったのは、もう10年は前のことである。

 ムハの生まれ故郷、イヴァンチツェから約10キロ。モラヴィア南西部を蛇行するロキトナー川がS字をえがく淵に位置することから、おそらくその地名がある。流れがくるっと曲がっているからクルムロフ──といわれるのも、あながち駄洒落というわけでもなく、語源学的にkrumm(曲がった)というドイツ語の形容詞によって裏打ちされている。

 題名の「叙事詩」は、原語でepopej(エポペイ)という。当時、車をだしてくれた連れに「ところで、エポペイって何」と訊かれたものである。おいおい、日本人にチェコ語の語義を訊くのかと呆気にとられたものだ。日本での関心のほうが高い作品ということもあるが、現代語ではepos(エポス)という同義語のほうが普及しているという事情もある。いずれにせよ日常もちいられないから、要は好事家だけが知る語彙に属する。

 それゆえ、人文系の科目に疎いひとには「スラヴ人のエポペイ」という題名が厳密に何を指しているのか、よくわからない。しかし連作を観覧しているうちに、ああなるほど、こういうことかな、とアイデンティティの来歴に想いを馳せる。あるいは、それがまたムハの意図でもあったかと思う。偉大な先人たるコメニウスにあやかって、ひろく民族のための視覚教材を企図したというところか。それだからこそ、教材が置かれるのは、あらたにチェコスロヴァキア民族の聖地となったプラハでなくてはならなかった。たぶん。芸術家としての野心も相応におおきかったとは思うが。

 この大作が、画家本人の遺志によって、プラハ市に属するものとされたことは、したがって不思議ではない。実子のイジー・ムハによる画家の伝記にも、そのことが書いてある。ざっと訳してみれば──《スラヴの叙事詩》は1928年からプラハ市の所有物となったが、父[アルフォンス・ムハ]は贈与契約書のなかで、一般公開されることと、そして威厳をたもって安置されることと条件をつけた。ところが、それが執行されるべき期限を設定するのを忘れた。それでプラハ市庁は法的に拘束されることがなかったため、条件の履行はえんえんと棚上げ、先送りされることとなった。たしかに絵画はプラハの見本市の新産業会館にて厳粛に市民に公開され、そこからブルノの見本市会場に移送されたが、のちに一時的な避難場所として、プラハのナ・ストゥダーンツェにある学校のホールに追いやられ、さらに丸められたまま、戦争がはじまるまで22年ものあいだ、あちこちの倉庫を盥廻しにされた(Jiří Mucha, _Alfons Mucha_, Praha, 1999.)。

 《叙事詩》はなんとか保護領時代を生きのびたものの、戦後まもなく統治者となった共産党中央としては、汎スラヴなどという時代錯誤の胡乱なイデオロギーを喧伝する「教材」が首都に鎮座することを看過できるわけがない。しかも、ベル・エポックに活躍したブルジョワ画家の作品ときている。なるべくひとの目にふれぬモラヴィアの僻村に作品を保管させることにしたのは、合理的であった。しかし作品が無事に遺されたという結果にかんがみれば、これでよかったのかもしれない。

 画家の親族らをまきこんだ相続問題が横たわっていたにもかかわらず、大作は社会主義体制がおわったのちも、しばらくはモラヴィアの村にとどまった。それでも時代とともに価値観がおおきく変化するなかで、海外での人気も後押ししたのか、やがて文化財指定がかかり、それと前後して法廷でプラハ市庁の言い分がとおった。かくして2011年、《叙事詩》が首都にひきとられるときがやってきた。ドナドナの憂き目にあう絵画たち。人口6千人に満たない村が随一にして唯一ともいえる観光資源をむしりとられた。すでになんでも持っている、120万人の暮らすプラハに。

 ところが、この2020年の師走である。疫病騒ぎも収まらぬ年の瀬に、《叙事詩》の所有権にかんする判決の報道があった。原告は、同様の訴訟をたびたび起こしてきた、作者の孫であるジョン・ムハ氏だ。昨年末に起こした訴訟だったのではなかったか。しかし今回、プラハ第一地裁は意表な判決を下した。常設展示するための固有の施設を用意することが条件であったと解釈されるが、それが満たされていないのだから、譲渡は無効である──という論法で、プラハ市の所有権を否定したのだ。ではいったい、9年前のドナドナは何だったのか。言わずもがな、プラハ側には不服で、不当判決であるとしている。

 プラハ市庁はいぜんから、ムハの後援者であったチャールズ・リチャード・クレインから寄贈された、とも主張していた。がんらい《叙事詩》の制作を依頼したのも、所有したのもこの米国人であり、ムハは画家として制作を請け負ったにすぎず、作品を所有していたわけではないから、遺族とて相続する権利など生ずるはずもなかったのだと。とはいえ、法廷戦術にすぎぬ方便に、行政の真意をさぐるのはナンセンスであろう。というのも、市側は並行して、画家との契約の条件も履行しようとしている……すくなくとも、そういう態度をとっているのだから。

 同市は、《叙事詩》展示施設について、いまだ準備中であると表明している。なにしろ全20幅のモニュメンタルな大作で、寸法にすると横に広いものは8,1メートル、高さは高いもので6,2メートルにおよぶというから、都合するのに手まどるというのはわかる。しかし、9年はながい。以前、プルゼニュ市の博物館施設の件でも触れたように、怠慢なのか不作為なのか、チェコ共和国の行政にはよく聞かれる話ではあるにせよ。

 それでも秋口の報道では、プラハ市内に7か所ほど候補地が挙がっており、うち3つの箇所について有望視されている由であった。それが、パンクラーツ広場、サヴァリン宮、ブラーニーク製氷所だったようだ。むろん検討するだけなら誰にでもできるとはいえ、訴訟手続きのてまえ、本気度を示す必要があったためか、この討議にはムハのご遺族にも加わってもらっている旨つたえられていた。

 遺族といっても件のジョン・ムハ氏を想定するのは、われら読者にとって無理があろう。それだから、これはヤルミラ・ムハ・プロツコヴァー氏のことではないかと思われている。アルフォンス・ムハのもうひとりの孫であり、故イジー・ムハの娘にあたる。報道の文言にみる「nevlastní」とは、双方が異母きょうだいであることを意味してはいるが、一説にはジョン・ムハ氏には亡父との血のつながりもないとも言われており、ひょっとすると世論がプラハ市側の支持にかたむきがちになるのも、たんなる排外的愛郷意識だけでなく、このあたりにも背景があるのかもしれない。控訴を準備するプラハ市としては、今回の訴訟がながびくならば、両者の相続についての別件の法廷闘争を蒸し返すことで劣勢の挽回をはかるかもしれない、と虚仮おどしめいた情報をリークしている。

 ビロード革命ののち、作品群についてよく研究され、整理され、また修復され、美術館にそれを閲覧できるのもありがたいことではある。そのおおくは故イジー・ムハに負っているといわれているが、ジョン・ムハ氏とて実母とともにムハ財団を設立して、作品の保全や公開にあたってきた。結局のところ、一般の愛好家たちからみれば、状態よく保管され、妥当なやり方で公開してもらえれば、だれが所有していてもあまりかわらない。ただし、だれもが権利を主張するいっぽうで、作品が死蔵される状態におちいるならば、さまざまな意味で損失となる。これは関係者にも認識されているにちがいない。

 宙ぶらりんの所有権はともかく、《叙事詩》は2011年以降、美術館の保管庫でプラハ市が管理してきた。それが昨年10月、企画展への貸し出しという名目で、古巣のモラフスキー・クルムロフに5年間の年限で貸与されることが承認されたのも、道理である。そして、この時限がプラハ市側にとっては、展示施設を設ける猶予期間となる。とはいえ、係争中の現状であってみればプラハ政界にも異論があるらしく、ANO党などは、一時貸与というが恒久の移管になりかねないと懸念を表明していた。いっぽうのクルムロフ側は、どんな判決が下されようが関係ないと、つい先週の報道でも鼻息が荒かった。

 ふたたび展示会場となるモラフスキー・クルムロフの邸第では、貸与の条件とされた展示空間の改修がすすめられており、年末には《叙事詩》が搬入され、来年2月か3月には開場されるという見通しが示されている。10年前は荒廃してはいたが、この機会に空調までもあらたに整備されたくらいだというから、ちょっと見てみたい気がする。もともと壁のスタッコも分厚く、おそらく温度管理や吸湿にも利があった。かつてナポレオンも訪れたという由緒ある建物だ。5年といわず、そのまま置いといてやってもいいじゃないか、と思ってしまうのである。なにより、画家の望んだ威厳がたもたれている。

 もっとも観光業界にしてみると、モラフスキー・クルムロフでの展示は不利である。功利主義的な建て前じょう、人類の至宝をなるべく多くの人にみてもらうのが理想であるとするならば、観光客にとってアクセスが不便というのは、悪である。ただ、地元側が主張するように、ウィーンの観光客を取り込むことを想定するなら、多少は地の利もありそうだ。直線距離では100キロほどで、車ならばミクロフ経由かズノイモ経由、列車ならばブジェツラフ経由か、あるいはブルノ経由となる。とはいっても、移動に3時間ほどはみておかねばなるまい。直線200キロのプラハからでも2時間半かそれ以上、列車では4時間ちかくはかかることを思えば、やはり辺鄙にはちがいない。

 なお、フランス語ふうの「ミュシャ」という表記のほうが普及しているだろうことは存じ上げている。この点、ロンドン生まれのジョン・ムハ氏は英国暮らしがながく、もとより御母堂がスコットランドのひとということもあって、とうぜん英語でもインタヴューに応じるが、聞き手が「ムーカ」と発音しても、咎めたりはしない。けれど、しぜんに応答するなかで「……アルフォンス・ムハ!」と、ただしい訓みをさりげなく強調することもまた忘れない。 

ミュシャスラヴ作品集

ミュシャスラヴ作品集

  • 作者:千足 伸行
  • 発売日: 2015/03/19
  • メディア: 大型本
 

 

*参照:

bijutsutecho.com

 

 *上掲画像はWikimedia

ケリーメク──チェコ共和国の次期連立政権?

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photo by Robo Michalec

 アドヴェントも第三主日がすぎたというのに、いぜん疫禍の騒ぎはつづき、ヨーロッパではドイツ連邦共和国を中心に規制が強められている。いつも冷静なメルケル連邦宰相が悲憤慷慨しつつ国民に協力を訴える姿が報じられていたが、隣のチェコ共和国も、政府の対応策をめぐってそうとう揉めている。

 チェコ政府は人びとが接触する機会を減じるために、ふたたび対策を強化する予定である一方、国民の10人中6人は規制を気にしていないという調査結果が報じられた。公共放送の調査によると、3/5にあたる人びとが、来たるクリスマスの休暇中に家族や友人との接触を避けようとは思わないと回答したという。

 それにもかかわらず、メディアに掲載された記事では、北ボヘミアの店主が嘆く。「いまどき酒場をつづけるのは自殺行為で、もうその愚を犯すつもりはない」。営業の制限によって損害を受け、すでに廃業してしまった店も多い。「中小企業協会」なる団体によると、同国の外食産業では1/5に相当する企業が倒産すると推計されている。

 ところで、チェコ共和国で「coffee to go」という業態が流行ったのは、もう10年はまえのことになるだろうか。「Go To」ではなく「To Go」のほうである。新奇性を醸すためにわざわざ英語の表現をもってくるのは、どこでもやることだ。スタバの店舗は当時まだ見あたらなかった。すでにウィーンまでは進出していたのではないかとは思うが。

 この週末に話題になっていたのは、共和国のヤン・ブラトニー保健大臣が、この手のテイクアウトのコーヒーに言及した件であった。すでに飲食店の営業は20時までに制限され、公共の場でアルコール飲料を消費することは禁じられている同国であるが、ウイルス感染の状況は期待されたほど改善されなかった。そんななかで、通りでコーヒーを片手におしゃべりをする人びとの姿が、医師でもあるブラトニー保健相の目にとまったらしいのだ。国民は紙コップ入りのコーヒーを悪用している、とまで言ったらしい。というわけで、コーヒーの販売も禁止する意向だとつたえられた。

 さっそくこの話がSNSの俎上にのぼり、束の間の盛り上がりを見せた。プチ炎上である。あわてたのは、共和国首相アンドレイ・バビシュで、コーヒーの販売が禁じられることはないから安心してほしいと発表し、陳謝する事態となった。たしかに、もし実施されていたらば、根拠に乏しいゆきすぎた規制であって、およそ常軌を逸している。もとより、利用者たちにしろ大手メディアにしろ、公式の発表を待たずして閣僚の発言を取り上げ、勝手に憤っているのだから、世話ない話ではある。けれども、それだけ政権への不信感が拡がってもいるのであろう。

 ちなみに、この種の紙製ないし樹脂製のカップ容器を指すのに、チェコ語では、kelímek(ケリーメク)というとくべつの語がもちいられる。トルコ語からポーランド語を経由してはいってきた語だという。語源的には陶器に関係しているともいうが、焼き物やガラス製の食器類にはふつう用いられない。

 ケリーメクで思い出したのは、ミロスラフ・カロウセク元財務大臣である。中道右派の政党・TOP_09の創設者にして、元代表でもある。晩秋の候であったが、この御仁がビールのはいった「ケリーメク」を手にして微笑む画像がでまわって、ちょっとした祭り状態となった。政府によって飲食店での飲み食いが禁じられて間もなく、レストランで飲酒した旨の報道がもちあがり、それが揶揄されたのだった。

 いまや野党の一議員にすぎぬとはいえ、立場上、責められることもまた仕方がない。かといって「自粛警察」よろしく、目くじらを立ててもきりがなかろう。春のロックダウンの時節には、オーストリア共和国のファン・デア・ベレン連邦大統領すら、ウィーン市内のレストランに制限時刻をこえて滞在し、警官の注意を受けたものだった。罰金を請求されたのではなかったか。

 それに、どうやら知己の店を訪ねたものらしいから、酌量の余地もある。飲食店経営にかかわる友人や知人がいたら、だれしも思い当たるふしがあるにちがいない。しかも、ほかならぬTOP党のことである。結党された2009年には、政権与党の疑獄事件で既存の政党が国民に厭気され、たんに目新しさからという以上に注目をあつめた。党代表に、なかんづく都市部で絶大な人気を誇った外務大臣、シュヴァルツェンベルク侯が担ぎだされたことも大きかった。とくに身のまわりで外食産業にかかわる自営業者のなかに支持者が意外にいたことが記憶にのこっている。案の定というべきか、翌年の選挙でおおくの票を得、いきなり連立政権の一翼を担うことになった。とりわけ、実質的な結党者たるカロウセクは、ひょっとすると地道にドブ板的な戦術をとったのではあるまいか。古いタイプの政治家で、バビシュ首相のようなポピュリストとは対極に位置する印象がある。想像だが──共感力を欠く政府が守ってくれぬ以上、飲食店の経営者としては野党に縋るしかない。カロウセクはといえば、窮状にある有権者と膝をつきあわせ、その声に真摯に耳をかたむける政治家を自認すればこそ、「まあまあまあ」と主人に手ずからピヴォを注がれて「ナ・ズドラヴィー」の唱和をむげに拒否するわけにいかなかったのではないか。

 もともと化学徒で、南ボヘミアの郷里で洗礼を受けたという。以前はキリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)にいて、党首までつとめた人物である。市民民主党(ODS)のミレク・トポラーネク内閣では、財相として入閣した。どこの政府でも重責を担う反面、よほどのことでもないかぎり派手に表にでるポストでもないし、それ以降もとりたてて話題になったということも覚えがない。当時のことで思い出されるのは、いわゆる「サルカ事件」くらいだろうか。

 脱線ばなしになる。日本の野村グループの会社が、もとの国営銀行であった投資・郵政銀行(IPB)の株式を取得したものの、その後のチェコ共和国政府の差別的な扱いから甚大な損害をこうむり、国連商取引委員会に仲裁の申し立てが行なわれた。『デジタル大辞泉』によれば、IPB株を取得したのは、野村のオランダ法人で「サルカ」社ということになっているが、のちの野村ホールディングス社の発表では「ノムラ・プリンシパル・インベストメント」社とされている。ともかく、結果としてチェコ当局の投資保護協定違反が認定され、賠償責任が生じた。けっきょくは和解が成立したとつたわったが、すぐ後に担当大臣に就いたのがカロウセクだったと思うのだ。事後処理に奔走する姿が報じられていたものと記憶する。

 ところで、党名にある「TOP」とは、「伝統、責務、繁栄」のそれぞれの頭文字に由来するという。なにか「神学書を読んでいるとでくわすキーワード・トップ3」めいていないだろうか。ついでに、つづく数字は西暦の下二桁であるから、これがイエス・キリストの出生にかかわる暦であることは言うまでもない。つまるところ、公式サイトの紹介を裏づけるように、キリスト教ユダヤ教の価値観がバックボーンにあることを明示しているわけだ。親EUを旨とするのも、文化的にキリスト教共同体としてのヨーロッパを念頭におけば諒解しうるが、欧州懐疑論を弄しがちなポピュリスト政党とは一線を画している。そもそもカロウセクがKDU-ČSLと袂を分かつことになったのも、党内の属人的な抗争に端緒があったにすぎず、両党の立ち位置におおきな相違があるようにはおもえない。それだから、最近ではODSをくわえた中道右派の3党で共同の歩調をとっている。

 同国の公共放送が週末に報じた直近の世論調査によれば、TOP党は、10月の選挙以降、0,5ポイントほど支持を落としており、5ポイントの支持率をもつにすぎない。しかしながら、ODSの11,5とKDU-ČSLの4,5をくわえると、3党の合計は21ポイントに達する。これは、さいきん躍進の目ざましい海賊党の20ポイントを抜き、バビシュ首相率いるANO党の25ポイントが視野にはいったことを意味する。件の3党はつぎの選挙に協働してあたるというから、これを要するに、ともすると中道右派による連立政権が将来的に成立する可能性がでてきた。

 現在のバビシュ政権というのは、首相本人が実業家も兼ねるため、成立当初から利益相反の疑いがあった。これに関しては、新年早々1月中にも、EU当局による最終的な調査報告書が出来するとされている。さらに自身が関与する企業によるEUからの補助金の不当な受給の疑惑がいくつもあり、モラヴィア・ベチュヴァ川の汚染事故にかかわる疑惑などももちあがっている。連立を組む社会民主党(ČSSD)との閣内不一致にいたっては常態化していた観もあるが、足元では感染症対策をめぐっていっそうの紛糾がみられる。シリア難民の問題も、今は昔。おそらく潤沢な資金にくわえ、自社従業員やステークホルダーの動員によって選挙にはいくらでも勝てるのかもしれないが、けっきょく目下の輿論が推す理由は、疫病に抗する「戦時内閣」であるという以外にはよくわからない。

 なおTOP党は、すでに昨2019年以降、マルケータ・アダモヴァー代表が率いている。この30代の若い党首は世代相応に、SNS上でも積極的な発信をしている。前述した数多の疑惑についても、追及に余念がない。だが如何せん、典型的な野党の異議申し立てのかたむきがつよく、したがって政権の批難ばかりが目立つ。それはよしとしても、ローマの大カトーよろしく、さいごにかならず「バビシュは政権を去るべきだ」というような言わずもがなのひとことを添えるのだ。なにか芸がない。面白みがない。たぶん具体的な政策についてあまり煮詰まっていないのだと思うが、ほかに言うことがない。

 名誉代表として党にとどまるシュヴァルツェンベルク侯も高齢で、この12月10日に83歳をむかえた。となるとなおさら、まだまだカロウセクのような人物が必要とされている──とまでいえば、とりわけアンチにとっては余計なお世話であろうが。とまれ、なにしろ相手は巨大コンツェルンで私腹を肥やしながら、自営や中小企業にはコーヒーの販売すら禁じかねない政権なのだ。カロウセク本人はフス戦争に名高いターボルの生まれという。聖杯派ならぬ「ケリーメク派」の攻勢に期待したいところではある。

 

もずのはやにえ

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photo by Ryosuke Yamaguchi

 それにしても、あっと思ったら師走だったのである。立冬もすぎて久しいことからしても、あきらかにもう秋ではない。降雪だってあった。気がつけばアドヴェントも第二主日を迎え、残す蝋燭もあとふたつ。けれども、近年では11月の声を聞くと市が立ってクリスマスのムード一色になる世界からすると、パンデミックの今年は趣がだいぶ異なっている。いまだ秋がつづいているような気がするのだ。

 各国政府とも、感染拡大防止と消費経済との両立に腐心している。日本では第3波と目されるチャートから、ガースー総理肝煎りのGoTo政策にも方向修正がはいった。飲食店の営業に制限がかけられ、忘年会シーズンもあきらめざるを得ない情勢となっている。

 そういえば……と、春さきに棚にしまっておいた食品を手にとれば、消費期限がすでに超過してしまったと見つけるにつけ、折から「食品ロスを減らせ」とも叫ばれてきたこともあるし、悩ましい気分にもなるかもしれない。それでもクリスマスや正月を控えて、またぞろ食料品を買い込む機会も増えてくる時節である。

 まるで「百舌の速贄」である。ふるくから秋の季語でもあったにせよ、どうしてモズが餌を立ち木の枝に刺しておくのか、いまだに諸説ある。通説では、基本的に貯食行動であることがほぼ間違いないとされていた。つまり、冬に備えた保存食といったところか。

 ところが先ごろ、これが繁殖にもかかわっている可能性があるという研究の記事を目にした。要は、この行動に雌雄差がみとめられるという報告である。すると印象が修正されるわけだ。すなわち、摂食するわけでもない昆虫をむやみに殺害し、その死骸をこずえに誇示しつづける百舌というのは、かのワラキアの串刺し公爵すら想起させる不気味さをおびてくる。

 百舌といえば、『もずのこども』という児童書がむかしあったのだ。あったのは覚えているが、仔細はとっくに忘却している。それでも、カッコウの托卵がモティーフであったことは確かである。モズの雛は謀殺され、カッコウの雛にすり替えられているわけだが、健気にもモズはカッコウの雛を懸命に育てる、というあらすじではなかったか。子どもは生まれるところを選べない一方、誰に吹き込まれたのでもなく、当然のように目の前の子を育てる親鳥。

 ……読者たる幼児にとっては、不条理すぎるメッセジを秘めた絵本であったのかもしれない。モズの意外な二面性をみるにつけ、ヒトのみならず、生き物とはおしなべて呪われた存在でもあるようだ。

もずのこども (1976年)
 

 

*参照:

www.osaka-cu.ac.jp

 

奴隷の年と東ボヘミアの城邑

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 すでに師走である。パンデミックをきっかけに、社会の矛盾があばかれた年だった──などと、年の瀬の総括らしきことを書くのは容易いが、その解決の方途について見えているわけではまったくない。

 12月2日は「奴隷制度廃止国際デー」だったそうである。『デジタル大辞泉プラス』によれば、1949年の国連総会で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が採択されたことに根拠をおいている。

 これに抵触しかねない事例を思い浮かべれば、日本には悪名たかい技能実習制度がある。制度の欠陥に起因するような事件がたびたび報じられた年だった。そもそも数十年のあいだ、自国民の過労死の問題も解決できていないというのに、輪をかけて劣悪な条件で就労させるべく海外から人材を移入するというのは、行政府による人道上の罪にも思える。思えるが、これ抜きにしてたちゆかない構造にまで堕してしまったのが、「失われた30年」を経た日本の経済と人口動態であったのだろう。

 とはいえ、今年にかぎってみれば、世界的な疫禍のなか、状況はどこも似たり寄ったりというところのようだ。「奴隷としての外人」という、煽情的な見出しがおどったのは、この夏のチェコ共和国の日刊新聞である。もとより低水準の賃金でこき使われているというのに、遅配が生じて困窮している由であった。余所者にしわ寄せがゆくのは不当ではあるが、いたるところに共通しているようである。

 歴史的な奴隷制度についてはまた、いわゆるBLM運動に連関して脚光を浴びたものだった。新大陸のプランテーションで使役された奴隷は、アフリカ大陸からの「輸入品」だったことから、のちのちまで尾をひく人種問題が生じた。いっぽう同時代の旧大陸、とりわけエルベ川以東での労働は、おもに農奴が担っていた。

 1848年という革命の季節に、ウィーンの帝国議会農奴廃止の法案を出したハンス・クートリヒについては、よく知られている。たいがい目立たない佇まいではあるものの、モラヴィアやシレジアを中心に旧帝国領の各地に功績を讃える碑銘が散在している。現在のチェコ共和国オーストリア共和国ドイツ連邦共和国、それにアメリカ合衆国の領域にあわせて76もの記念碑が現存するという報道も、近年あった。だが、先鞭をつけたのはヨーゼフ2世だった。以前すこし触れたが、およそ18世紀の人らしからぬ慧眼で、数々の利権を打破した啓蒙専制君主である。農奴解放のみならず、修道院を解散させるなどもし、とりわけ教会の利権には打撃をあたえたはずだが、それだけに孤立した君主でもあった。天につばきす、とはいいたくないが、正論を吐くやつは嫌われるものだ。改革者の宿命であろう。

 ところで、こうしたことをちょっと調べようと文献をひもとけば、とうぜん「Leibeigene」という語にでくわすことになる。辞書をひくと「農奴、隷農」という語義のまえに《史》とあり、いまは存在しない制度であることを再確認させられる。よりひろくは「Sklave」(奴隷)の語が用いられるところだろうが、英語の「slave」と同様、ギリシア起源のラテン語にゆきつく。古代ローマで奴隷といえば、まずスラヴ人をさした。

 では当のスラヴ人はどうなのかといえば、たとえばチェコ語ではまず「rab」という語が挙がる。会話ではほとんど使われないと思うが、文語では奴隷を指す唯一の語ということになっている。はんたいに日常もちいられる語となると、私見によれば、圧倒的に「otrok」の出番が多い。前述の記事「奴隷としての外人」にしても然りである。また、農奴や隷農だけならば「nevolník」という謂いもあるものの、これは形態素からして「非自由民」というような構成の語だとすぐわかるから、明解すぎてあまり面白みがない。

 むしろ面白いのは、住民たちが自分たちのことを、この「奴隷」という語で呼ぶ町が存在することである。ともすると、誇らしげにだ。同様の例をひけば、徳川の天下はもう存在しないのに、いまでも東京下町というと神田の水の産湯をつかった「江戸っ子」を自認するひとがある。あるいは、北海道出身のひとを「どさんこ」と称したりする。この場合、北海道産の馬とは別の意味であることは、ふつう日本語話者には文脈によってしぜんに察せられる。要は、その手の集合的な愛称のことである。──チェコ語を学習している向きには、あるいは知られた話であろう。

 フラデツ・クラーロヴェーは、プラハから東に100キロほどのところにある、人口9万人ほどの町である。先史時代からひとが定住していたらしいが、歴史に名をあらわすのはなんといっても、ヴァーツラフ2世の妃であったリクサ・エルジュビェタが寡婦領とした14世紀以降で、「クラーロヴェー」とはこの「王妃」に由来する。フラデツ・クラーロヴェー、その名も「王妃の城邑」というわけである。高校世界史には「ケーニヒグレーツの戦い」が出てくるから、日本ではドイツ語による名称のほうが広く知られているかもしらん。しかし「ケーニヒ」では「男の王」ではないか、と思われた諸兄諸姉はするどい。もとの名は「ケーニギングレーツ」であった。

 さて、このフラデツ市民の愛称たる「奴隷」であるが、厳密には「votrok」や複数形の「votroci」が用いられる。それでもって、標準的な「otrok」との音韻的な差異が生じて、スラングであることが察せられるのである。

 ただ、o-ではじまる語が、語頭にv-をつけて発音されるのは、口語ではよくある。もとは、とりわけボヘミアから西モラヴィアまでの一帯における方言であったという。が、たとえば「窓」を意味する「okno」が「vokno」と発音されるのは、地域にかかわらず、いまでは日常的である。あるいは、よりモーダルなニュアンスがくわわるが、英語の「he」にあたる「on」を「von」と言ったりする。ヴァーツラフ・ハヴェルの戯曲にも「von i von, vona i vona」というくだりが出てきた(そういえば「otrok je otrok」という、俚諺を引いたせりふもあった)。苗字にしても「Ostrý」さんというひとがいたかと思えば、「Vostrý」さんというのもいたものだった。あるいは「Orlík」さんと「Vorlík」さん、「Ocásek」さんに「Vocásek」さん……枚挙に遑がない。

 端的に、フラデツ市を含む東ボヘミアでいう「votrok」とは、標準的なチェコ語で「少年」や「若者」を意味する「chlap」や「chlapík」あるいは「mladík」の同義語だそうだ。そもそも「otrok」なる語は、スラヴ祖語までさかのぼって、未成熟の男子を意味したらしい。「奴隷」の意味はなかった。制度がなかった。「rab」のほうも語源的にはちかいらしく、ドイツ語の「Arbeit」もそこから派生しているというから、さらにさかのぼるのだろう。

 仔細に見てゆけば、「ot-」は、前置詞の「od」に通じ、何かから「隔てられている」状態を示しており、「-rok」とは「rokování」、ひいては「řeč」の意であった。これを要するに「言葉から隔てられた者」すなわち、村落の意思決定のための会合で「発言権がない者」「話し合いに参加する資格がない者」を「otrok」と言ったものらしい。そうすると、いにしえの村社会の「少年」と「奴隷」との共通項がみえてくる。

 用例をみると、もとの北東ボヘミアの言語環境では、がんらい呼びかけに用いられたようだ。フラデツの人びとが「Votroku!」と呼びかけ合うのは、同地出身の文人イグナート・ヘルマンが典拠に挙がっているから、遅くとも19世紀後半から20世紀初めまでにはこの習慣が定着していたのであろう。標準的には「Chlapče!」といっても意味は通じるだろうし、あるいは集合的に「Hoši!」とか「Kluci!」というほうがよく聞かれる表現だろうか。大意としては、ほぼおなじである。英語圏でも「guys」とか「mate」とか「old chap」とか、いろいろあるではないか。やや廃れたステレオタイプによれば「hey man」でもっぱら声をかけてくるは、ほかでもない新大陸のアフリカ系の人びとだ。

 以上は主としてヴァーツラフ・マヘクとボフスラフ・ハヴラーネクによる1950年代の短い記事に拠ったが、細部では両者が対立している点もあるようで、つまり議論の余地もあるわけだ。男性のコミューニティーで流通した表現なのだろうが、一方で女性形の「votrokyně」が聞かれない点について、ジェンダー論的な視点から言語社会学的ないし社会言語学的に、もうすこし捕捉があったら面白かったのにと勝手な感想をもった。

 けっきょくフラデツの住民とて、みずからをさして「奴隷」呼ばわりしているのではなかった。だが、ひるがえって、むしろ現代の埼玉や群馬あたりに、奴隷扱いを受けたことを誇るマイノリティが発生したらば、それは悪夢にちがいない。──現状では誇大妄想じみたものがあるが、種々の報道を耳にするにつれ、今後まったく起こらないとも断言できない気がしてくるのである。

  

*参照:

jp.sputniknews.com

front-row.jp

business.nikkei.com

news.yahoo.co.jp

www.bbc.com

www.reuters.com

www.bbc.com

www.sankei.com

www.idnes.cz

*上掲画像はWikimedia.

 

西ボヘミアの醜聞──サッカー協会の腐敗

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photo by Daniel Kirsch

 亡くなったマラドーナは、ピッチにあがるたびに十字を切っていた姿が印象に残っている。ほんの思いつきの乱暴な仮説だが、カトリック諸国のサッカーは、ドイツやイングランドとはやはり一味ちがうのかもしれない。おしなべて「母ちゃん」が強い国々で、それが聖母マリア信仰から来ていると措定するのは安直に過ぎるだろうか。おおかた母に褒められるためにボールを蹴りはじめ、長じてクラブにスカウトされるなどすれば、街路や村を出てスター選手への道がひらける。一種のラテンアメリカン・ドリームか。プロ選手になってからも、試合のたびにその母ちゃんを筆頭に一族郎党が応援しにやってきては、お祭り騒ぎをくりひろげる。

 旧共産圏には旧ユーゴスラヴィア諸国のような強国もあれど、無神論サッカーはまた筋が違う。中東欧といっても、いまは正教会サッカーといったほうがよい国もあるだろうし、むしろカトリックなのに、というポーランドのような国もあるにはある。いずれにしても、冷戦が終わって、近隣にブンデスリーガセリエAプレミアリーグリーガ・エスパニョーラが降って湧いた国々だ。けっきょくは資金のあるクラブが国境を越えて優秀な選手をひっぱっていってしまうから、どうしてもスポンサーの細い国のリーグは不利である。くわえて、汚職もはびこりがちである。袖の下など顕在化しなくとも、ほうぼうの酒場では目のさといファンが噂している──この試合もどうせスパルタが勝つんだろ、そういうことになってるんだ。どうしてだろうな、え? ほんとにつまんねえよな……。なにがしか賭けていれば、なおさら鋭い視線を試合に向けることになるから、人びとを騙すのは至難である。

 さて、マラドーナからこういう自由連想に至ったのは、さいきんのボヘミア西部からの報道に関係している。

 先月なかば、チェコ共和国サッカー協会(FAČR)の副会長を筆頭に、審判員など総勢20人が逮捕されたという報道があった。プルゼニュ地区のサッカー協会において、大規模な審判員の買収があったとされ、また同副会長には協会の資金を横領した嫌疑もかけられている。折しも、欧州選手権の予選スケジュールが着々と進行するなかでのニュースであった。

 そのロマン・ベルブル副会長というのは、地元プルゼニュのひとで、元警察官。一時期は国家保安部(StB)の防諜部門にも在籍していたと報じられている。その後、サッカー協会の審判員に転じた。欧州サッカーの審判にはどういうわけか警官や元警官が多いから、警察時代の職階がのちのちまで人間関係に影響を及ぼし、それが頭角を現すきっかけになったのではないか。けっきょく直近では、チェコ・サッカー界の「ゴッドファーザー」とも目されていた。

 試合の判定に不当に関与していた疑いについては、然もありなん。以前から囁かれてはいた。それがここにきて公共放送の取材からも、複数の関係者を巻き込んでのやらせ判定の数々が具体的に明らかになっている。国外のオンライン・ブックメーカーやマフィアとの関係はまだ判然とはしないものの、何らかの関係があったことが推定されており、おぼろげながらサッカー界全体への影響力の行使の形が見えてきている。いまおもえば、数年前に事情通による内部告発のていで、協会の「マフィア的運営」が非難されたこともあったのだ。

 さらに横領の容疑が逮捕後に出てきた。とはいえ、当局は過去2か年にわたって個人資産を捜査していたというから、証拠がそうとう固まっているらしいことはわかる。タックス・ヘイヴンとして知られるセーシェル諸島に登記上所在する会社「ルガス・コーポレーション」をつうじて、事業ないし資産を管理していたという情報も報じられている。ひょっとすると、5年ほど前に話題になった「パナマ文書」に関連した筋のリークもあったのかもしれない。

 ああ、やっぱりな、チェコだし、サッカー協会だし、元警官だし──と断じてしまうのは気が早い。裁判官が有罪といっていない以上、推定無罪の原則に反する。にも拘わらず、なかんづくタブロイド紙などが不動産などの個人的な資産をリストアップして報じるなどしているわけであるが、これは私刑にちかい。

 しかしながら、ありふれた疑獄事件と異なるのは、市民にひろく被害意識が共有されている点であろう。といっても、賭け事をたしなむ層のみではあるが。昨2019年にチェコ共和国の国民がギャンブルに費やした額は3892億コルナにのぼり、そのうち「スポーツくじ」を含む「ロテリイェ」と呼ばれるカテゴリーでは約166億コルナ、日本円にしてざっと800億円ほどになるという。単純比較はできないとしても、日本のtotoやBIGといったスポーツくじに関して「令和元年度売上」が「約938億円」であったと発表されていることに鑑みれば、かなりの額ではないだろうか。人口規模では東京都よりも小さな国なのだ。この層が憤っていればこそ、報道の過熱は避けられない。いかさまではないかと訝っていた競技に身銭をむしられたと感じ、そのうえ横領ときいては、腹の虫もおさまるまい。

 疫禍の現状にあって、世界では無観客による試合がおこなわれることが多い。忘れがちではあるがこれは、観客が主催者側を完全に信頼していることが前提にあり、その信頼のみに拠って成立している興行スタイルである。それだから仮に、選手や審判らをはじめ、放送にたずさわる関係者の全員が結託していたらば、どうなるのか。ヴィデオ判定(VAR)すら、おおよそデジタル技術によってどうとでも加工できる世である。極端な話をすれば、映像スペクタクルによって、大がかりな賭け銭の詐取も理論上は可能となろう。ちょうど、映画『スティング』で描かれたような犯行だが、遠隔でやるのだから容易いはずである。そうなったら最後、無神論サッカーの面目躍如だ。マラドーナが奉じた神はそもそも不在であり、くわえて現場に証人もいないときている。担がれたと勘づいた視聴者がいたとしても、ブーイングによる弾劾はこれまで同様、津々浦々のバーやお茶の間でむなしく響くのみである。

 ゴッドファーザー本人と逮捕された審判員らがじかに関与していたと疑われるのが2部や3部のリーグであることも、慰みにはなるまい。実際のところは、わかりゃしない。それだけに、ことはサッカー協会の信用問題に関わっている。むろん協会としては、これを背任として告発できないか検討中で、12月8日に開催される会合で決定される見込みと伝わっている。

 さて余談だが、そんな八百長にまみれたチェコ共和国のサッカーがひときわつまらなかった時代に、何度か観戦に行ったことがある。最初はよく覚えている。当時、留学で同国ブルノ市に滞在していた知己が誘ってくれたのだった。モラヴィア近代史の大家といえども、留学当初の言語の学習に明け暮れていた時期には、スポーツ観戦が無上の息抜きになりえたのではないか。ルールさえ知っていれば、言葉がいらないからだ。じっさい、よく応援に通っていたらしく、スタジアムにも慣れているふうであった。かといって、こちらには先入観があったので気が進まなかったが、けっきょくお供することにした。──結論からいえば、愉しかった。

 ブルノのクラブ・チームは当時、束の間のスポンサーだった建設会社の名を冠し「スタヴォ・アルティケル・ブルノ」と呼ばれていた。現在の「FCズブロヨフカ・ブルノ」である。閑散としたスタンドに、けっして多くはないが熱心なサポーターが前のほうで興奮した表情で声援を送っている。ピッチをみれば、経験豊富なカドレツや、若いパツァンダといった巧みな選手たちが、よく動いていた。

 ミロスラフ・カドレツというのはすでに選手としての峠は越えていたのかもしれないが、チェコスロヴァキア社会主義共和国時代からの代表選手で、1990年代にはブンデスリーガで幾度か優勝したカイザースラオテルンで活躍していた。ミラン・パツァンダのほうも卓越したフォーワードとして定評を得ており、のちプラハのスパルタに移籍して優勝も経験することになる。

 ボビ・ツェントルムというスタジアムもぱっとしないどころか、むしろ荒廃の極みであった。けれどもそれがまた、小学生の時分に「読売クラブ」の試合を観に行った、地方のグラウンドを髣髴とさせるような寂れ具合で、ぎゃくに好ましく思えた。やがて「読売ク」が「ヴェルディ川崎」になり、「東京ヴ」へと変遷していったように、Jリーグ発足から日本のサッカーが商業化に成功して爾後、環境が変化しつづけていったことを認識させられる。が、あの時はたんにノスタルジーに浸っただけだったのかもしれない。

 いずれせよ、決闘には証人の立ち会いが不可欠である。神がいても、いなくても。そして証人を務めることは、中継映像の画面を眺めることとは決定的に異なる。なにより愉しい。これを機に業界の膿も一掃され、ついでに感染症も撲滅され、できるだけ早くスタジアムに証人たる観衆が戻ることを願ってやまない。 

 

 

マラドーナ急逝

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photo by Jack Hunter

 『キャプテン翼』のノリにはちょっとついていけない、ひねくれた子どもだった。それでも、1986年のメキシコ大会におけるアルゼンチン対イングランドの一戦は、録画してくりかえし観たものだった。実況担当は、NHKの山本浩アナウンサー。いい声だった。練習で履くサッカー・シューズにしても、アシックスではなくプーマのをねだったのは、どうしてもマラドーナと同じでなくてはならなかったからだと思う。

  11月25日、ディエゴ・マラドーナが亡くなった。月初から受けていた硬膜下血腫の手術ののち、自宅療養中だった。心不全と伝えられている。享年60であった。

 各地で追悼が行なわれたが、たまたま見たニュース番組の画面で紹介されたのは、欧州チャンピオンズ・リーグからのひとこまだった。試合開始直前のセンター・サークルの線上に並んで黙祷を捧げたのは、たとえばアトレティコ・デ・マドリとロコモチフ・マスクヴァの選手たちであった。夜のとばりのなか、無観客のスタジアムにマラドーナの遺影が映し出され、短い告別式を済ませたかのようであった。

 訃報に接し、さまざまな競技関係者がインタヴューに応えて、めいめいの秘話を開陳している。現役選手ばかりではなかった。リネカー、奥寺、木村和司、ラモス……なつかしい面々もインタヴューというかたちで、種々の媒体に登場した。

 なかんづくその世代と思しいユーザーのツイートを眺めると、はげしい信仰告白を聞いている心持ちになる。かといって、若いサッカーのファンもマイクを向けられれば、ひととおりの所感を述べられるくらい「レジェンド」については勉強している。神となって久しかった。

 3日間にわたって全国民が喪に服すと発表があったアルゼンチンにとっては、やはりあのイングランド戦がマラドーナを英雄たらしめたにちがいなかった。なにしろ、フォークランド紛争での敗北からまだ4年しか経っていなかったのだ。しかし、一国の英雄という枠をこえて、世界の神となったのはやはり、サッカーという競技の為せる業であろう。あの後、速くて巧みなドリブラーを止めるべく、ゾーン・ディフェンス等の戦術が発達したともいわれる。といっても「五人抜き」や「神の手」を成したからというだけで、マラドーナマラドーナになったわけではない。

 ディエゴ・マラドーナは、たんなる優秀なサッカー選手ではなかった。さまざまな言説でも観衆を魅了した──と書いたのは、『新ツューリヒ新聞』である。つづけて、マラドーナによるもっとも伝説的な金言として引用したのは、以下のものである。「ペナルティエリアまで来てシュートを打たないのは、妹を相手にダンスするようなものだ」

 スイスで大会招致をめぐる汚職疑惑が噴出したとき、マラドーナから「ざまあみろだ」と言われたFIFAであるが、そのサイトまでもが、かつてはマラドーナの「箴言」に関する記事を載せていたくらいである。ほかにも世界中のメディアがそれぞれの言語で、似たような記事を配信している。為人を偲ばせるので、拙訳とは言い条あまりにもつたないが、いくつか引いてみよう。ただし、主にドイツ語メディアからの重訳。

「第一の夢はW杯に出ること。第二の夢はW杯で優勝すること」
──マラドーナによる最初のカメラのまえでの発言。当時12歳。

「まさに俺はカベシータ・ネグラ[アルゼンチンにおける下層労働者階級ないし貧民層の蔑称]さ。そしてそれを誇りにしている。自分の出自を否定したことはない」
──自身の出自についての古典的な発言。

「俺が恵まれているのは、神様の思し召しがあったればこそだ。神は俺が上手くプレイするようにお取り計らいになった。すでに生まれたときに能力をお授けになった。だからこそピッチにはいるたびに十字を切るんだ。そうしなけりゃ神を裏切ることになる。」
──信仰について。

「あのゴールについては永遠に悦びを感じるだろう。イングランドから手で獲得したゴールだ。あれに関してイングランドの選手には、衷心から千回だってお許しを乞うよ。でも何回でもやるだろうね」
──1986年W杯準々決勝における最初のゴール、いわゆる「神の手」について。 

「貧困はよくない。つらい。よく知っている。多くを望んだとしても、夢を見るほかない。世界にもっと正義があったらいいのにと思う。多くを持てる者がすこしだけ少なく、持たざる者がすこしだけ多く持てるように」
──貧困のうちに育ったことに関して。

「サッカー選手として、自分自身とファンをしあわせにしようとしてきた。サッカーは世界でもっともうつくしく健全な競技だ。たしかに俺は過ちも犯し、それを償いもした。しかしサッカーはそれによって毀損されはしないし、何ぴとも瀆すことはできないんだ……」

──2001年11月、自身の引退試合に際して、ファンへのメッセージ。 

「狂気というのは怖ろしいものだ。クリニックでは 『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンになったかのように感じた……。自分がロビンソン・クルーソーだと思い込んでいた男はいたが、俺がマラドーナであることは誰ひとり信じなかった」
──精神科医院について。

「ペレがベートーヴェンだとすれば、俺はサッカーにおけるロン・ウッドであり、キース・リチャーズであり、ボノである。というのも、俺はサッカーの情熱という側面を体現しているからだ」
──ペレと自身について。

「ペレなんか博物館に飾っておけ」
──代表監督への就任について、財政難だったからだろうと言われて。

  もうひとりの「神様」たるペレとのやりとりも、あちこちに記述がある。神どうしの対話にしては、人間くさい。複雑な感情は抱いていたにちがいないとはいえ、さほど深刻なものではなかったのではあるまいか。そう思わせる、コミカルな要素がある。最晩年には、よき友人同士に戻っていた。そのペレとて「私は偉大な友人を亡い、世界はレジェンドを亡った」「いつの日か、天のボールで一緒にプレイできることを願っている」とツイートしている。 

マラドーナ

マラドーナ

  • メディア: Prime Video
 
 
 
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*「五人抜き」や「神の手」などの動画:

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*参照:

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

www.soccer-king.jp

www.cartaoamarelo.com

www.afpbb.com

number.bunshun.jp