ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコ共和国軍、トヨタ・ハイラックス導入へ

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Twitterより

 チェコ共和国国防省は先ごろ、GLOMEXミリタリー・サプライズ社(プロスティェヨフ市)を通じて、最大1200輛のトヨタ・ハイラックスを購入することを決定した。2年間のメンテナンスやパーツを含め、1輛あたりのコストは税込み89万3千チェコ・コルナで、合計約10億コルナ(およそ46億円)の契約となる見通し。年末までに締結され、来年から2024年にかけて受領する予定だという。

  旧ソ連製UAZや英ランドローヴァー・ディフェンダーを更新する計画は、2017年に発表があった。UAZ_469は、1970年代から使用されているロートルで、はじめソ連で、のちチェコスロヴァキア国内で生産された。1990年代以降、海外派兵の際も用いられてきたが、近年ではパーツの入手やメンテナンスのコストが課題となっていた。昨年には、この選考は決まっていたものの、年末に取り消され、先日、選定基準をあらためて実施されたのだという。その結果、10件の応募があったうちからハイラックスが選ばれた。

 近代的な自動車は軍の基盤であり、わが国の兵士たちが「四十年もの」の機材を今日まで使用していることは恥ずべきことである。我われは十のオファーから選考したが、保証された品質が確認できた車輛で有利な価格が提示されたものが勝利した──と国防大臣のルボミール・メトナルはコメントした。装甲は施されないものの、小銃受けを設けたり、軍で用いられる色に塗装する必要はあるとしている。色彩について地元の公共放送は「カーキ」と呼んでいるものの、想定画像の印象を日本語で表すとすれば、むしろ従来の装備同様のオリーヴ・ドラブにちかい色である。

 恥ずべきかどうかわからないが、たしかに地元の公共放送の取材に際して、UAZのエンジンがなかなか始動しない様子が収録されたようだ。自動車関係のサイトを参照するところ、おおかたファンベルトの劣化に起因するらしい、きゅるきゅるきゅる……という音をむなしく発するのみであった。老朽のため更新が急務であるという、国防省の主張が映像でも裏づけられたかたちである。

 自衛隊には〈高機動車〉というのがあるけれども、トヨタ車は民間仕様の車輛であっても、すでに世界中の紛争地帯で信頼性が証明されている。ことし夏ごろ、三菱自動車パジェロの国内工場を閉鎖するという報道があったが、そうなると三菱製〈73式小型トラック〉ないし〈1/2tトラック〉の後継として、ハイラックスという選択肢も今後ありうるのかもしれない。もっとも、次代はEVの世になっているのであろうか。

 やはりこのご時世にあって、ハイラックス選定の理由として燃費も評価されたことも明かされた。ちなみに搭載エンジンは2,4リッターのディーゼルであると伝わっている。

 なお、件のGLOMEX社というのはまた、日産車をおなじく改造してポーランド軍に納入する契約もことし勝ち得ており、日本政府が頭を悩ます防衛装備品の輸出も、地味な民生品の転用というところではあんがい好調なのだとわかる。問題は、このG社が日本企業ではないという点か。

 

*参照:

www.glomex-ms.com

www.idnes.cz

www.idnes.cz

死者の日と晩秋の祝日

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photo by Adam Nieścioruk

 早いもので霜月、11月である。ローマ起源のNovemberは、かつての暦で「九番目の月」を意味するが、チェコ語ポーランド語のlistopadとは、形態素をもとに訳せば「落葉月」とでもなろうか。月がかわったとたん、紅葉した木々の葉がきゅうに街路に落ちはじめる。

 11月1日は万聖節で、すべての聖人をことほぐカトリック教会の祝日であった。翌2日が万霊節、あるいは「死者の日」である。今度はすべての俗人のための日というわけである。ダンテの『神曲』のとおり、カトリシズムの教えでは煉獄という場があり、ひとが死ぬとここで霊魂の浄化を受けることになっている。やがては天国にいたるが、しばしそこに滞留する者のために祈りを捧げる慣いであった。現在では宗派にかかわりなく、各地で墓参の日となっている。

 周知のように「諸聖人の日の前夜」が訛ってハロウィーンになったというけれども、いつの頃からか渋谷に仮装したひとが集まる日として知られてもいる。そもそもドルイド教の暦で大晦日にあたる祝祭の篝火が焚かれたのがこの10月31日といわれ、がんらいが異教の祭りであった。──そういえば先日、ジェイムズ・フレイザーの名著が電子版でバーゲンになっていた気がしたのだけれど、たぶんセール期間はとうに終わってしまっている……。それでもこういう話が好きな向きには、ぜひ読んでいただきたい。土着の祝祭を、キリスト教が悉皆とり込んでいったのである。

 1日はさらに自衛隊記念日でもあって、2020年には警察予備隊の創隊から起算して70周年となったのを記念した動画が公開された。こうして旧軍との断絶を強調しつづけるのが組織の宿命である。つぎの祭りは3日、もとの明治節で、のち文化の日であり、例年は入間航空祭の日でもあるが、ことしは感染拡大防止のためとて中止となった。そして、4年にいちどのアメリカ合衆国大統領選挙をむかえる。

 さかのぼって10月28日は、チェコ共和国では「独立チェコスロヴァキア国家成立の日」の祝日であった。片割れのスロヴァキア共和国では、お休みをともなった国の祝日ではないところからして、チェコスロヴァキアという歴史的国家にたいする両国民の評価の差がみてとれる。だが、スロヴァキアにも国民の休日とすべしという論があり、ズザナ・チャプトヴァー大統領も賛意を表明している。将来的には変わるかもしれない。なにしろ「離婚」後も、種々の恩恵を享受している。

 チェコスロヴァキアを懐かしむ声は、とくにチェコ側の巷間にあふれる。だがスロヴァキアをさして「兄弟国」だという者の言には、注意を要するかもしれない。対等な弟分という意味でも、国家や国民を兄弟に喩えるのがすでに不快であるし、なにか特定団体の「舎弟」にちかいニュアンスなら、さらにがらが悪い。搾取の対象としての「兄弟国」呼ばわりであるという感覚に無自覚なのであるとすれば、スロヴァキアのナショナリストにとってはありがた迷惑ということになる。それこそがスロヴァキアの市民をして分離独立に向かわしめた遠因でもあったのであろう。

 しかし多民族が共存する国家の理想像として回顧する論客ならば、まだ話はわかる。今年の記事のなかでも、ヤン・ウルバンのものが出色であった。憲章77や市民フォーラムで名のある歴史家である。チェコスロヴァキア潜在的な可能性を粉砕した政治家の野心や失策、またショーヴィニスムの風潮などを批判している。とくにベネシュの政治については、全体主義と断じ、共産期への非民主的な前奏曲である由、けちょんけちょんに扱き下ろしている。ズデーテンでも反ヒトラーの立場をとるドイツ人と手を握ることを拒絶したいっぽう、ロンドンの亡命政府としてモスクワの息のかかった共産主義者と協調することで、戦後の共産化を準備したという評価である。おもしろかった段落を引いてみよう。

 チェコスロヴァキアの成立後、マサリクとベネシュは国内において、神聖不可侵ともいえるほど神格化された。大多数のひとが「世界はふたりに聞き従う」ものと確信していた。両者とも己の信ずる皮肉めいた言辞をしばしば引用し、「政治においては自らの目的を達するに悪魔とも結託しうるが、悪魔に騙されるのではなしに、悪魔を出し抜くことを確実なものとすべきである」と曰った。かつての英国首相クレメント・アトリーは、ベネシュにたいしてはつねに距離を置いていたが、のちにベネシュについて簡にして要を得た文を遺した。すなわち「悪魔と会して羹を食するに、どれだけ柄の長いスプーンが要るものか、どうやら認識していなかったようだ」と。しこうして、すでにパリ講和会議の時分にも、英首相ロイド・ジョージがベネシュを描写しているのである。「……衝動的にして、賢明ではあるが、いっぽう理知的というにはほどとおく、多くを求めればもとめるほど、得るものがすくなくなるということを予見できぬくらいに、そうとう近視眼的な政治家」
──Československo a krize české identity

 ユダヤの寓話に喩えられている箇所があるけれども、地獄での会食というのがあるらしく、どういうわけか肘が曲がらないために、自分の口もとにスプーンをもってゆくことができない。それゆえ向かいに坐した悪魔とたがいにスープないしシチューをたべさせ合うのだが、このとき長いスプーンを用いるというのである。そうなるとベネシュというよりも、チェンバレンの宥和政策を戯画化しているようにも思える。なにしろ、大戦の劈頭、ナルヴィクの軍事作戦をめぐって議会でやり合った間柄でもあった。

 1918年の共和国成立ののちには案の定、全土にお祭り騒ぎが捲き起こったが、そのせいでスペイン風邪の感染が増大した──という公共放送によるレポートもことしは出来した。じつに時宜を得ている。ちなみに、2日前にあたる10月26日は、オーストリア共和国の「国民の日」で、1955年の連合軍の撤退が実質的な独立記念日として祝われている。軍を中心に式典がおこなわれたのは、ウィーンの王宮前のヘルデンプラッツであって、すなわち露天の空間であった。無観客かつ露天の式典は、いろいろと示唆的である。

 というのも、チェコ共和国にて恒例の式典については、パンデミックの年にあって、開催の是非をめぐり長々と議論がつづいていた。ゼマン大統領は例年どおりの挙行に拘泥していたものの、たほう保健省以下の行政府の側は、感染者の再度の増大をうけ、とりやめるのが至当であるという総意にみえた。

 けっきょく、ヴィートコフの丘にある無名戦士の廟において、大統領や政府閣僚らが献花を実施する形におちついた。こちらでも、密閉された会場にひとが集まるのを避け、慰霊施設の屋外空間のみで済ませたわけである。頑迷固陋の大統領も納得した面持ちであったことから、ウィーンでの式典における各自マスクを装用した儀仗隊の様子などを、あるいは参照したのかもしれない、と想像した。

 同国で秋の祝日といえば、さらに11月17日が控えている。これはまた改めて書くとしよう。

 

ヤン・ジシュカのザリガニ

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/%C5%BDi%C5%BEka_Jan-Coat_of_Arms.png

 よく一緒に飲む連中のなかに、ニュー・オーリンズの男がいた。いわゆる「ヤナーチェキアン」の音楽家で、ながくモラヴィアに住んでいるが、仕事がない時期はアメリカに帰っていたりする。あるときピヴォを飲りながら、故郷の食文化のはなしをはじめた。したり顔が鼻についたが、ちょうどその頃、ラフカディオ・ハーンの手になるクレオール料理の解説を読んだところだったから、興味ぶかく拝聴したものだった。フランスやスペイン文化の名残りがつよく、生牡蠣をはじめとした魚介類の自慢などは、日本人としては、美味そうだなあという感想のほかは抱きようがない。じっさいジャンバラヤのようなケイジャン料理なら、日本ではお馴染みでもある。内陸国の住民にとっては、怪談じみて聞こえたようだが……。

 そこで、ザリガニ料理の話がでてきたわけだ。フランス料理でもヨーロッパザリガニというのがあるが、食生活の面で保守的な傾向のチェコ共和国では、人気のある食材とはいえない。それにザリガニ・ペストのような流行り病も近年あるそうで、国内に約800箇所ある棲息地にしても、個体数の減少が懸念されているとのことらしい。

 米語ではクローフィッシュと呼ばれ、crawfishと綴られる。語源をしらべると、古高ドイツ語のcrebizまで遡り、もともとcrabを意味したというから、けっきょく蟹のことだ。そして蟹といわれて思いつくものといえば、タラバガニであったり、サワガニであったりするかもしれないが、まあまあ、日本語話者のあいだでは一応のコンセンサスはとれているはずである。平たい本体の両側面から脚がはえており、左右一対の鋏をつきだしている、あの生き物である。

 ところが、大陸ヨーロッパの内陸部には、十脚目短尾下目に属する甲殻類、すなわち日本人がまずイメージするであろうところの、いわゆる蟹を見たことがないひとも多い。それゆえ、天文学占星術で蟹座とか巨蟹宮とかよばれるサインにしても、思い浮かべる生物は、ひとによってさまざまである。結果、挿し絵としては、カニとザリガニの両者が混在している。ドイツ語圏で蟹座といえば、カニの絵の場合とザリガニの絵の場合であることは、半々くらいの割り合いという印象もあるが、たほう内陸国たるチェコ共和国で蟹座となると、タブロイド紙などにみる「きょうの星占い」欄のイラストには、例外なくザリガニが描かれているのである。ちなみに現代のドイツ語ではKrebs、チェコ語ではrakといって、ふつうカニとザリガニの区別はない。

 とはいえ、ザリガニの姿かたち自体は、そのほかの場面でもなかなかに親しまれている。さしあたり、ザリガニの意匠として、ふたつの例を思いつくところである。

 プラハから西へすすみ、ざっと50キロといったところか。クシヴォクラーツコの自然保護区を過ぎると、ラコヴニークという町がある。人口は1万5千ほど。その名称(Rakovník)からして、ザリガニ(rak)を含んでいるわけだが、市の紋章にも、赤いザリガニがあしらわれているのである。これも推測するに、ベルリーンの市章が熊(ベーアBär)であったり、ミュンヒェンの市章が修道士(メンヒMönch)であったりするような、語呂合わせに由来した紋章(カンティング・アームズ)の一種だとはおもうのだけれど、いちおう謂れというのがあるらしい。

 伝説によると、ひとりの粉挽きの男が、家族とともに小川のほとりに暮らしていた。ところがあるとき飢饉におそわれ、男はあっさり亡くなった。絶望した妻は、子どもたちと心中を図った。致死性の毒を有するとされたザリガニを小川でつかまえてきて、最後の晩餐に供したのだ。しかし、何も起こらなかった。それどころか、子どもたちはザリガニの味が気に入ったらしく、もっとくれと要求する始末だった。この噂は周囲にひろまり、人びとは小川にやってきて、こぞってザリガニを獲った。そうやって飢えから救われた人びとが定住し、のちのラコヴニークの町が形成されたのだ、と。それで、茹でて真っ赤になったザリガニを市章とするようになったそうである。あとづけの創作であるとは思われるものの、飢饉の際はいわずもがな、現在より多くのひとがザリガニを平素から食用にしていたということは、あるいはあったのかもしれない。

 いまひとつ、ザリガニの意匠として思い出すのは、ヤン・ジシュカである。15世紀のボヘミアで、異端の咎でヤン・フスが火刑に処されたのち、ジシュカはフス派の信徒らを率いてカトリック勢力と戦った。いわゆるフス戦争である。プラハのヴィートコフの丘には、軍が運営する無名兵士の廟や博物館や展望所があるけれども、そのまえに巨大なジシュカの騎馬像が立っており、一体の追悼施設を成している。軍神・楠木正成にも通ずるような、チェコスロヴァキアナショナリズムにとって欠くべからざる歴史上の人物であった。

 くだんのヤン・ジシュカの紋章とは、つい20世紀になってから発見された。1378年の封蝋に、不明瞭ながらザリガニの紋が押印されてあったのだという。色彩についても、銀地に赤いザリガニであったと推定されている(上掲の画像)。

 象意に関する紋章学の書を繙けば、ザリガニ紋というものが、伝え聞くヤン・ジシュカの人物像にどれだけ合致した旗印であるか、よくわかる。ザリガニすなわちrakとは、不撓不屈、反抗、生存能力の象徴であるという。その爪に挟んだ対象を、引き裂くまで決して放さないからであると。また、汚れのない水辺に棲息することから、清浄さ、純粋さのシンボルでもある。さらに、鋏を失っても生きつづけることから、生命への永遠の渇望を意味するとも記されている。──ここまでくると、おおよそ出来すぎていて、20世紀に発見された封蝋というのも、ゼレナー・ホラの法螺吹き手稿のごとき、政治家か劇作家による狂言ではないかとの疑いもいだくほどである。いずれにせよ、勝ち虫とも呼ばれた蜻蛉が武将に好まれたという日本の小噺をおもいだせば、むしろそのありふれた発想の、いわば大衆性に感心するところではあった。

 とまれ、さいきん外来種のザリガニが生態系を脅かしていると報道に聞き、筆を滑らせてみた次第である。

ヤン・フスの宗教改革 (平凡社新書0947)

ヤン・フスの宗教改革 (平凡社新書0947)

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

 

 *上掲画像はWikimedia. 

金融歌舞伎

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/68/%E5%9B%BD%E5%A5%B3%E6%AD%8C%E8%88%9E%E5%A6%93%E7%B5%B5%E8%A9%9E%E3%83%BB12%E9%A0%81.png

 倍返し──とひくと、『大辞林(第三版)』には「倍の金額を返すこと。」とあるのみだ。かつては、名古屋文化圏のひとが贈答にたいして返礼を倍にするとか、三倍にして返すとかいう解説をよく聞いたものだった。説明する者もどことなくしたりげで、気前がよい地元の風土を誇っているのだとうけとっていた。だが、ひとつの番組が、日本語の語彙の意味を変えてしまった。そういう感すらある。シェイクスピアが現代の英語をつくったように、多くのひとがふれたコンテンツというのは、それだけの影響があるのだ。

 7年ぶりに続編が制作された『半沢直樹』が最終回の放映をおえた。その間、2016年に日銀がとったマイナス金利政策このかた、銀行業を取り巻く状況が変わってしまったという指摘もある。もはや舞台設定からしてリアルでなくなってしまったのだと。

 かといって、物語やお芝居としての面白さが変わったわけではなかった。今期は、歌舞伎役者がよりおおく起用された。香川照之尾上松也はともかく、市川猿之助などは、あまりに浮世離れした演技が歌舞伎そのものだった。そういう演出だったのだろう。人物の顔面の大うつしや、歌舞伎の所作や見得のようなものもみられ、もはやリアリズムには毫もこだわらない演出姿勢が強調された。──サアサアサア、土下座ぁしろぉい、謝罪しやがれぇ、あ、みんなに謝れぇぇ……キンキンキン(拍子木)。舞台化するにしても、同一の台本で行けそうだ。

 これが中華圏でも人気になっているという報道も、異文化コミューニケイションの観点から興味ぶかい。下克上の復讐劇という趣向は抗日ドラマにも通じそうだが、鍵はむしろ、東アジアの商慣行や労働観であろう。これが欧州であれば、一部のエリートなどをのぞけば、あまりぴんとこないという向きが多いのかもしれない。登場人物たちのテンションがまず理解できないのではないか。たかが仕事なのに、あのひとたちはなんであんなに血眼になって……と。

 しかしこの現代の金融劇を、あえて歌舞伎の教材として利用するのも面白そうだ。バロックの特質が、わかりやすく見えてくることもあるのではないか。

 連関して、ここ数十年のヨーロッパ人の研究が、歌舞伎だけでなく、日本の演劇史の解明に貢献してきたことも日本人は知っておいてもよい。ベニト・オルトラーニやトマス・ライムスの名前は、とりわけ記憶される必要がある。イエズス会の宣教師らによる祝祭劇が、そもそも「踊り」としてはじまった歌舞伎に演劇的な要素を与えた。そのことを欧州の史料をもちいて論証しようとした。

 こうした研究は、文明論的なスケールの大きい演劇観をもたらす。イスラーム文化圏では、禁じられた偶像崇拝への忌諱から演劇文化がいっさい発達しなかったといわれる。では、どこで発達したのかと問えば、まずおもいうかぶのが他でもない、欧州ユーラシアと日本列島である。日本には大陸から散楽がつたわり、やがて猿楽、田楽から能楽に受け継がれた。では、その散楽のきた道を逆向きにたどれば、シルクロードをとおって地中海世界に遡ることになる。つまり、演劇というのは欧州に端を発する、きわめてヨーロッパ的で特異な技芸であったということが想定される。能狂言ギリシア悲劇の比較研究などは、けっきょく同根の子孫をくらべている、という話になりかねない。

 すると、日本人はおおきく三度にわたって、ヨーロッパから演劇文化を吸収した、という図式もなりたちそうだ。散楽、宗教劇、そして開国後の演劇。それぞれが、能楽文楽・歌舞伎、新派・新劇という、こんにちまでつづく別個のジャンルを生んだ。それら旧い流儀も見捨てられることなく現代まで残って、かわらずしたしまれているというのが、日本の演劇シーンの特徴ともいわれる。

 とまれ、とおく国外との行き来にしても、演劇の公演にしても、受難の時代であることはまちがいない。感染症への対応そのものにかんして、日本の社会というのは、西欧諸国にくらべると、はるかに冷静かつ巧みにやっているようにみえる。たほう、芸術関係者の扱いについては、もうすこし別の配慮があってもよいのではなかろうか。絶叫せる金融バロック劇の興奮から醒めて、目にはいった芸能関係の種々の報道をおもいだすにつけ、そんな気がするのである。

 

*上掲画像はWikimedia

 

梯子のはずし方──チェコ共和国保健相の辞任

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photo by Vlad Kiselov

 夏のある日、9月からマスクの着用をふたたび義務化するとTwitter上で発表したのは、チェコ共和国の保健大臣、アダム・ヴォイティェフであった。理由は、秋の新年度をひかえ、学校が再開されると同時に感染者の急激な増加がおこると予測されるため、とのことであった。

 これにはいっせいにリプライがついた。「そのマスクの費用は誰がもつんですか」というような、家計をやりくりする立場からと思しき単純な反発もあったし、夏場の混雑する行楽地の写真とともに「今だってじゅうぶんひとが密集してるのに、あらためて何故か」などという、もっともな疑問も数多くみられた。

 けっきょく9月1日から日常生活のルールは更改されはしたが、公共交通機関ではマスク装用が求められるようになった一方で、教育現場は除外された。つまり、直接の理由とされた学校では義務化が見送られてしまったのであった。むろん、混乱した行政に対する批判は噴出することとなった。

 ここでふと目にとまったのは、有能で知られた日本の外交官の追悼記事であったが、ちょうどよい例となろう。記事は、故人の優秀たる所以を関係者らが証言してゆく体裁をとっていた。そこで証言者のひとりが、あのひとはどこに情報を流せば相手国の交渉責任者の耳にはいるか熟知していた、というふうに意表な点を褒めているのだ。政治家や官僚にとっての「情報のリーク」という行為が、それだけ重要な仕事の領分であると想起させるくだりである。Twitterはいまや、その業務に欠くべからざる道具となっているといってよかろう。

 ヴォイティェフ保健相の話にもどると、春ごろには活発な情報発信によって好評を博したTwitterの使い手であったが、晩夏の例に典型的にみられたように、政策実行のまえに世論の風向きをみるための「のろし」としてもこれを使っていたふしもある。日本の政治ではよく「観測気球」などと言って、大手の新聞に記事を出すような工作があるけれど、要はその類のものであろう。

 だが、33歳という若さのヴォイティェフ自体が、アンドレイ・バビシュ首相の「のろし」がわりに使われ、さらには「被害担当艦」にすらされてきた実状も多分にあった。バビシュみずからが立ち上げたポピュリスト政党「ANO_2011」に所属し、財務相在任時には秘書さえ務めたヴォイティェフであればこそ、擒縦自在の手足であった。

 未知のウイルスへの対応は、感染者の増加率や医療資源の逼迫状況、また経済指標や市民生活の窮状や輿論といったパラメーターが日々めまぐるしく変化するなかで、朝令暮改の様相を呈することもあり得る。けれども朝令はよしとしても、暮改となると、支持率にじかにひびくことは容易に想像がつく。これに関わる、いわば汚れ仕事には、ヴォイティェフが所管官庁の大臣に就いていたことで、バビシュ本人は触れずに済んだ。それどころか、春のロックダウンの時期には首相として国民に結束と協力を生放送でよびかけ、秋になったら手のひらを返し、自身のFacebookアカウントの動画にてウイルス禍の矮小化を図るなど、これまた自在であった。それでも先般などは、保健省がまいにち発表する統計とは異なる内容を自邸のテラスから放言し、自国の公共放送からも叩かれた。秋になって感染者数が増大し、早ばや「第二波襲来」ともさわがれ、周辺諸国からもチェコ共和国からの来訪者を拒絶する措置が発表されつつあるなかでの出来事であった。

 しょせん、究極のところでは大衆の顔色を窺いながら決めていると思しい政策である。理詰めで問われれば、説明のしようなどあろうはずもない。にも拘わらず、バビシュはヴォイティェフを、週末の討論番組という矢面に立たせた。結果、青年保健相は「試験勉強を怠った学生」にも喩えられるほどの酷評を喫した。あくる9月21日、そのヴォイティェフが辞任を発表したのは、むろん唐突なものではあったにせよ、このような経緯からか、おおかたには冷静に受けとめられているようでもあった。

 後任には、ヴォイティェフのもとで副大臣も務めた、ロマン・プリムラが就任した。じつに「第一波」の時分には対策の指揮を執っていた。というのも、この御仁はもともと疫学の専門家であったからで、さらに軍の大佐で、教授で、医学博士という肩書きをもつ強面の政治家であった。したがってこの人選もまた、有事にはなおのこと、至当の成り行きであるとうけとられている。

 数年前の就任時より、日本の新聞などからも「欧州のトランプ(米大統領)」とみなされてきたバビシュだが、口では反論しつつも、じつのところ自覚もあったにちがいない。既成のメディアを「フェイクニュース」呼ばわりし、SNSを駆使してみずから情報を発信する手法は、両者に共通している。そもそも富豪なのであるから賄賂をうけとる必要がないのだ、というアピールもまた、トランプの支持層からもきかれた陳腐なものである。党名も負けず劣らず陳腐である。チェコ語における「yes」を意味する語が「ano」で、略称が「ANO」となるような命題「不満をいだく市民らのキャンペーン(Akce nespokojených občanů)」を党名にもってきたものと思われる。これをアプロニムともいう。このいかにもポピュリスト的な命名とて、めずらしくもない。おそらく同国の政党「TOP_09」などの前例を踏襲したものだろう。いずれにせよ、党名からしても、大衆煽動が自己目的化したポピュリズムの権化を思わせるのである。

 ちなみに大陸をゆるがすベラルーシ問題に関しては、かねてから親露派とされながらも、EUの圧力に屈したものか反独裁政権のポーズをみせるいっぽう、対抗するツィハノウスカヤ候補については積極的に支持しないという、一種独特のふしぎな態度をとっている。昨年には、中国・フアウェイ製の機器について禁令を出したと報じられたが、数日のうちに撤回した。政治と経済はちがうのだと、台湾を訪問したヴィストルチル元老院議長をたしなめはしたが、バビシュ自身が定まった政治信条をもたず、実業家の美徳を維持したまま政権を運営しているかのようにもみえる。いや、ほんとうになんらの裏もない人物なのだろうか。元KGBプーチンと通じているということはないのか……。トランプも政権初期には同様の疑いをもたれ、セルビアあたりではそれがむしろ好感を呼んだらしかった。ひろく東欧圏各国における米露、そして米中の綱引きが連日のように報じられる昨今では、ついこの手の臆測をいだくのも、種々の風聞が広がってしまうのも無理からぬものがある。

 ところが先日、モラヴィア在住の知り合いに話題を振ってみたところ、「バビシュも経営者としての豊富な経験があるわけだしね……」などと、消極的にではあるが、支持を表明する声が複数から聞かれた。いずれの面々もかつてはけちょんけちょんに貶していた側だったような気もするのだが、なんといっても掌返しや梯子外しはお家芸なのだ。じっさい、1年ほどまえには、プラハで退陣を求める大規模なデモが起こったものだった。自身が当該企業を経営しているという事実を隠蔽してEUから不正に補助を受けたという疑獄事件がきっかけとなり、25万人が参加したとも言われている。くわえて、共産期には国家保安部(StB)の協力者であったのではないかという疑惑までもがくすぶりつづけていたほど、バビシュには不利な情勢であった。

 やはり「戦時内閣」というのは、どうやらどこの国でも支持を得やすいものらしい。であればこそ「デジタル化の遅れ」などという些事にもおもえた件が、日本の憲政史上最長を誇った政権の終焉を招く導火線におそらくなったことは、意想外ではあった。また、だからこそ後継総理にもそれだけ重大にうけとめられたものであろう。

 

*参照:

www.jetro.go.jp

www.nikkei.com

www.afpbb.com

世代間の川

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photo by timJ

 慣れとは如何ともしがたいものらしく、菅内閣がうっかり「カン内閣」と誤読されてしまう傾向もとうぶんつづくのかもしれない。自身の来歴をことあるごとに開陳して、これまでの世襲政治家の政権とのちがいを強調するスガ総理だが、すなおに受け取ればいわゆるアメリカン・ドリームを地でゆくような出世譚ではある。それだけに、トランプ米大統領Twitter上で「You have a great life story!」と称えたのも、不思議なことではない。

 この「叩き上げ」という属性とあわせて、世代論からスガ総理を分析した記事が面白かった。いわゆる「団塊の世代」が総理になったのは、自民党にとって初のことで、今後もおそらく出ないという。世代特有の感覚から発する諸政策が、いまの現役世代に違和感を抱かせるリスクも指摘される。頑張ればがんばっただけきっとよくなる、選ばなければ仕事なんかいくらでもある……等々が常套句として思いうかぶところで、高度経済成長期にそだった人びとであるから、それも宜なるかな。低成長やデフレや氷河期や格差といった、当世の空気がよくわかっていないのではないかと、危惧されているというわけだ。

 ところで、史上最長のほまれを得た安倍政権は、じつは「デジタル敗戦」のために退陣を余儀なくされた──という巷間の説も、まったく故なきことでもあるまい。大東亜の敗戦によって、明治いらい無敗をほこった帝国陸軍すら解体されたのだ。「第二の敗戦」とも呼ばれたプラザ合意の結果かどうかは定かではないにせよ、結果的に大蔵省は解体された。ただ、つづく敗戦とは福島原発事故ではないかと思ったこともあったが、当の東電はといえば、賠償のつごうもあってか、存続している。いずれにせよ、後継のスガ総理きも煎りの政策のひとつがデジタル庁の開設であるというのも、悪いところは改めて、つぎの戦には負けまいという、戦後日本人の決意にも通ずるところがある。

 では「敗戦」にまで喩えられた日本のデジタル化の遅れは、どうしておきたのか。私見では、まさに世代論によって、すくなくとも遠因が見えてくるのではないかともおもう。つまるところ、情報格差とは、ディジタル・ディヴァイドなどとも言われたように、社会における一種の分断である。これが普及を阻害した面はあるだろう。というより、インフラの整った日本国内にかぎってみれば、もっとも深刻という点で、ひっきょう世代間の格差に帰する問題なのではなかろうか。としても、人口に占める割合がたかい高齢者、すなわちアナログ世代が大票田であったということに話はとどまらない。

 「インターネット元年」と呼ばれたのは1995年のことで、おおいに普及を促した〈ウィンドウズ95〉の発売が転機となったとされている。この時代に学生・生徒として各種学校に在籍中で、校内の設備や教師によって情報技術の手ほどきを受けることができた世代が、「団塊ジュニア世代」にあたる。ここではごくおおざっぱに言って、1970年代に生まれた層を指す。解散してしまったが、SMAPのメンバーらがだいたい該当している。

 この世代は、よくIT機器やインターネット環境を使いこなすが、そうかといって「デジタル・ネイティヴ」の世代とは異なり、あるていど成長してから、それらのスキルを勉強して習得した体験を有している。それだから、上の世代がこうした技術にいかに疎いかも、なにがネックになっているかも経験的にわかっている。デジタル弱者の世代と下の強者の世代とのあいだに立って、「橋渡し」のごときコミューニケイションができる世代である。ところが、この「団塊ジュニア」といえば、別名に「就職氷河期世代」とも呼ばれ、たとえば企業のなかでも選手層がひじょうに薄いとも言われている。

 流動的な最新の事情にあわせて、メディアにカタカナ語がふえてくると、大衆のうちに「わからない、難しい、言い換えろ」の大合唱が巻き起こることは、われわれはつい先般にも感染症対策の疫学的説明の文脈で経験した。これがよく起こる最たる領域は、じつはIT用語ではなかろうか。じっさい、例のデジタル担当相の会見のようすを挙げ、その言葉尻を捕らえて揶揄するような報道もあった。いっぽうで、技術的な用語を言い換えてしまうと、混乱が生ずることもまた目に見えている。

 デジタル・ネイティヴの諸世代のなかでは、まったく問題なく意思の疎通や価値観の共有ができたとしても、ぎゃくにそれだからこそ、「お年寄り」などと括られがちなデジタル弱者世代とのあいだには、深くて暗い川がながれている。これもまた、デジタルの普及を妨げてきたのであろう「橋のない川」である。

 しかし、予算があれば橋は架かる。ゼネコンは要らない。かわりに、機会にめぐまれなかった氷河期世代の人材を活用することではないか。

 ──思いつきに臆測を交えて、つい書いた。「ご指摘はまったく当たらない」と言われたら、それまでである。

橋のない川(一) (新潮文庫)

橋のない川(一) (新潮文庫)

 

 

*参照:

gendai.ismedia.jp

www.yomiuri.co.jp

 

モラヴィアびと

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photo by Jindra Buzek

 日本人なのか、それともアメリカ人なのかなどと、人間はとかく他者にレッテルを貼りたがる──

 大坂なおみの手記を読んでふと思い出したのは、個人的なモラヴィアとの因縁である。具体的には、四半世紀も前に読んだ同様の主旨のフレーズであった。「はたして我われは、こうした人びとをいったい何者にしたいのであろうか」という問いかけである。

 それはナショナリズムに連関して英語で書かれた論文であり、モラヴィア出身の研究者の手になるもので、同様にモラヴィアに生まれた著名人たちを扱っていた。

 誰それというのは失念したが、たとえば──コメニウス、メンデル、ハンス・モーリシュ、フッサールゲーデルエルンスト・マッハ、ズィークムント・フロイトコルンゴルトヤナーチェク、ハース、アルフォンス・ムハ、ヤン・コティェラ、アードルフ・ロース、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト、フロマートカ、フラバル、クンデラ、ゴルトフラム……モラヴィア生まれといって思いつくだけでも、きりがない。

 ここに挙げた歴史上の偉人らも、たとえば「国籍」という点にかぎったところで、さまざまなレッテルを貼ることができる。オーストリア人、アメリカ人、フランス人、チェコスロヴァキア人……

 この分野の気鋭の近代史家が「国になりきれなかった国」とつとに喝破した、モラヴィアである。ここでは「レッテル」の金型を作成しそこねたわけだ。ただ、他人に貼るのか自分に貼るのかの差異はあれ、ナショナル・アイデンティティの漠たるものがそうしたレッテルの一種として確立されるメカニズムについては、すべてが解明されているとはむろん言いがたい。とはいっても、ある種の社会科学や人文科学、とりわけ政治学社会学歴史学にあっては避けては通れない領域でもある。生物学徒にとっての進化論にも似た「一丁目一番地」といえるのではないか。

 いまも現地ではモラヴァということばが残っているが、いつまであるのかは誰にもわからない。また市井で定義を訊ねても、来歴の俗説が聞かれるばあいもあるが、たいていのひとは絶句するのみである。

 巷間では、しばしば「チェコ共和国の東部」などと説明される。面積は日本の17分の1ほど、北関東の茨城・栃木・群馬に埼玉県を加えたくらいか。ドイツ語ではメーレン。ラテン語にてモラウィア。地理的な基盤といえば、歴史的なモラヴィア州の領域をまず指しているが、その前提を破壊するという往時のチェコスロヴァキア共産党の意図もおそらくあり、行政単位としての州は廃止され、現行の複数の県ざかいの線にしても、もとのボヘミアとの境界とは合致していない。

 おおざっぱに自然国境説のような見かたをすれば、語源でもあるモラヴァ川の流域として思い浮かべることができる。モラヴァ川は、ポーランド共和国との境にそびえる標高1424メートルのクラーリツキー・スニェジュニークに源を発する。川は北から南へとチェコ共和国を縦断し、オーストリア共和国へ至り、ホーエナウ付近でターヤー川と合し、最終的にはドーナウにそそぐ。したがって、モラヴィアとは「チェコ共和国のドーナウ水系の地域」とも定義できそうだ。

 中世のプシェミスル家以来、ボヘミア王国とは属人的につよく結ばれていたことも確かである。すなわち、ボヘミア王モラヴィア辺境伯を兼ねるか、王の兄弟や身内が治めることが多かった。ところが三十年戦争をさかいに、プラハよりもむしろウィーンとの結びつきを強めてゆくことになった。これはむろん、16世紀以降「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」と称するようになった国でのできごとである。ちなみに、さらに歴史をさかのぼって、この地域に9世紀から10世紀に存したモイミールの王朝は大モラヴィア国とも呼ばれ、とりわけ20世紀に考古学的調査が進展した。そのため、これをよりどころとした、中央への反発とも綯交ぜになったモラヴィア主義の盛り上がりにも一役買った。だが、そうした風潮もビロード革命後の一時期をピークに鳴りをひそめている。

 すでに触れた「モラヴィア──国になりきれなかった国」は出色の論考で、このあたりの事情が平易かつコンパクトに説明されている。

 19世紀前半の段階ではまだ、この地に住まうスラヴ系の人びとは、自らについて、モラヴィア語をはなすモラヴィア人であると考えていたものの、それは「モラヴィア民族」として制度化されることはなかった、と史家はまとめる。ウィーンとの関係も深いこの地で文化、政治、経済の面で優位を保ったのは、少数派でありながら公用語たるドイツ語をはなすドイツ系の住民で、知識人となると「圧倒的な優位を占めて」いた。さらに領邦愛国主義の傾向を有したモラヴィア貴族たちも、モラヴィア自治を擁護するいじょう、ボヘミアに敵対的でもあった。ところが、文化的なスラヴ的要素とゲルマン的要素とを、モラヴィア民族というようなネイションへ「止揚する試み」はほとんどなかった。その最大の原因として、ドイツ系の知識人がそもそも興味をもち得なかったいっぽう、スラヴ系の知識人が確固たる拠点を欠いたことによる、と結論されている。

 したがって、そのころはまだ民族的アイデンティティといっても、かなり相対的で曖昧なものであったものと思われる。ボヘミア文人カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーが、1848年にモラヴィアのブルノを旅した際の感想が面白いので引いておこう。

 まず、すこぶる驚いたのが、街頭ではひじょうによくボヘミア語(ないし、かの地で呼ばれるところのモラヴィア語)が話されていることと、就労者階層の人々はほとんどすべてスラヴ系であること、また、それなのに有力者層となると、家々の表札にあきらかにボヘミア=モラヴィア語の名前が記されていながらも、自らをドイツ人であると見做していることであった。


──Karel Havlíček Borovský, Duch národních novin, Havlíčkův Brod, 1948.

 ただ、これに先だつこと約10年、ヨゼフ・フメレンスキーというボヘミアのひとが、同郷人に書き送った書簡には、びみょうに異なった印象が描かれている。その間の社会的な変化が偲ばれる。

ブルノではほとんど誰でもボヘミア語とドイツ語ができるとはいえ、どこでもドイツ語のみが話され、目下この地では、ボヘミア語普及の準備ができているとはいえない。 […] 至るところドイツ語が話され、誰もがウィーンに憧憬を抱いている。ゆえに、どこへいってもドイツ語の雑誌ばかりである。 […]


──1837年6月18日付、ヨゼフ・クラソスラフ・フメレンスキーによるフランチシェク・ラヂスラフ・チェラコフスキーへの書簡 

 さて、「ネイション」とカタカナで綴るのを避けんとすれば、「民族」または「国民」と適宜、訳し分けるしかない。各地のスラヴ系の人びとはそれを「ナーロト」とか「ナロード」とか呼んだ。中部ヨーロッパにおいては、その存在を保証するものは、第一には、その集団に特有の言語にあると信じられていた。そしてそれを可視化する装置の代表格が、レッシングの嚆矢をふまえた「ナツィオナールテアーター」ないし「ナーロドニー・ヂヴァドロ」、すなわち国民劇場であった。

 ボヘミア民族を創り出す運動は「ナーロドニー・オブロゼニー」などと呼ばれ、プラハに拠点を擁した。ヨゼフ・ドブロフスキーは『ドイツ語=ボヘミア語辞典』をものし、フランチシェク・パラツキーは民族の歴史を詳説して両言語で刊行を果たした。さらに、ボヘミア語が近代語として相応しい語彙や品位を備えていることの傍証ともなるように、諸科学の論文や、韻文に散文、その他あらゆる外国文献の翻訳が試みられた。ターム、シェヂヴィー、クリツペラ、シュティェパーネクなど無数の劇作家もこの文脈のなかでボヘミア語による戯曲をものし、また、フランスやドイツの例に倣って、作品の道徳性や上品さをつうじて、劇場にやってくる無知な民衆の蒙を啓き、模範的なナーロト構成員を創り出さんとした。そうして遂には、1881年に竣工をみたプラハの国民劇場によって、ボヘミア人というナーロトの存在することが、おおよそ疑う余地のないような自明のことと知らしむことに成功した。こうした活動に従事した知識人らは、オブロゼネツ、ブヂテルなどと呼ばれている。

 いっぽうモラヴィアでは、同様の動きも皆無ではなかったにせよ、運動と呼べるようなものまでには昇華されなかった。

 モラヴィアでは、すでに1770年代には、ボヘミア文化を情宣する件のオブロゼネツらが活動していた。クラーツェル、オヘーラル、シェンベラ、カンペリークといった活動家らがよく知られているところであるが、時代が下って1830年代までには、州都ブルノが、その活動の中心地となっていた。プラハにおける運動の盛り上がりとは様相を異にしていたものの、帝都ウィーンに間近であるという地理的な条件下では、ボヘミアと比しても政治・経済的に優位にあると思われていたドイツ系住民との対抗のなかで、モラヴィアのスラヴ系住民らは、けっきょくはナーロトとして「ボヘミア人(Češi)」という自己規定を採用していった。

 結果、名だたる政治家らが、自らはモラヴィアという土地に生まれながらも、政治的な決断をもって、最終的にモラヴィア人というのを存在しないことにした。

 たとえば、前出のパラツキーは、モラヴィア領シレジアのホトスラヴィツェ出身だが、フランクフルト・アム・マインで開催された憲法制定ドイツ国民議会への書簡において、自身がスラヴ系の「ボヘミア人」であると言明した(»Ich bin ein Böhme slawischen Stammes.« )。議会への招待状を出した側は、パラツキーがドイツ語を読み書き話すゆえ、ドイツ人であるとレッテルを貼っていたわけだ。この書簡から2年後に生まれたトマーシュ・ガリグ・マサリクにいたっては、スロヴァキア語を母語とする父とドイツ語を母語とする母という家庭に育ったためでもあろう、モラヴィアはホドニーンの出でありながら「チェコスロヴァキア人」なる立場を採用した。第一次世界大戦中には、これを用いて連合諸国において工作を展開する。戦後、はたして成立を見たチェコスロヴァキア共和国において、初代大統領におさまった。このとき出来上がった国家、通称「第一共和国」においては、このチェコスロヴァキア人が唯一の公式ナーロトとされ、モラヴィア人どころか、ボヘミア人もいわば存在しないのが建前となった。いわゆるチェコスロヴァキア主義である。

 こうした経緯にも拘わらず、いまもモラヴィア人のアイデンティティを有する人びとは、国勢調査によればごく少数の申告ながら存在する。中央政府を含む他者が別のレッテルを自身に貼ることを課そうとも、その火は消えないものなのだろう。現状では蓋然性に乏しいとはいえ、バスクカタルーニャスコットランドに見られたように、何かの拍子にその種火が大きく燃え上がらないともかぎらない。すでにスロヴァキアでそれは起こった。──モラヴィア民族の自己規定や独自の自治などを標榜する政党も現存し、一時は国政にも進出したものの、現在では基礎自治体をのぞけば議席を獲得するには至っていない党勢である。これについては、またいずれ書くかもしれない。

 ひるがえって、わが日本国では、明治の世からつづく文化的な画一化がよっぽど成功したと思しい。なんとはなし、SNSにみられた大坂なおみに対する感情的な反応にも、さもあらんという感がわく。たとえば戦時中の「非国民」への社会的制裁から、昨今の「不謹慎厨」や「自粛警察」の跳梁にも相通ずるような、共同体を愛するがゆえの自身の「りっぱな道徳観」を誇示して悦に入りつつ、そうした個人的な価値観によって他人の言動を封殺することが正義であるかのようにふるまう人びとの姿は、ただただ気味がわるい。どこかのオブロゼネツなのかと。

 とはいえ他方で、たんなる示威運動が暴動となり、略奪やヴァンダリズムを伴なったり、はてはテロルと化したり、また政争や外国勢力に利用されたりすることもまた、由々しきことにはちがいない。すくなくとも政治となると、われらはすでに、連歌で思いを交わすがごとき単純で平安な世界には暮らしていない。それゆえ、某SNSのような141文字づつのやりとりでは、安直なレッテルを貼り合うだけの罵倒の応酬に堕しがちである。

 ──だからみんな、長文のブログでも書いて頭冷やしてよといつも思う。写経がわりの精神安定剤にもなるかもしれない。このブログもその程度のものであるから、悪しからず。

 

*参照:

www.esquire.com

 

2001年の長月

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photo by Steve Harvey

 ニューヨーク同時多発テロ事件から19年が経った。来年は20周年。911とか、セプテンバー・イレヴンとも呼ばれたものだ。リメンバー・パールハーバーのノリでもあったのであろう。さいきんターリバーンとの和平が成立し、米軍はようやくアフガニスタンから撤収しつつある。エネルギー革命の成果もあって、米国の世界戦略が変わったことが偲ばれる。

 あの日、個人的には移動の途中だった。

 スイスのツューリヒからプラハ=ルズィニェ空港に到着したのが、ちょうどその2001年9月11日のことであった。しばらくぶりにチェコ共和国に戻ってきたところだ。

 空港からの乗り合いバスにはむやみに空席が目立ったが、さりとて独り占めの貸し切り状態というのでもむろんなかった。

 しばらく走行すると、乗客のひとりが運転手に話しかけた。──ラジオをつけてくれ。テロが起きた。ニューヨークはパニックになっている。

 バスのなかはどよめいた。──どうしたんだ。高層ビルに飛行機が突っ込んだ。だれがやったんだ。過激派か。たぶんそうだ。

 目的地のターミナルに着くと、何も考えず、向かいにあるホテルにはいった。以前にも利用したことがあったのかもしれない。とにかく疲れていた。テロルの噂話はもう忘れていた。

 予約などしていなかった。だから価格を告げられたとき、おもわず「高い」とチェコ語で感想をもらした。するとレセプションの男は、こちらが苦情を言ったと受け取ったらしい。それで「じつはきょう特別な宿泊プランがあったんです。へっへっへ……」というような不可解なことを述べて、およそ半額の価格を提示しなおした。チェコ語を発することがなかったら、倍額を請求されていたところだった。

 まけてくれた、嬉しいな、という場面ではあるいっぽう、いわば「外国人価格」というのも想起された。さすがにいまでは撲滅されたとは思いたいが。貧しい国なんだから、外人からぼったくってやれ、当然の権利だ、というような、逞しい商魂の発露といおうか。マニラあたりのタクシーの運ちゃんと同じ発想だ。ただ、その適用範囲に関しては現場の判断にまかされているようだった。そこは大した格式があるわけでもなかったが、創業したのはオーストリア=ハンガリー時代で、このときはまたオーストリア資本の傘下になっていたから、一応は由緒あるホテルと言ってもよかろう。それでもこうした商慣行がまかり通っていたものか。さだかではないが。

 後進国ではよく聞かれる話だ。公明正大とはいえないものの、違法というわけでもない。革命後、市場経済というものに積極的に適応した結果だとおもう。しかし情報化がすすんで普段の価格や同業他社との比較がここまで容易になってしまえば、やりにくい流儀ではあろう。いまなら「オンライン価格」とか「インターネット予約限定宿泊プラン」などで、お得なオファーが見つかることもある、便利な時世になっている。だが、当時は比較サイトなどもなく、ウェブページでの予約すら普及していなかった。あるときなど「ネットで予約したのですが」とプラハのホテルで言ったら、「ああ、ホームページ見てないや。電話で予約してくれなきゃ」とレセプションで言い返されたこともあった。隔世の感がある。

 さて、ようやく部屋にやってきて荷物を下ろすと、ベッドの端に座ってブラウン管に向き合った。そこでは、ボーイングの中型機がワールド・トレイド・センターの双塔に突っ込む映像が、くりかえしくりかえしくりかえしくりかえしくりかえし……放映されていた。

 眺めている自分自身の姿も含めて、現代美術の作品のようにも思えたものだ。そういえば、ウィーンのレオポルト美術館が開館したのもこの年だった。つづいて航空不況、観光不振が起こったのは、昨今の状況とも相通ずるところがある。その後「テロとの戦い」の名の下に、さまざまな面で世は変わっていった。

 このごろの報道を眺めていると「インド太平洋」なる概念もからんで、どうやら世界のおもむく方向がふたたびかわってきているような気配もある。それは、またぞろ何かが勃発しそうな気配でもある。今年はそれどころじゃない、という向きも多いだろうが……。

 ところで「ミセス・ワタナベ」にモデルがいたことを、このニューヨーク同時多発テロ事件に絡んだ相場の記事ではじめて知った。ミスター・スミスのようなよくある名前をとってつけた、まったく架空の人物だと思っていた。蛇足。

セプテンバー11 DTS版 [DVD]

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  • 発売日: 2006/10/27
  • メディア: DVD

 

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*参照:

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イジー・メンツルによる架空の村

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Ji%C5%99%C3%AD_Menzel_in_Wiesbaden.jpg/1280px-Ji%C5%99%C3%AD_Menzel_in_Wiesbaden.jpg

  アカデミー賞監督、イジー・メンツルが亡くなった。享年82。数年前に、髄膜炎の手術がかなり大がかりだったと伝えられていたから、その後の容態が案じられてはいた。

 1938年プラハ生まれ。1962年にアカデミーの映画学部"FAMU"を卒えると、やがてチェコスロヴァキアヌーヴェル・ヴァーグの一角として、ミロシュ・フォルマンやヴィェラ・ヒチロヴァーらと並称されるようになった。1970年代の一時期にはヤーラ・ツィムルマン劇団に参加するなど、舞台演出も手掛け、また俳優としても活躍した。

 映画監督としての代表作とされるものには、たいていボフミル・フラバルの原作があった。あるいはヴァンチュラのか。フラバルの文芸作品群に心酔して、その文章を映像表現に翻訳しつづけた職人という印象がつよい。それだから原作ゆずりの時代や体制に翻弄される不条理や、さまざまな種類の人間にたいするやさしげなまなざしが通底する。外国語映画部門でオスカー像を獲得した『厳重に監視された列車』(1966)にしろ、共産党に20年以上ものあいだ公開が禁じられた『つながれたヒバリ』(1969)にしろ、そうみえる。考えてみると個人的には最後に劇場で観たメンツル監督作品であった『英国王給仕人に乾杯!』(2006)も、フラバルの映像化だった。

 そういう意味では、最初に観た作品は例外で、原案・脚本ともズデニェク・スヴィェラークであった。その頃はまだ足を踏み入れたことすらない風土に、おおいに興をおぼえた。1985年公開の作品は、原題を_Vesničko má středisková_といい、英題が_My Sweet Little Village_で、ついでに独題は_Heimat, süße Heimat_、そして邦題は『スイート・スイート・ビレッジ』であった。どれも絶妙な訳だけれど、「středisková」という行政にもちなんだ語をすっとばしたことで、過剰にスウィートである感をいだかせる。ラベルの雰囲気から、ビタリング用のホップを欠く甘ったるい製品と思わせておいて、飲んでみてはじめて意外なほろ苦さに気づく麦酒のごとし。しかも見てのとおり、甘みが明記され強調されているのは輸出向けのラベルだけである。それでも「美し国」というときの「うまし」が「甘し」とも綴られることを思えば、なるほどと思うところもある。どうやら故郷とは甘いものらしい。

 個性ゆたかな村の住人たちが描かれるが、トラック運転手のカレル・パーヴェクと知的発達にやや障害のある助手、オチークの日常を軸に話は展開する。ふたりの葛藤と成長といったところか。撮影が行われたのは、まだ雪の舞う4月から、炎天もまばゆい8月にかけてであったそうだが、ちょうどオチークら若い登場人物たちの人生の春から夏を描いている、ともいえそうだ。演じたのはマリアーン・ラブダとバーン・ヤーノシュで、それぞれスロヴァキアとハンガリーのひとであった。バーンの呑気はなんともいえない味があったいっぽう、ラブダの醸す人のよい親分肌も印象的だった。ラブダは残念ながら数年前なくなっており、葬儀に参列したバーンの姿も報じられていた。じつのところ、若者役をのぞくと演者の多くが、すでに鬼籍の人なのである。

 ほかに、脚本のスヴィェラークも風来の画家の役で出てくるし、ルドルフ・フルシーンスキーは父も子も孫も同姓同名の名優だが、ここでは三世代が共演している。──いつもお馴染みのキャストといったら、そのとおりだ。チェコの映画なんか観るもんか、という現地のひとからよく聞かれる批判が「どの作品も同じ風景に同じ話で、まいかい同じ役者ばっかり」というもので、これはあながち外れていない。15年ほどまえ、チェコスロヴァキアの映画を中心にブログを書いていたころは劇場に通いもしたが、様式美に飽きがきたものか、気がついたらあまり観なくなってしまっていた。メンツルの作品に関しては「代わり映えしない、いつものメンツル映画」というニュアンスをしばしば含む「メンツロフカ」という言い草も聞かれたくらいだ。

 とはいえ、この1985年の農村劇にも姿があったヤン・ハルトルとリブシェ・シャフラーンコヴァーとが、2013年公開のメンツルのオペレッタ劇に主たる役で起用されていたのは、やはり好ましく思えた。相応にお歳を重ねていらしたが、懐かしい顔に出逢えるのもまた、代わり映えしない故郷のよさというわけだ。そういえば、メンツルの夫人はまだ40代で、故人より40歳も若い。とすると、公開時はまだ小学生だったということになる。いずれにせよ、さまざまな世代のひとにとって失われた風景が、良いところも悪いところも実相も虚像も、映画のうちに切りとられて残っている。「新しき波」のマニエリスムもいまや、あらゆる層に郷愁をさそう三丁目の夕日となっている。

 この共産体制下の牧歌的な劇映画は、プラハから50キロほど南にあるクシェチョヴィツェが舞台で、かの地で撮影された。人口は現在でも800人ほどらしい。ビロード革命の記憶も薄れつつある近年になってみれば、「同じ」と思われていた田舎の風景すら、すっかりこぎれいになってしまっている。首を手折って鳩を締め、兎の皮を剥ぎ、自宅の階段の7段目に置いてほどよく冷やした麦酒の栓を抜く──映画に活写された素朴な情景もむろん、いつまでもあるわけではなかろう。じっさい、民主化後に田舎の生活は変わってしまったようだ。たとえば、映画が撮影された時分とは異なり、住民のほとんどは近郊ベネショフやプラハに通勤するようになっているという。

 いっぽうで変わっていない構造もある。文化や生活様式が「首都プラハとそれ以外の地域」で二分されているがごとき国の状況は今でも、すくなくとも人びとの頭のなかではたいした変化は生じていないと思われる。オチークが遠出して、賑わうヴァーツラフ広場に到着したとたん、挿入歌"Praha už volá"が高らかに聞こえてきた場面をよく覚えている。これが言ってみれば、プラハこそ真のチェコスロヴァキアであるかのような暗示でもあり、ひるがえって忘れ去られたかのような地方のうらぶれかたが偲ばれる、じつに効果的な演出なのだった。事情は「東京と地方」の二元論にも似ているから、おおかたの日本人がみても身につまされるのではないか。

 かといって、それだけでは単なる「町の鼠と田舎の鼠」のイソップ童話に終わってしまう。前出のヤン・ハルトル演ずるヴァシェク・カシュパルは、どうやらプラハから来た畜産関係の技術者か何かだったが、頭の弱いオチークを言葉巧みに外出させ、空いたオチークの居室をシャフラーンコヴァー扮するひと妻との逢い引きに利用していた。この件について、ここには都会とはちがうモラルがあるんだ、というふうに抽象的にたしなめられる場面があった。メンツル自身、またスヴィェラークもやはりプラハの出であるが、都会の子だったからこそ、農村の生活を美しく誇張することもできたし、またぎゃくに彼我の差をも批判的な眼で観察することもできたのだろう。

 とはいえ、それが文化批評としても有効なものであるかどうかは、別の問題である。たとえば先にも触れたけれども、階段の7段目に置くと麦酒がほどよく冷える、というのが劇中パーヴェクによって語られる。作品に言及されるさい、巷間でも人気のあるエピソードである。だがはたして、撮影につかわれた家屋の住人によると、そういう事実はないそうだ。階段に瓶を置いたところで、中身はぬるいままだと。けっきょくすべては虚構であるのだが、嘘だろうと観じつつも、しかしことによっては……というぎりぎりの線にあたっているようにも思える。つまり、ありふれた僻村をかけがえのない郷里たらしめんがために、こういう有りそうで無さげな種類のファンタジーを弄するのが上手かったのがスヴィェラークであり、メンツルだったのだとも思う。

 ちなみにメンツルというドイツ姓は首都プラハをのぞけば、チェコ共和国北辺のプロイセンに近かった地方にいまだに多く分布しているようだ。もとよりドイツ語であるからメンツルと読むが、メンズルと発音するのは若いひとに多いように思う。また、文法上の問題もよく知られている。たとえば、2格でMenzlaの形をとるかMenzelaをとるか、あるいは5格でMenzleになるかMenzeleになるかは、外国人である場合をのぞき、当該の家族がおのおの決めることになっているそうだ。したがって、本人か家族に問い合わせないかぎり、記者などは文法のうえで正確な記事は書けない仕組みになっていることになる。そこまでは誰もやらないだろうが。ほか、ハヴェル(Havel)などの苗字にも、この規則は適用される。

 

*参照:

jp.reuters.com

www.bbc.com

 

*上掲画像はWikimedia

 

ベルリーナー

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photo by Leon Ephraïm

 かねてからの告知どおり、チェコ共和国のミロシュ・ヴィストルチル元老院議長が台北を訪問した。日本語メディアでもさかんに報じられている。国内でもゼマン大統領は反対、バビシュ首相は沈黙──と決して一枚岩ではない小国にも拘わらず、中国外交筋はこれを看過することなく、恫喝のごとき言辞をまじえて厳しく非難した。

 同議長がかの地で行なった演説がまた奮っている。ジョン・F・ケネディの顰みに倣いましたとばかり、「私もまた台湾市民である」とやったのだ。民主主義のなんたるかを説き、共産中国の脅威に抗して自由を守らんとする独立台湾に連帯の情を示した。自国の民主政治とて混乱と混沌から抜け出したことなどないが、反共政党所属の議長がそれを棚に上げることはこのさい問題ない。大統領には言わせておけばよいし、首相は黙らせておけばよい。連中はパンダ派(panda huggers)である。

 奇遇にも、王毅外相はベルリーンにいた。「越えてはならない一線を越えた。中国はみずからの主権と領土の統一を守りぬかねばならない」と凄んだ。同席したのは、数年前の来日に際し「マースでございマース」という駄洒落も生んだドイツ連邦共和国のハイコ・マース外相で、しれっとチェコ側を支持して中国外交の鼻を明かした。

 じつにそのベルリーンで1963年の6月、ケネディは件の名演説をぶった。ローマ市民であることが誇りであった古代を想起せしめつつ、東西イデオロギー対立の最前線で四囲を壁に塞がれていった西ベルリーンにあって市民に連帯を示した。「イヒ・ビン・アイン・ベァリーナー」である。

 むかしからよく不定冠詞「ein」が話題になっていたけれど、Wikipediaにもリンクが挙がっていた記事がこの点に関して簡潔でわかりやすい。記事中のアナトール・ステファノヴィチ教授によれば、ベルリーン市民という集団は定義され周知されているものであるから、「Ich bin...」の構文でつかわれた場合、菓子の「ベルリーナー」を指すものではないのは自明である。そのうえで、厳密には当該集団に属しているわけではない話者が、共有する部分が自身のうちにもあることを表現せんとするばあいには、不定冠詞「ein」がとくに用いられる、という主旨である。つまるところ「Ich bin Berliner」であれば「私はベルリーン出身です(あるいは在住です)」という単なる自己紹介になる。いっぽうここで「Ich bin ein Berliner」とやれば「私もまた、ひとりのベルリーン市民なのです」というような意味合いがでてくる。この記事が書かれた背景もまた明白である。ドイツ語を解さぬジョン・ケネディがほんらい無用の不定冠詞を用いたことで「私はジャム・ドーナツです」と発言したとされ、何十年にもわたって揶揄されてきたものだった。

 この笑い話を知ったのは、20年以上もまえのバーデン=ヴュルテンベルク州の町であった。そこでは、たしかに「ベルリーナー」と呼称されていた。

 ……紹介が遅れた。ベルリーナー、あるいはベルリーナー・プファンクーヘンとは、ラードなどの油脂で揚げたドーナツのような菓子で、球体をやや平たくつぶしたような形状を有し、典型的には粉砂糖がまぶしてある。フィリングとしては桜桃のジャムがはいっていることが多かったが、苺類のこともあった。いずれにしても、ベルリーンに住んでいるひとはこれをベルリーナーとはあまり呼ばないから、ケネディの言について現地で誤解や哄笑が生じたとも想像しにくい。

 食物の名前にもいわば「外名」があるのだ。たとえば、広島のひとがご当地風のお好み焼きについて「広島焼き」という名称を用いないことは、よく知られている。また、日本農林規格にいう「ウィンナーソーセージ」の起源は「ヴィーナー・ヴュルストヒェン」で「ウィーン流のソーセジ」を意味するが、ウィーンのひとは同じ品を「フランクフルター」と呼ぶ。フランクフルトに住まう人びとはしかし「ヴィーナー」と呼ぶのである。ついでにピルスナーウルクヴェル(プルゼニュスキー・プラズドロイ)という銘柄の麦酒は、チェコ語で注文するときに「プルゼニュくれ」と、生産地の地名を換喩として用いるひとが多い。だが、当のプルゼニュ市内の酒場でそう呼ぶひとは皆無だった。

 ベルリーナーについては、意外に保守的な文化の一部でもある。それこそウィーンほか南のカトリック圏では、おなじ菓子がクラプフェンと呼ばれ、大晦日や謝肉祭、復活祭といった折々にたべる習慣が各地に残っている。フィリングは杏子のジャムが多い気がしたけれど、これをさして「ウィーン流」と分類するひともある。

 チェコ語ではコブリハと呼ばれる。そういえば、とあるブルノ市民の友人が、市内中心部のコブリハ通りに住んでいたことがあった。中世に専門の菓子職人が集住していた地区であったことから、古語でグラプフェンガッツと呼ばれ、時代がくだってクラプフェンガッセとなり、やがてチェコ語に訳されたという。1960年代にはソ連におもねってガガーリン通りと改称されたが、ビロード革命後に元に戻されたのは幸いだった。いずれにせよ、そのくらい歴史と日常にも溶け込んだ身近な菓子である。かつて「ウィーンの町はずれ」と呼ばれた都市だけに、ここでもフィリングはやはりウィーン流で、杏子のジャムが定番だった。──餡パンでもそうであるが、たべたときにこのジャムの部分が偏っていたり、極端に少なかったりするとがっかりするものだ。たっぷり充填されている不文律などないのだが、見えぬ中身に期待したあげく、結果として失望してしまうのは人生の暗喩に思えなくもない。

 ちなみにヴィストルチル議長の演説は、通訳を前提にチェコ語でおこなわれた。肝心の一文だけは「我是台灣人」とみずからパラフレーズしてみせたが、もとの文言は「Jsem Tchajwanec」であった。ただ、タイワネツという菓子の存在は寡聞にして知らない。月餅あたりをそう名付けたら、飛ぶように売れたりはしないだろうか。それとも中国大使館から営業妨害を受けるだけだろうか。

 

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*参照:

jp.reuters.com

www3.nhk.or.jp

www.afpbb.com

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

 

*追記:

 日本語にない冠詞にはいつも注意をひかれる。英語の報道をながめると、媒体によって「I am a Taiwanese」と「I am Taiwaneese」の両方がみられ、興味ぶかい。

nationalpost.com

www.reuters.com