ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコ共和国の「無神論」

photo by Darya Tryfanava

 折に触れ、宗教やカルト信仰といった話題がもりあがる。目下の議論のきっかけとなったのは、安倍氏暗殺の被疑者の生い立ちが注目をあつめたためであることは言うまでもない。

 ところで、チェコ共和国という国にながく居ると、近年になって、教会を訪れるひとが増えているように感ずる。パンデミック下の孤独に苛まれた生活体験も拍車をかけたものかもしれないが、それ以前から気になっていた。

 散歩やジョギングのとちゅうで教会のちかくをとおると、日曜日のミサに多くのひとが押しかけているのを見かけたりする。クリスマス・イヴに、家族と教会へいくという知り合いもいる。信者なのかと問うと、必ずしも全員がそういうわけでもないらしいが。

 最近の英語圏やドイツ語圏でのように、教会スキャンダルが轟々と報道されることがあまりないのは、そもそも信者が少数派であるために、チェコ語媒体ではニュース価値が低いということに尽きるのだろう。要は、読者や視聴者の関心が薄いことの裏返しだ。逆説的だが、急激なイメージダウン、権威失墜とも無縁なのだともおもえる。

 つまるところ、失墜するほどの権威がもとから無かった、という揶揄も成り立つ。なんといっても、世界有数の「無神論」の国として夙に知られているくらいだ。

1)統計上の現状

 同国の統計局のサイトには、2021年の国勢調査の結果が簡単にまとめられている(Náboženská víra)。

宗教については、18.7%の人が教会や宗教団体に所属していると回答している。無信仰 [bez náboženské víry] という回答は3分の2以上(68.3%)を占めた。宗教上の信条に関する質問への記入は任意となっており、30.1%が空欄のままであった(2011年の国勢調査では44.7%)。

Náboženská víra | Sčítání 2021

 では、「増えているよう」と前述した主観は、妥当なのかどうか。

 同じページに、直近の4回の変化が簡単なグラフになっている。むろん、10年ごとの国勢調査にもとづいている(1991年、2001年、2011年、2021年)。

 なんらかの「信者」と回答したのは、人口100万人ごとの人数として──4.52人(1991)、3.29人(2001)、2.17人(2011)、2.33人(2021)──となっている。要するに、減少傾向の大勢のなかで、この10年にかぎっては「微増」がみとめられる。

 なお「無信仰」では──4.11人、6.04人、3.60人、5.03人──で、「無回答」が──1.67人、0.90人、4.66人、3.16人──であった。

 とはいえ、これだけではなんともいえない。おなじページにある同時期の宗派別の数字を見ると、すべての宗旨の教会で信者の数は減少しつづけている。

 もっとも、国政調査の質問のたて方というのはふるくから悩ましい問題ではある。戦間期の民族問題を調べる際にも、国勢調査の記録には言語ごとの設問・数字しかない……というのが典型だ。ここでも結果として現状の把握を阻んでいる、ということはないのだろうか。

 特定の教派に属さないし、神を信じもしないが、神秘的な事柄には関心があり、教会を訪問することはよくある──こうした「現代的な」ペルソナを想定すると、カルトの潜在的な市場の大きさ、すなわち危険の大きさが想像できはしまいか。


2)「無神論」の現在

 いずれにせよ、国際的に比較してみれば、とりわけ周辺国との対比による調査をすると「無神論」(アテイズムス)の割り合いがきょくたんに高く見えるのが、このチェコ共和国だ。

 共産党が「人民の阿片」たる宗教を弾圧したためではないか、という連想にも一分の理がある。けれども、おなじ旧共産圏で比較しても同共和国の数字は突出している。とくに隣接するポーランドやスロヴァキアにいたっては「カトリック国」の印象すらつよく、ことさら差異が際立つ。

 たとえば、ある調査会社による2017年の記事がわかりやすい(Unlike their Central and Eastern European neighbors, most Czechs don’t believe in God)。
図をみると一目瞭然で、"Belief in God"の数字がチェコ共和国では、29というスコアになっている。もとの共産圏・旧東側の国ぐにに限っても、40%を割っているのは同共和国のみである。

 この調査では、同国の10人に7人(72%)が宗教団体に所属しておらず、そのうち46%は自分の宗教を「特になし」とし、さらに25%は自分の宗教的アイデンティティを「無神論者」と回答している。とりわけ宗教的なアイデンティティと関わりなく、66%のチェコ人が「神を信じない」と答えており、「信じる」というひとが29%であったのだとしている。

 では、どうしてこうなったのか。


3)ナショナリズム

 いっぱんに史学徒が「世俗化」といったばあいには、社会が脱宗教化してゆくことを指し、典型的にはナショナリズムの普及がそれにかわってゆくことが想定されてきた。けれども、土地によってその現れ方はさまざまである。

 たとえば、以前ふれたドストエフスキー論を思い出す。世俗化のロシア的なゆき方として「大地主義」が重要な役割を演じており、それは現代のプーチニズムにも受け継がれているというものだった。あまつさえ、レーニン廟を例にとって、共産党による統治にもロシア正教の文化が援用されていた事実を思えば、無神論の普及を弾圧という手法のみに帰することは、疑わしく思えてもくる。

 ここで思想史的な流れについて詳述するのは手に余る。ただ、フォイエルバッハからマルクスへいたる共産主義における無神論とともに、いまひとつ無神論の源流としてよく挙げられるのが世界的なフリー・シンカーの思想運動で、20世紀初頭にはプラハにも拠点が開設された。ここでの代表的な人物のひとり、テオドル・バルトシェクは共産主義者であったが、ヨゼフ・スヴァトプルク・マハルなど、マサリクのリアリスト党に共鳴したのち、けっきょくは民族主義に落ち着いた。団体としては1950年代に共産党によって解体されたが、いずれにせよ共産主義とともに、ナショナリズムの流れを指摘しないわけにいかない。

 信仰とナショナリズムの結びつきは、宗教社会学の領域で研究されてきた。が、チェコ共和国ほど、特異なケースはないのではないか。説明が容易ではない反面、好例ともいえそうだ。ただ、さいきんの史学では、ナショナリズムが宗教に替わったという単純すぎる見方には人気がないことも、言い添えておかねばなるまい(以下、おもに拠ったのは、Paul Froese, "Secular Czechs and Devout Slovaks: Explaining Religious Differences", _Review of Religious Research_, 46 (3), 2005, 269-283)。


4)ハプスブルクからチェコスロヴァキアまで

 神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家はながらく、あたかも世襲の権利であるかのように皇帝を輩出してきた。そのさい帝冠をローマ教皇に加冠されることによって、現在のドイツやイタリアにあたる領土の統治を正当化するのが慣らいであったから、しぜんハプスブルクとは、ローマ・カトリシズムの守護者と同義となった。

 ボヘミア民族主義(チェスキー・ナツィオナリズムス)が、反ハプスブルク運動と結びついていたことは至当であり、しぜんそれは反カトリシズムの立場をとった。そのさい、ロマン主義的なプロパガンダ手法として中世のフス派に言及されることになり、のちにはチェコスロヴァキアの国民統合のモデルとも目された。いきおい、反カトリシズムの傾向はつよまる。

 だから、ボヘミアナショナリストにとって、カトリック教会に帰依することは「不道徳」につうじた。フランチシェク・パラツキーにしてからが、おおよそにおいて民族の歴史をカトリシズムとフス派信仰の衝突であると妄想していた。ところがフス派信仰は民族のシンボルとして祭り上げられたものの、すでにボヘミア王国領内ではほぼ完全に根絶されてしまっていた。

 1848年の革命では、とくにプラハの六月暴動がヴィンディシュ=グレーツ将軍に鎮圧されたことで、いっそう反ハプスブルク熱が昂じた。そもそも、この革命は貧しき者たちすべての叛逆であったはずが、同地においてはそれが民族主義者にハイジャックされてしまった──というのが、マルクスエンゲルスの見解で、自らの新聞においても「スラヴの豚ども」という表現で憤りをあらわにしている。百年もあとになると、スラヴの多くの民族国家がマルクス主義を奉じるようになるのだから皮肉なものである。

 プラハにおける民族主義はおおいに盛り上がり、その文脈で汎スラヴ会議が催された。だが、ここにおいてはじめて、汎スラヴ主義なるもの自体が絵空事にすぎぬことに主催者らは気づかされた。端的に、会議にやってきたポーランド人らにとっては、同じスラヴのロシア人こそが抑圧者であり、ハプスブルクはむしろ慈愛に満ちた存在なのであった。

 このため、ロシア正教への敵愾もあり、ポーランドではナショナリズムローマ・カトリック信仰とむすびついて展開してゆく。のち百年以上も地図上に存在しなかったポーランド人国家が成立したとき、アイデンティティの拠り所としてカトリック信仰が採用された所以でもあった。この国のナショナリストらには、新国家とは決して新たなものではなく「復活」であるという建前が、聖書的なアレゴリーとしていっそう強調されえた。こうして、共産化が成る以前に「神を信じますか」にたいする両国民の対照性はすでに決していた。

 ボヘミア民族主義はのち、モラヴィアやスロヴァキアを巻き込んで、人造的多民族国家チェコスロヴァキアの成立を見た。それはパリの講和会議における国境確定の折衝における、クラマーシュやベネシュらによる尽力の帰結でもあった。ズデーテンやシレジアの一部は言うに及ばず、現在のウクライナの一部地域までも領有した。結果として、新生チェコスロヴァキアの領域は最大限みとめられた反面、ドイツ人以外にも、マジャル人やルテニア人といった多様な要素を、国内に抱え込むこととなった。

 これには西欧諸国の思惑もはたらいた。とくにフランスなどは、ボリシェヴィズムに対する防波堤を必要とした一方、そのための「緩衝国家」自体が安定した強大な勢力になることも望ましくなかった。チェコスロヴァキアには、紛糾と混乱にみちた脆弱な国家のままでいつづけてもらわねばならなかったのだ。

 こうしたなか、国民統合の企図からボヘミア同胞団教会も設立されはしたし、大統領みずからが率先して改宗までした。しかしながら、分断された国のあらゆる層から充分に信徒を集めるまでには至らなかったと結果的には見える。けっきょく、滅びたフス派へのロマン主義的な憧憬を超えることができなかったのかもしれない。


5)モラヴィア

 ひと昔まえ、ポストコロニアリズムが流行した時代には、上のようなチェコスロヴァキアの捉え方はたぶんに凡庸で、それだから「スロヴァキアは二重・三重の支配をうけてきた」などという論もよく見られた。この見方からすると「チェコスロヴァキア人」という民族の創出は、「国内植民地」の忿懣の感をいだかせぬための方策で、やはりトマーシュ・マサリクら指導層の苦肉の策にみえる。ちなみに初代チェコスロヴァキア大統領、マサリクはモラヴィアに生まれ、母語はドイツ語、「父語」はスロヴァキア語であった。

 モラヴィアの州都ブルノに「チェコスロヴァキア共和国最高裁判所」が設置されたのも、同様の意図による懐柔策の一環にちがいなかった。そもそもモラヴィアは、1848年革命においてもボヘミアに無条件に同調することはなかった。すなわち民衆に本格的に暴動が波及することもなく、指導層も独自の路線をとった。帝国政府に却下されたために施行こそされなかったが、領邦議会では独自の「モラヴィア憲法」も可決されていたほどであった。つまりモラヴィアにとっての「革命」とは、議場で平和裡にすすめられたものだった。帝都ウィーンに暴力の嵐が吹き荒れたさいに、宮廷や政府、議会がモラヴィアに避難したのもそのためである。

 ところが、大戦末期の君主政崩壊にさいしてドイツ系住民が分裂したこともあって、モラヴィアは否応無くチェコスロヴァキアに吸収されることになった。

 便宜上わかりやすく極端な仮定を挙げれば、「セルボ=クロワート=スロヴィーニア王国」の例のごとく、本来的には「チェコ=モレイヴォ=スロヴァキア共和国」とでもされようところが、モラヴィアは、その政治・経済・文化において指導的な役割を担っていた層が離脱した結果、影響力を喪失したわけだ。なるほど「民族自決」という幻影が跋扈する時代に、独自の言語を確立できていなかったことは不利に違いなかった。が、理論上はスイスのような多様な成員による国もあり得たと、いまだに論じる識者もあるのだ。

 あるモラヴィア史家がうまいことを書いている。「チェコスロヴァキアの国歌には二番まで歌詞があった。その一番と二番のあいだの二秒か三秒かの静寂こそが、モラヴィアの国歌だったのだ」と。

 ともかく、名も残らぬ「無条件吸収」とは容赦ない弾圧であったし、20世紀末にいたって行政区分として設置された県(kraj)の境界線にしろ、歴史的モラヴィア州(země)が原型をとどめぬように、歴史とは関係のない線が引かれた。

 さて。

 こうした事情の痕跡が、現代において宗教にかかわる調査結果にも顕れている。地域別の調査となると、モラヴィアのスロヴァキアにちかい地域が、チェコ共和国でもっとも「信仰者」の割り合いが高くなっている。

教会や宗教団体に所属している信仰者の割合は、ズリーン県が38.6%と最も高く、他のモラヴィアの諸県やヴィソチナ県では平均を上回っている。どの地域でも、教会や宗教団体に所属していると回答した信者は、ローマ・カトリック教会に所属していると応えた者が最も多かった。「信仰なし」を選択した者が最も多かったのは、ウースチー・ナト・ラベム県(84.2%)とリベレツ県(80.6%)である。

Náboženská víra | Sčítání 2021

 モラヴィアでは、無条件にボヘミア民族主義を受け容れたわけでなかったと類推できる。上では端折ったが、チェコスロヴァキアのその後の歴史がそれを補足してくれる。単純化・図式化すれば「ボヘミア民族主義 vs. モラヴィア・カトリシズム」といったところか。

 現在の世俗の政党政治に目を転ずれば、反共キリスト教勢力の支持率が高いのも、モラヴィアの地域である。すなわち、キリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)や、そこから分離したTOP_09党がこれにあたる。いまも政党名に「チェコスロヴァキア」が生きているのも、アイロニーとしては風情がある。


6)オロモウツというパラドクス

 ただし例外として、モラヴィアでも広義の旧ズデーテン地域では、ANO党をふくむ左派の支持率が高い。

 すなわち、第二次大戦後のドイツ系住民が追放されたあと、あらたに入植がすすんだ地域であるが、それは同時に、カトリック信仰がほかの文化もろとも、いったん殲滅されてしまったことを暗示している。上記の引用中にもあるとおり、ボヘミア側のズデーテンにあたるウースチー県やリベレツ県で「信仰なし」がもっとも大きな数字を示していることからも窺えよう。

 こうした土地では、チェコすなわちボヘミア民族主義がつよいものと想定され、入植後も種々の便宜をはかった共産党の政策、あるいはそれににちかいANO党の政策が支持を得ているとすれば、首肯けるのである。ついでにチェスキー・ファシスト的、すなわち反ドイツ的・排外的言動が正当化されうる土壌すらおそらく根づよく残っている。

 象徴的な町が、オロモウツである。

 モラヴィアの歴史をながめると、行政上の都はブルノであった時代がながい。ところが、11世紀に司教座がおかれて以降、モラヴィアにおけるカトリック信仰の中心を担ったのは、オロモウツであった。モラヴィアの「霊性の首都」と呼べるのは、少なくとも歴史的には同市しかない。

 かつての町の住民には、カトリック系のドイツ語話者が多くを占めていたが、これが第二次大戦後に「追放」され、また前後して、周辺のスラヴ系の自治体が合併されたことで、人口構成が一変した。

 同市を訪れる観光客にとって、なんといってもバロック建築の街並みが見どころではあるが、これも独特のシンボル性を有している。ボヘミア民族派が、バロック期を「テムノ(暗黒)」と呼んだのは、ビーラー・ホラの敗北後、カトリック化が進行した時代であるという歴史観に由来している。するとオロモウツは、もっともドイツ的な景観を有する町のひとつともいえるが、ドイツ語話者追放ののちもこうした建築群が破壊されずに残ったのは不幸中の幸いであった。そこには、市街地の「歴史地区」や、モニュメンタルな《マリア柱》、ユネスコ世界遺産として名高い《三位一体柱》も含まれている。

 おおくの文化財が残されたことは、肯定的に評価される一方で、あらたな産業の開発が進まなかった帰結であるという否定的な解釈もある。これをすべて、共産党の無策に帰するのは安直であろう。さいきんは、ほかのハプスブルクの古都と比較して町の再開発が遅れた要因を、オロモウツが要塞や駐屯地を擁した「軍事都市」であった点にもとめる美術史家もあった。

 いずれにせよ、経済的な立ち遅れが、恩顧主義的ばらまき政策の支持だけでなく、偏狭な民族主義や排外主義の昂まりにもつながるのは、理論上の必然にもおもえる。それを裏づけるように、中道右派が勝利をおさめた昨年の選挙でも、同地区ではあいかわらずANO党が大きな支持を得たものだった。

 これを要するに、モラヴィアの精神的な首都でありながら、キリスト教民主主義政党の支持が伸びず、むしろ元StBの「オリガルヒ」に率いられた左派ポピュリストによる町になっている状況は、瀆神とまでは言わぬまでも、歴史にかんするパラドクスであると観念せざるを得ない。


7)スロヴァキア

 では、共産党体制が崩壊した民主化後のチェコスロヴァキア、なかんづくチェコ共和国に、大規模なキリスト教信仰の復興がみられなかったのはなぜか。この問いにたいしては、宗教社会学者がもちだすスロヴァキア独立国の例にヒントがある。

 ヒトラー第三帝国ボヘミアモラヴィア保護領化した時分、スロヴァキアはアンドレイ・フリンカ師に率いられたスロヴァキア人民党のもとで、おなじヒトラーの傀儡国家として独立を果たした(フリンカ本人は直前に死亡したが)。

 「師」というように、フリンカは教皇庁書記長まで上りつめたカトリックの聖職者でもあった。要するに、隣接するスロヴァキアにおいて教権的ファシズム、すなわちカトリシズムとファシズムが結びついた政治体制が確立し、それがナツィズムの支配に協力するかたちをとったことで、ボヘミアモラヴィアにおいて、ローマ・カトリシズムに代表されるキリスト教信仰全般への不信が頂点に達していた。つまるところ、宗教への不信は、そもそも共産党の体制とは関係がなかった、という説明である。

 ちなみに、スロヴァキアでカトリック信仰が普及した背景は、ちょうどボヘミアの事情を鏡にうつしたような図式で解説される。すなわち、現在スロヴァキアとなっている土地の住民にとって直接の抑圧者はハンガリー人であり、そのさい理由はわからないが、一部の領域で奉じられていたプロテスタント信仰がハンガリーを象徴するものと理解された。そのために、カトリシズムがハンガリー人支配への抵抗と結びついた、というのである。ロシア(正教)に対抗する精神的な拠りどころをカトリシズムが担った、ポーランドと同様の構図であった。


8)調査ごとの限界

 もともと「再現性の危機」問題にもからんで、社会心理の解釈は一筋縄ではゆかない。信仰という微妙な内心の問題を、デジタル的な選択肢に振り分けて集計せねばならぬ調査など、なおさら胡乱なところがある。

 それというのも、じつは件のスロヴァキアやポーランドといった「カトリック国」でも、本気で神を信じているかと問われれば、「はい」と応える者はそう大きな割り合いでもないらしい。

 つまり、おおかたは教会組織に属するという意味で「ええ、信徒ですよ」と回答しているにすぎないというのだ。すると、こうした聞き取り調査の結果は、あるコミューニティに所属する身であるという、アイデンティティの拠り所としての信仰告白という性格がつよくなってしまう。それだからこそ、前出の調査にもあてはまるとおり、「神を信じますか」という設問が「信仰者ですか」とは別個に用意されるわけだ。

 ということは「無神論」といっても、積極的に神を否定する無神論とは性質を異にしている場合が多分に想像される。それでも「精神性の欠如」を埋めるのは「大地信仰」のような民間信仰ではなく、チェコ共和国では多く「占星術」とか「おまもり」のようなものが信じられているにすぎないと言われる。しかも調査によっては、その割り合いが「無神論」の数字を上回っている。

 このような「帰属なき信仰」や「平行信仰」(占星術、まじない、テレパシーなど)の普及と呼ばれる現象じたいは全欧的な傾向でもあるらしい。結果、やや「迷信ぶかい」ところがある人でも、デジタル的に「信仰なし」と回答することになる。

 だがこれは、見方によっては、われら日本人の自称「無宗教」に似ているのではないか。なにかというと神社仏閣に参拝し、護符や達磨に願をかけ、お祓いや地鎮祭に大枚をはたきながら、「無宗教」だと強弁する……。そんな日本に、ヨーロッパがちかづいているというところか。

 ただ、国際的に比較すると、チェコ共和国は異なった印象になりそうだ。

 ここで興味深いのは、前出の2017年の調査である。「魂の存在」「運命」「奇蹟」「天国」「地獄」といった、こまごまとした宗教的ないし霊性的な信条については、チェコ共和国のばあい周辺諸国よりも低い数字にとどまっているという結果が示されている。これのみをもって「一切のものを信じない人びと」などと断ずるわけにもいくまいとはいえ、人口に膾炙した「国民性」のステレオタイプとは合致している。

 この結果を採るなら、現代チェコ共和国の「無神論」は、旧東ドイツ地域の性向にちかい可能性は想定されるものの、「一国」のものとしてヨーロッパにおいて異様の傾向ということになる。

 前提として、かのロナルド・イングルハートらによる「世界価値観調査」などでは、「宗教は重要でない」という傾向を示している点で、チェコ共和国と日本の人びとは、かなりちかい価値観を有していることになっている。「宗教は重要」とした回答が多い国から並べると、両者は七十数か国のなかでも最下位にちかい(ちなみに最下位は中国。但、2000年)。

 ところが、各種の「平行信仰」ないし「迷信ぶかさ」といった諸々のことまでも考慮に入れると、ヨーロッパ各国のなかでは日本からもっとも遠い宗教観の人びと、ということになりそうだ。

 とはいえ、最近の調査で「神を信じるか」について、チェコ共和国よりもドイツやフランスのほうが低い数字のものも見た。やはり、この種の調査の「再現性」を疑いたくもなる。あるいは、実際のところ、ひとの信仰心とは存外に移ろいやすいものなのかもしれない。また、チェコ共和国国勢調査のばあいは、被験者がどれだけ真面目に回答しているのかという信頼性の根幹にかかわる問題をかかえてもいる(参:「私の宗教はジェダイ」と1万5000人が回答、チェコ国勢調査)。

 いっぽう日本での調査では、以前にも書いたが、被験者が「宗教」という概念を一種独特の様式で解釈して回答していることが、根本の問題として存在しているとみる。が、それもふくめて文化なのだといわれたら、仕方がない。それだから「宗教を騙るカルト」を取り締まるのには大いに賛成したいものの、床屋談義にも似たSNS上の議論にも、これまた一種独特の危うさを感じざるを得ないのだった。

 

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チェコ共和国軍、F-35導入へ

photo by MICHELLE HN

 チェコ共和国政府は、第五世代戦闘機・F-35導入の方針を決定した。

 ペトル・フィアラ首相とヤナ・チェルノホヴァー国防大臣が、先日就任したばかりの参謀総長・カレル・ジェフカ少将をともなって、7月20日閣議後の会見で発表した。

 同時に、予定されていた次期歩兵戦闘車の入札を中止することも決定され、CV-90を製造するBAEシステムズに通知するとした。

 チェコ共和国軍(AČR)は現在、戦闘機としてサーブJAS_39C/Dグリペンを計14機、運用しているが、リース契約は2027年までで、その後の2年間はオプションとされている。国防省はこの後継としてF-35を選定し、24機の購入を希望している。これは、20年ほどまえにグリペン導入時に計画されていた当初の数であったものの、のち調達機数には「妥協」が生じた。が、目下の妥協をゆるさざる状況のために、市場で最良の機材を最適な数そろえる由、同国防相は述べた。つまり、ロシアのウクライナ侵攻を受けた措置であるという了解事項を示唆したわけだ。

 契約が決まれば、金額は数百億コルナにのぼるとみられており、軍の装備としては同国史上最大の「買い物」となる見通し。とはいえ、アメリカとの交渉はまだこれからであり、2023年10月までに合意に至らない場合は、他の選択肢もあり得るとしている。

 というのも、さいきんプラハ駐箚スウェーデン大使が、AČRにたいしてグリペンの最新鋭・E型の売却と引き換えに、現在リース中の機材の無償譲渡およびアップグレードを提案する意向を表明していたというのだった。これにチェコ側は、正式なオファーはまだ受けていないとしているが、万が一、F-35の導入ができない場合の「プランB」として織り込んでいるのだろう。

 ウクライナの一件で、たとえばドイツなども先日F-35の導入に舵を切ったばかりだが、北大西洋条約機構NATO)内で採用・運用する国が増えれば、友軍機どうしで情報を共有しつつ交戦できる同機の能力のメリットは増大することになる。チェルノホヴァー大臣も、将来的には全欧で数百機のF-35が運用される可能性があるとみている。

 メリットと同時に運用コストの増大も、しぜん予想されている。とはいえ、装軌式歩兵戦闘車の入札中止は、まったく別の問題であるようだ。

 国防相によれば、入札の中止は、法務局の勧告にしたがったものだという。供給元の候補となる3社とのやりとりは、当初のスケジュールに数年の遅延がでていた。前のバビシュ政権は、オファーが軍の要求を満たしていないとしてプロセスを中断していたが、現フィアラ政権下で国防省がこの6月末に、入札参加企業にあらたな条件を提示したところであった。スペインのGDELS社(ASCODを提案)とドイツのラインメタル・ランドシステム社(同リンクス)は、この条件に同意しなかったのだという。

 すべてを透明にするわけにいかぬ防衛装備品の契約については、とくにこの国のばあい、つねに汚職の影がつきまとう。前の左派ポピュリスト政権は、欧州連合EU)の立場などからすると、ともすれば「クレプトクラシー」の疑いも濃厚な政府であって、なおさらであった。チェルノホヴァー国防相によれば、ある入札参加企業が条件を満たしておらず、排除すべきだったとしていた一方、ルボミール・メトナル前国防相は、専門家グループにしたがって、このまま推進すべきと主張していた──といった具合で揉めていた。もともと4社の参加があった選定プロセスからは、プーマを提案していたドイツのコンソーシアム・PSMが、すでに撤退している。「排除」されるべきだったというのは、同社を指していたことが暗示されているのだ。

 とはいえ、2026年までに整備するとNATOに約している「重旅団」には、基幹となる装軌式の歩兵戦闘車が不可欠とされる。そのため、来年の予算にはかならず反映されると国防相は請け負った。

 折からの資材価格の高騰にくわえて、世界じゅうの軍需産業に注文が殺到している。装備の調達がむずかしい季節がやってきている。チェルノホヴァー大臣はこれを「できるだけ早く行列に並ばなくては」と表現している。

チェルノホヴァー国防大臣(左)とフィアラ首相(右)──会見にて(ČT)

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サライェヴォ事件とフランツ・フェルディナント大公の明治日本

 第一次世界大戦は、一発の拳銃弾から始まった──と言われる。

 6月28日は、その記念日。1914年、サライェヴォにて、帝位継承者フランツ・フェルディナント大公が殺害されたのである。

 報復としてセルビアに対し宣戦布告したとき、当のフランツ・ヨーゼフ帝は、自らの号令が世界大戦への道をひらき、同時に帝国をして崩壊へと歩み出さしめたのだとは、露にも思っていない。

 ──これは、ことし2月におけるヴラヂミール・プーチンの誤算にも通ずるものがある。まだロシアは崩壊すると決まったわけではないが。

ガヴリロ・プリンツィープのブラウニング

photo by urashima-e

 ウィーンの軍事史博物館には、かつて幾度も足を運んだ。

 ウィーン筆頭駅(むかしは南駅だった)から歩いて15分ほどだろうか。サライェヴォの暗殺に使用された拳銃《FNブラウニング・モデル1910》は、ここに展示されている(Das Attentat von Sarajevo: 28. Juni 1914)。

 オーストリアの大公を屠った拳銃が、ウィーンに展示されてあってもなんのふしぎもありはしない。

 だが、経緯は意外に紆余曲折をみていた。たとえば、2004年6月22日付けの『アイリッシュ・インディペンデント』紙のサイトに、記事がある(コピー・ライトのマークからすると、『デイリー・テレグラフ』紙からの転載か)。

 ベオグラードの学生であったガヴリロ・プリンツィープは、1914年6月28日にサライェヴォを通過した大公夫妻にたいし、7発の銃弾を見舞った。のち1914年10月に同じサライェヴォで12日間の裁判が行われ、プリンツィープには禁錮20年の判決が下った。けれども、おそらく収監される以前から結核に罹患しており、病のためというが右腕を切断され、やがて1918年4月に病院で死亡した。

 刑が下されると、帝国のボスニア省は、アントーン・プンティガム司祭に凶器のピストルとその他の遺品を所持することを許可した。というのも、イエズス会の司祭、プンティガムは大公の親友で、サライェヴォの市庁舎まで出向いて夫妻に終油の秘蹟をほどこし、のちに大公を記念して博物館を開くという意向を表明していたからだ。

 しかるに、まもなく大戦が勃発し、やがて帝国も崩壊したため、フランツ・フェルディナント博物館開設の計画は成就しなかった。1926年には司祭自身も亡くなり、このシリアル番号19074の《ブラウニング・モデル1910》は、シュタイアーマルクのイエズス会の施設に引き継がれた。そうして、いつしかその存在は忘れ去られてしまっていた。

 それでもあるとき、埃をかぶった《ブラウニング》が発見されたのだ。

 文書館の責任者であったトーマス・ノイリンガー司祭は、暗殺から90周年の節目に間に合うように、当局に引き渡すことを決めた。大公夫妻が乗車していたグレーフ&シュティフト製のセダンや血まみれのチュニックなども一緒である。

 こうして、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を殺害し、第一次世界大戦を惹起した拳銃は、ウィーン軍事史博物館で展示されることになったという。

 なお、大公の頸部から摘出された弾丸は「大戦をひきおこした銃弾」として、ボヘミアのコノピシュティェ城に保管・展示されている。

 ──日本で骨董を買い漁っていたとき、大公はそれをこの居城内のエキゾチックな装飾にしようと思い描いていたのである。

 

フランツ・フェルディナントの日本

 プリンツィープは、よりにもよって宮廷でいちばんの「親スラヴ」的な皇族を手にかけた。安重根が、征韓論に反対していた伊藤博文を殺害した事例にも似ている。いずれのケースでも、多少なりとも親しみをもつがゆえに相手に対して隙が生じ、狙いやすい標的となったということもあったのかもしれない。

 また、当日の警備体制の不備はいろいろ明かされているが、それ以上に、大公みずからが厳重な手厚い警護をきらう性分だったことも、若い時分の日本訪問の日記から読みとることができる。

 1892年からの世界を股にかけた旅の途上、フランツ・フェルディナント大公が日本を訪問したのは翌93年の夏であった。日記の既刊邦訳は、日本がかかわる部分のみの抄訳で、香港から海路をゆく皇后エリーザベト号艦上、7月29日からはじまっている(安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』講談社、2005

 低気圧を避けつつの航海で、ようやく8月2日に長崎港にはいった。

 そのとき日本駐箚オーストリア=ハンガリー公使ビーゲレーベン男爵が乗艦してきて日程が知らされるや、大公は驚愕する。

驚いたことに、わたしの希望は考慮されていなかった。
   [...]
陸路コースの準備がもうできあがっており、わたしが横浜に打電し確認していた日本側接伴員はすでに長崎に到着しているそうだ。したがって、名高い景勝地の瀬戸内海をエリーザベト皇后号の甲板から楽しむこともできず、お忍びで日本の地方風景をのんびり見学する楽しみも断念しなくてはならない。ともあれ、この長崎から日本の顕官に囲まれ、凱旋行進のように大層な行列をする破目になった。

──安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』

 8月4日からは軍艦八重山に移乗し、三角港まで航行。熊本から下関まで行き、ふたたび八重山に乗る。瀬戸内海をとおって、宮島を経由して三原へ上陸。各地を見物しながら、鉄道で大阪、京都、奈良、名古屋、箱根と移動し、8月17日、横浜から東京に至る……。

 海路と陸路をくみあわせた行程がかっちり組まれており、帝都での天皇謁見へいたる日程は、時間的にもタイトだった。ただ、お忍びで地方を散策・見学する希望がことごとく却下されたのは、時間の都合ばかりではなく、約2年前にロマノフのニコライ皇太子が斬りつけられた事件に懲りた日本政府の意向がつよくはたらいたためでもあったらしい。

 なにせ、不平等条約撤廃をめざす明治政府としては、日本がいかに文明的な国家であるか、十全にアピールしなければならなかった。そんななか「次期皇帝」と目される御仁にたいして野蛮な刃傷事件の二の舞をおこした日には、言語道断の失点となる。

 さいわい、大公は無事に東京へ至ったし、また日記を読むかぎり「アピール」もうまくいったみたいだ。大公は、神社仏閣や宗教美術、物珍しい文物や風習を好奇の目でながめるだけでなく、日本の産業化・近代化の進捗にも舌を巻いている。とりわけ軍隊は、国力を示すのに一役買ったようだ。

 大公にも軍務経験があり、とりわけ司令官まで務めたことのある騎兵科には造詣が深かった。騎乗する兵の背筋をみて、ひと目でドイツ式とフランス式を見分け、どこで訓練をうけたかわかると豪語している。装備の良し悪しにも言及しているが、鞍などは「わがオーストリア」ほどの品質ではないと断じている。ドイツ騎兵がモデルとしたオーストリアの様式を日本も採り入れていることには感心したようだし、また行進にあわせて演奏された一曲が『ラデツキー行進曲』だったことにも触れている。

 さきざきで歓迎の宴がもよおされ、しばしばドイツ語やフランス語に堪能な軍人や官吏が同席して、大公が退屈しないように腐心した。皇室の料理人が腕をふるった膳にも、微妙な言いまわしもあるが、選りすぐられた酒とともに各地でおおむね愉しめた様子だ。ビールがあると知って喜ぶ一幕もある。

料理は必ずしも口に合うというわけではなかったが、中国の料理よりは美味であった。料理の中心はなんといっても魚と米である。最初わたしたちは、料理を口に運びつつ日本酒を飲んでいたが、ビールがあることを知ってしまうと、この高貴な飲み物でたっぷりと英気を養ったのはいうまでもない。

──安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』

 日本のビール産業は、その歴史のごく初期に英国流のエールを醸造していたものの、すぐに下火になった。この明治20年代は、ドイツから設備一式を輸入し、技師を招聘するなどして再出発した時期にあたる。醸造の分野でも、世界的な潮流をとりいれる必要があった。つまるところ、大公をよろこばせたビールとは、まさに故郷で飲み慣れた下面発酵のラガー・タイプだったはずだ。

 ビールもそうなのだが、さらに象徴的な描写がある。大公の一行が東京入りして翌8月18日、フランツ・ヨーゼフ帝の誕生日にさいして、東京湾にて日英米独の軍艦が祝砲を撃ち鳴らしたという記述だ。欧米列強の軍艦がなにげなく停泊している様子にも、当時の日本のおかれた環境がしのばれるのだ。

 日本人がはじめ、19世紀のヘゲモニー国家・イギリスに近代化の範を仰いだのは自然のなりゆきだった。また、軍事、とりわけ陸戦にかんしては徳川幕府いらい、フランスを師としたのも、ナポレオンの存在を和蘭通詞経由で聞き知っていたならば至当であった。

 ところが、1871年ビスマルクがフランスを降してドイツ帝国が成立するや、明治の政府や軍や学界はいっせいにドイツを向くようになった──ともいわれるが、文明化・近代化の手本としてドイツが最有力の選択肢に加わった、という表現が穏当であろう。しかし、陸軍にかぎっては、ドイツ志向はそうとう際立った傾向だった。成績上位の者からもれなくドイツ語のグループに編入せしめられ、クラウゼヴィッツの講読に力が入れられた。

 あるいは、鷗外森林太郎を思い出す向きもあるに違いない。さいきんは、将兵脚気を減じるための陸軍の糧食改革を阻んだ元凶とされ、一部で評判がよくないものの、むろん「業績」はそれだけではない。近代日本の文学史、医学史、醸造史など、さまざまな分野に顔をだすスーパー・スターで、留学史の文脈でもおおきな存在だ(さしあたり参:ビール先進国ドイツに魅了された日本近代文学史上まれなる文豪・森鷗外)。

 じつに10歳頃からドイツ語を学んでいた鷗外だったが、大学卒業後に留学を約されていた二番目までの席次にとどかず、ドイツへの留学枠をねらって陸軍に奉職した。留学といっても、第一義的には官費によって野心あるエリートが命ぜられるもので、鷗外ものちには軍医総監まで上り詰めることになった。

 さらに同時期の陸軍でドイツといえば、陸軍大学校で教鞭を執ったメッケル少佐だ。『坂の上の雲』にも出てきた「渋柿おやじ」である。モーゼルワインの飲めぬ国には赴任できぬと固辞していたが、明治の陸軍がどうしてもとほしがった人材だった。NHKの映像版『坂の上の雲』には、高橋英樹の演じる児玉源太郎が「モーゼルヴァイン!」を届けさせて乾杯するシーンもあった。だが、このとき居並ぶ「学生」連はフランス式の軍服を着用している。

 この場面に、阿部寛が演じた秋山好古もいた。この秋山はメッケルの薫陶を受けながらも、諸般の事情から、フランスへ騎兵戦術をまなびにゆく。ただ、このひとの場合は「自費留学」ということになっている(「秋山騎兵大尉自費留学の閣議」)。いずれにせよ、やがて「日本陸軍騎兵の父」と呼ばれるようになり、相前後して大陸でロシアのコサック騎兵を敗ることになる。

 秋山好古は、1890年代初頭には帰国した。が、それを機に騎兵の運用がすっかりフランス式に統一されたわけでもなかった。往時、フランツ・フェルディナントが演習を検閲した頃は、騎兵科にドイツとフランスの両方の流儀が入り乱れていた時期だったようだ。大公の観察眼によって、それが客観的に裏付けられているわけだ。

 つまり、そうした欧米列強の「文明」を貪欲に吸収する明治日本を冷静に観察していた海外からの訪問者たちだったが、「次期皇帝」ともなると、教養の深さや世界観からいって、軍事の分野にかぎらず、あらゆる感想が含蓄に富んだものなのだった(どの程度までゴースト・ライターが書いたものであったのかという検討は、ひとまず措いておく)。

 さて、そんな大公にして、じつは堅苦しいことは嫌いなたちだったとうかがえる。皇族として教育を受けた教養人で、好奇心がつよく、興味関心も多方面にわたった。趣味にしても、猟銃を撃つ機会をもうけることは断念し、短時間の鑑賞のみで劇場もあとにしたのも悔いたが、骨董の蒐集だけは妥協したがらない。自分のペースで店を見てまわりたいという気持ちは、現代人には庶民でもよくわかる。いずれにせよ、大公は窮屈さから逃れようと画策しつづける。

 この宮島でもまた、華々しい歓迎を受けねばならなかった。ほんとうは、こうしたことから解放されたかったのだが、どうしても逃れられなかった。日本の人びとは、機会あるごとに、物事をできうるかぎり厳粛に、できうるかぎり華麗に執りおこなうことに最高の価値をおいているからだ。
   [...]
そこで、わたしは駆け足に打って出て宿舎に逃げ込んでしまったが、色めき立ったのは随員たちで、みんなハアハアと息を切らせて追いかけてきた。

──安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』

 しかし、われら読者は、この二十余年後にサライェヴォで命を落とすことになる大公の運命を知っている。日記を読んでいても、大公が警備を厭うくだりがでてくるたびに、諌めてさしあげたくなってくるのだ。

浴衣でくつろぐフランツ・フェルディナント大公御一行(1893)

www.hgm.at

www.independent.ie

museum.kirinholdings.com



 

タリアーンの謎──知られざるプラハ名物?

 むかし、ある友人がプラハで雑誌の編集者として勤めはじめたころ、見つけたばかりだという酒場に招いてくれた。といっても、はなやかな表通りから脇へはいった路地裏の地味な店で、メニューの内容のほうも、建物の内装におとらず簡素なものだった。

 どうやら博士課程の学生のころから金銭感覚が変わっておらないらしく、「どうだ、プラハプルゼニュがこの値段だぞ」と、店の唯一の長所をアピールする友人であった。

 「プルゼニュ」というのは、いわずもがな「ピルスナー・ウァクヴェル」のことであるが、日本では「ウルケル」として定着してしまっている。「ボヘミアンピルスナー」スタイルのビールとして「元祖」にして随一の製品で、たいていどの店でもほかの銘柄よりも価格が高めに設定されている。

 しばらくして、卓上にあったアクリル製のメニュー立てをひっくり返すと、ふしぎな単語が目を引いた。

 ──タリアーン。

 日本語でも「メリケン粉」など、語頭音消失の例を思い浮かべれば、語頭の母音が脱落した「イターリアン」に由来する語だろうと類推できた。じっさい、現代チェコ語ではイタリアの国号は「イターリィェ」というふうに発音されるが、スロヴァキア語では「タリアーンスコ」のように言う。

 いずれにせよ、イタリア風の酒の肴なのだろうと解した。友人はおもしろがって、正体を訊ねても教えてはくれず、そのかわりに「たのんでみろよ」とのたまう。

 はたして、店の女将さんがもってきたのは、皿に載った色白のソーセージである。加熱してはあったのだろうが、熱々というのにはほど遠かった。生ぬるい表面はぶよぶよしていたし、粗く挽かれた肉片は硬めのゴムのようで、風味は淡白……しょうじき不味かった。

 「白いソーセージ」と聞くと、バイエルンミュンヒェン名物のヴァイスヴルストが思い浮かぶ。未明からつくりはじめ、午前中には売り切ってしまうというのが「伝統」で、それだから午後になるともう、ありつくことが原則的にはできない。釜揚げうどんのように、湯につかったままテーブルに出てきて、おのおの皮をむいていただくのだ。きめの細かいなめらかなテクスチャに、甘く仕上げてある粗挽きのマスタードをつけると、口のなかで面白いコントラストになる。絶品である。

 両者とも、白っぽい加工肉にはちがいないが、あまりの格差に愕然とした。

 店には、タリアーンの名の由来を知っている者がなかった。それに、これに懲りてからというもの、もう注文することもなくなってしまって、すっかり忘れてしまっていた。

 けれども、それから何年も経って、「食肉加工業者連盟」のようなサイトに掲載された記事をみつけた。それで、かつて記憶にのこるほどの感銘をうけなかった、あのタリアーンのことを思い出したわけだ。ググってみると、ほかに記事もみつかった。

 ──19世紀から20世紀にかけての話。エマヌエル・ウッジェというのは、名前からしてイタリア系のひとだが、プラハに育った。ハプスブルクの帝国全体を見渡せば、そういうひとは珍しくもなかったはずだ。

 旧市街に現在も在るリブナーという通りは、中世以降になると精肉職人が集住していたといわれ、とりわけ南から中間部にかけては「肉屋街」のような名称だった時期もあるらしい。ところが別のソースには、当時の旧市街に加工肉業者はまれだったと、ほとんど真逆とも思える記述が見られることもある。

 肝心の製品のほうは、燻煙せずに湯煮しただけのソーセージで、当時は大人気になって、そうとう売れたらしい。特許を取得しなかったために、ほかの業者もにかよったものを製造販売しはじめたのだという。

 公共放送の記事には、原材料も紹介されていた。

・豚もも肉900gにたいして、若い牛のもも肉100g。
・24gのプラガンダ(亜硝酸ナトリウムを含む、岩塩や糖類から成る製品の商標名)。
・大蒜ひとかけ、2gの胡椒、すりおろした生姜が少々、カルダモンがひとつまみ。

 いい部位をつかいながら、スパイスも効かせている。──じつは担がれたのか。ヴァイスヴルストほどの繊細さはないにしても、原材料からすると、ちゃんとした店で試してみれば旨いのかもしれない。

 発案者の特徴的なイタリア姓から、はじめ製品も「ウジョフカ」と呼ばれたが、やがて「タリアーン」と呼ぶ者ばかりになったという。すなわち、個性的な名すら忘れ去られ、たんに「イタリア人(みたいな名前の野郎)がつくったやつ」と認識されるようになったわけだ。

 むかしから変わらぬ、大都会プラハの不人情を感じてしまう。

 

*上掲画像はエマヌエル・ウッジェと息子(Wikimedia

 

カレル・クラマーシュ──ある親露派の末つ方

 この5月下旬で没後85周年をむかえたとのことで、チェコ語メディアがカレル・クラマーシュについてとりあげていた。

 クラマーシュについては、以前このブログでもアロイス・ラシーンの記事のなかで、すこし触れた。チェコスロヴァキア初代首相とはいえ、ちょっと「腫れ物」にさわるような雰囲気がないでもない、昨今である。

 1860年8月27日、オーストリア帝国は北ボヘミアの村、ヴィソケー・ナト・ユィゼロウの生まれ。煉瓦工場の坊々で、父ペトルと母マリイェにとっては、五人のうちでただ一人、学齢期まで生き残った子どもだった。ベルリン、プラハストラスブール、パリ、ウィーンの大学にて法律を学び、ロンドンにも滞在した。それだから、西欧の文化にかぶれていた一方で、スラヴの諸文化にも幼少から親しんでいたともいう。それはのちのち衆目に明かされることになった。

 徐々に政治の道にはいっていったのは、ヨゼフ・カイズルやトマーシュ・マサリクとの出会いからであった。はっきりとした転機は1890年で、国民民主党から帝国議会議員に選出され、ウィーン政界にデビューした。法律に通じ、弁舌も巧みだった。オーストリア政府を支持する見返りとして、文化、言語、経済の分野で、おおくの譲歩をひきだすことに成功していった。

 この頃は、フランチシェク・パラツキーの系譜につらなる「オーストロスラヴィズムス」を標榜しているように見えた。つまり「ゲルマン民族膨張主義に対する防波堤として、脅威を排除する強いオーストリア」を求めた。ハプスブルクの多民族帝国が、諸民族それぞれの生存と利益をまもるのだと。これもしかし、政府から有利な条件をひきだすための方便にすぎなかった可能性も否定しきれないが。

 というのも、第一次世界大戦が勃発するや一転、独自の「汎スラヴ帝国」の構想をぶちあげたのだ。ひそかにあたためていたものかとおもいきや、即興のおもいつきだったという説もある。それぞれの君主をいただく中小のスラヴの国々を、ロシア皇帝が統べるという、壮大なヴィジョンだった。ボヘミア王国の王は、ロシア皇帝が兼ねるとした。要するに、ハプスブルクに代わって、ロマノフに統治してもらう、というだけの話だった。

 だが、いっぱんにボヘミアで人のいう「汎スラヴ主義」とは、となりのポーランドの状況に矛盾が端的にあらわれていた。「ポーランド分割」で国を失ってきたポーランド人にとって、圧政の主ないし脅威の源とは、ほかならぬスラヴの盟主・ロシアだった。ぎゃくに、ハプスブルクはといえば救済にもなりうべき存在だった。

 クラマーシュは、件の「危険思想」をいだきつつ国内に残留し、反ハプスブルク闘争にて指導的な役割を担ってゆく。だが、官憲の目も節穴だったわけではない。けっきょく逮捕・投獄された。これは戦時中の国家反逆罪であるから、とうぜん極刑の判決が下った。

 このあたりは、以前紹介した映像作品『ラシーン(邦題:滅亡した帝国)』にも描かれていた。クラマーシュ役、ミロスラフ・ドヌチルの演技もみごとだった。

 ところで、クラマーシュの人物の好さというのは、一見すると不思議な現象として表面にあらわれる。反帝政の地下活動をしながらも、たほうでは皇帝フランツ・ヨーゼフを個人的に崇敬してもいた。ふるくはアメリカ独立革命の「反乱勢力」にも似たような傾向があったというから、人間とはそういうものなのかも知れない。とまれ、そのフランツ・ヨーゼフが崩御した。あとを襲ったのは、のちにヴァティカンによって福者に列せられるほどの人格者、カール帝であった。

 この慈悲ぶかい諸国民の父によって、叛逆者にして忠臣でもあったクラマーシュにも恩赦があたえられたのだ。減刑を経て釈放となった。だが、これは有権者には「裏切り」と映ったようだ。民族派の政治家にとっては深刻だ。監獄から娑婆に出たかとおもったら、そこは針の筵だった。

 それでも、やがてチェコスロヴァキアが成立すると、おもに戦前・戦中の功績から首相の座に就いた。……が、短命だった。

 パリの講和会議に出席して、国境確定の交渉に精を出していたが、育ちのよさが裏目に出て外交交渉には不向きだったといわれる。また、首相であるにも拘わらず、自国をながく留守にすることになり、国民の人気は大統領のトマーシュ・マサリクが独占する結果となった。

 しかし、政治家クラマーシュにとって致命的だったのは、ボルシェヴィキに支配されたロシアを救うとして、非現実的な軍事介入を主張しつづけたことだった。そのため、政治的に完全に孤立してしまった。

 理想主義者にして、飾り気がなく、政治家らしい駆け引きができなかったという評価がある。たぶん、あまりにも育ちがよかった。本人はとうぜんのように大統領の器を自認していたらしく、その品の良さやカリスマ性からいってふさわしくもあったが、叶わなかった。けっきょくは、パリの講和会議に外相として一緒にのぞんでいたエドヴァルト・ベネシュがマサリクの後釜におさまった。

 クラマーシュは1937年5月27日に没したが、ベネシュは大統領として葬儀に出席することなく、代理人に献花を託しただけだった。亀裂は決定的だったらしい。

 おおきな政治的な争点にもつながった、ロシアへの過度の傾倒には、個人的な理由がおそらく大きかった。

 政治家として歩み出した「転機」の1890年、訪れたモスクワで、将来の妻に出会っていた。そのときナディェジュダは、すでに四人の子持ちだった。

 昭和の昔ならいざ知らず、さいきんの日本であれば「不倫」「略奪愛」などと週刊誌に書かれてしまえば、ややもすると政治生命は危機に瀕する。当時のオーストリア政界も似たようなものだったらしく、ふたりはともにウィーン市内にいながら別々に暮らした。正式に結婚したのは、じつに10年後のことだった。

 ロシア人妻といっても、クラマーシュ以上に富裕なブルジョワジーのうまれであったから、ボリシェヴィキ政権とは敵対関係にあった。ロシアに残してきた子どもを呼び寄せる試みもすべて虚しく終わり、心理学でいうところの「補償」の側面もあったのか、亡命ロシア人の世話に奔走した。

 つまるところ、クラマーシュの強硬なロシア派兵の主張は、ナディェジュダからの懇願に由来した。政治的な情勢を度外視した、博愛主義者、愛妻家、家庭人としての訴えだった、という話である。

 富裕層の子女で高学歴にして、おっとりして駆け引きができず、たびたび宇宙人のごとき頓珍漢な発言でメディアをにぎわす首相経験者……といえば、近年の日本人には思い浮かぶ顔がある。しかし、そう比較してしまうのも紋切り型にすぎる気もするし、なによりクラマーシュに気の毒だ。

 たぶん、善いひとは政治家に向かない。──としておこうか。他人の意見を真摯にきくうちに、政策が現実と乖離し、無能扱いされるかもしれない。すると、ちやほやしていた取り巻きが、きゅうに手のひらを返してゆく。

 史家のミロスラヴァ・ヴァンドロフツォヴァーは、クラマーシュについて「無私無欲で、正直で、しばしばほとんど素朴な政治家であり、大きなカリスマ性を持ち、多くの党員から親愛の情をもって愛され、慕われた人物」と評し、「47年間も政治に携わりながら、見棄てられ、評価されず、誤解されたまま政治を去っていった」と同情している(Jana Čechurová, Dana Stehlíková, Miroslava Vandrovcová, _Karel a Naděžda Kramářovi doma_, Praha 2007)。

*参照:

www.blesk.cz

鷲は舞い降りた──ハイドリヒ、チャーチル、プーチン……?

photo by Untitled Photo
ハイドリヒ

 この週末のはじめ、5月27日は、アントロポイド作戦の決行から80周年という節目だった。

 第三帝国保護領時代のプラハにおいて、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(1904-1942)の暗殺が敢行されたのだった。

 ハイドリヒは前年、保護領の副総督に就任。住民に融和的であった総督コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵に代わって、実質的にボヘミアモラヴィアを統治した。

 ハイドリヒといえば、「ユダヤ問題の最終解決」が決定された「ヴァンゼー会議」が映像化、放映されて話題になった。とおい日のことのようにも感ずるが、つい1月のことだ。こちらもドイツの公共放送ZDFによる80周年記念企画だった。

 とまれ、その残忍さから「野獣」とか「処刑人」とかの異名で恐れられていたナツィスの高官も、病床で一週間ほど苦悶したのち、絶命した。

 ウィンストン・チャーチルと在ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府による作戦にあって、大役を遂行することになったのは、スロヴァキアとモラヴィア出身のふたりだった。ヨゼフ・ガプチークとヤン・クビシュによる空路潜入、潜伏、襲撃、逃走……は、多くの伝記文学を生み、ドキュメンタリーや映画・映像作品もたびたび出来していることは周知のとおり。

 プラハでは、まいとし記念日に、そのときの様子が実演により再現される。暗殺現場となったホレショヴィツェ地区の、ゼンクロヴァ通りからフ・ホレショヴィチュカーフ通りへ至るゆるやかな坂道は車両通行止めとなり、舗道に見物客が詰めかける。念を入れたもので、じっさいに決行された10時35分に合わせて行われる。

 

プーチン

 「プーチンを政権から引きずりおろせ」という意味にも受け取られかねない失言から、3月半ば、批判を浴びたのは、ポーランド訪問後のバイデン米大統領であった。本音が漏れたのだろう。

 とはいえ、ウクライナにおける悲劇に幕をおろす条件として、素朴に同じような期待をいだいていた空想的な人間は、世にごまんといたはずだ。プーチン政権の終焉なくして、早期の戦争終結はないのではないか、と輿論は悲観している。

 それが、暗殺という手段を採らなければならないわけでは必ずしもないだろうが、ウクライナ各地の惨状を鑑みるに、ハイドリヒへの憎しみとプーチンへの怨みとは相通ずるものがあるにちがいない。ただ、KGB出の元FSB長官を排除するとなると、大掛かりな警護を嫌ったハイドリヒとは事情が異なってくる。また、成否にかかわらず、事後につづくであろう報復を想像するに、軽々に実行できるものでもない。

 報復措置の想定は、アントロポイド作戦実施への反対意見の根拠として、すでに80年前の議論のうちにもでてきていたようだ。じっさいのところ、懸念は的中した。ボヘミアおよびモラヴィアで数千人が処刑されたと目されるが、なかでも、プラハ近郊リヂツェ村が、住人約500名全員の射殺と収容所送致とによって、跡形もなく地上から「抹消」されたことはよく知られている。けっきょく、ハイドリヒの殺害はそれ自体は達成されたものの、代償も大きかったのだ。

 それでも敢えていえば、潜水艦発射型弾道弾(SLBM)と核弾頭が存在しなかった時代であればこそ、こうした賭けに打って出る余地もあった。

 いつぞや公開された映像には、プーチン大統領につきしたがう士官が、ロシア版「核のフットボール」と思しきアタッシェ・ケースを携行する姿がみられた。「プーチン暗殺作戦」の企図を牽制するため、とも囁かれていた。世界を人質に取って、威嚇しているわけだ。

 「じつは癌のため余命三年か」という報道もあった、プーチン大統領ではある。制裁を科されたロシアの継戦能力のほうがそこまでもつのかわからないとはいえ、もし何らかの形で紛争がつづくのであれば、いずれにせよ長すぎる時間だ。

 

チャーチル

 ところで、2年前にパンデミックが始まって間もない頃、真っ先に読んだのはほかでもない。ことし4月に訃報が伝わった、ジャック・ヒギンズによる『鷲は舞い降りた』だった。

 カミュの『ペスト』よりも読むのが先になったのは偶然で、1990年代に増刷されたハヤカワ文庫版がたまたま出てきたからだった。久しぶりに「紙の本」で冒険小説を読んだのではなかったか。

 第二次世界大戦下の1943年、総統ヒトラー直々の「密命」によって「特殊作戦」が発動された。英チャーチル首相を誘拐するか、やむを得ない場合は暗殺せよ──。

 オール=スター・キャストの映画版の印象が鮮烈すぎて、原作のほうの記憶がなかった。けれども、映画では省略されていたくだりが、むしろ圧巻だった。そういえば、映画ものちに、完全版だか、ディレクターズ・カット版だかが発表されていたような気もするが、そのあたりも補完されているのだろうか。

 とりわけ、群像劇の読みどころとして、登場人物のひととなりが秀逸だった。架空戦記のようなジャンルでは、人物については通り一遍のステレオタイプ的な説明で済まされることも多々あるが、ヒギンズの人物造形は根本的に異なっている。

 空軍所属の落下傘部隊をひきいたクルト・シュタイナ中佐は、生き残った部下とともに、東部戦線から列車で移動中、ユダヤ人を乗せた貨車とでくわす。そこで、逃走する女をひとり助けてしまった。劇的なシーンではあった。それがために、懲罰的な配属を受けることになる。

 ところが、脇役らの人物描写が、じつはもっとも味わい深い。

 なかんづくナツィス・ドイツ側に加担し、率先して工作にかかわる協力者たちだ。大英帝国の植民地政策に翻弄された過去を背負っている。単純なナショナリズム観とは一線を画すごとき説明で、動因として説得力がある。

 たとえば、リーアム・デヴリンは、アイルランド共和軍IRA)の兵士たるアイルランド人。また、ハーヴィ・プレストンは、捕虜からSS義勇部隊・イギリス自由軍に転じた元英軍士官……といったぐあい。

「どうも奇妙だな。ミスタ・デヴリン、あなたは明らかにわれわれを憎悪しておられるが、わたしは、あなたの憎悪の対象はイギリス人だと思っていた」
「イギリス人?」デヴリンが笑った。「そう、イギリス人は好きではないが、彼らは継母みたいなものなのだ。少々のことは目をつぶらなければならない相手だ。ちがう、わたしはイギリス人を憎悪していない──わたしが憎んでいるのは大英帝国なのだ」
「だから、あなたはアイルランドの自由独立をもとめている」
「そのとおり」デヴリンが勝手にロシア煙草を一本とった。
「それでは、その目的を達成するのにもっとも望ましいことは、ドイツが今度の戦争に勝つことだ、という考え方に同意しますか?」
「そのうちに、豚が空を飛ぶ時代がくるかもしれないが、わたしはドイツが勝つとは思わない」
「それなら、なぜベルリンにとどまっているのですか?」
「選択の余地があるとは、知らなかったな」
「しかし、あるのだ、ミスタ・デヴリン」ラードルが穏やかな口調でいった。「わたしの依頼をうけて、イギリスへ行くことができる」
デヴリンが驚愕して、皿のような目でラードルを見つめていた。珍しく、思うように言葉が出なかった。「おお神様、この男は狂人だ」

  ──ジャック・ヒギンズ、菊池光訳『鷲は舞い降りた』124f.

 ある人物における憎しみの対象とは、他人が臆見で推しはかれるほど単純なものではないことが暗示されている。

 とはいえ、さらに誰よりも好例となるのは、ジョウアナ・グレイかもしれない。チャーチル襲撃の地と計画されたイングランドの架空の村、スタドリ・コンスタブルに暮らし、潜入してきた工作員に便宜を図るミステリアスな年配女性だった。

 これが、旧い映画版では説明が省略されていたもので、ともすると、都合のよい場所に都合のよい人材がいるもんだな、との感を観客に抱かせてしまう。ところが、じつはこの女性は南ア・オレンジ自由国に生まれたオランダ系移民二世であって、英国に散々な目に遭わされてきた。このような半生があらかじめ詳しく明かされていればこそ、読者には納得のゆく物語たりうる。

 ひるがえって、今般のプーチンの侵攻によって、ウクライナナショナリズムは完成を見たというふうにもいわれる。ソ連崩壊後もロシアとの隔たりをとりたてて感じることなく、これまでアイデンティティの確定をやや保留ぎみにしていた人びとも、母語のいかんにかかわらず、ウクライナへの帰属意識をつよく確信するにいたった、という説明である。

 真の国民国家とは、漠然とした敵のイメージよりも、試練と怨嗟とによって決定的に生じるといえる。戦争とは、その最たる舞台でもある。そしてこれがまた、ジャック・ヒギンズの慧眼と凄みを思い出させる。だが、「世界大戦」の実体験のあるあの世代にとって、そんなことは自明の理だったに違いない。

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ct24.ceskatelevize.cz

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婆やにでも言ってろ──荒唐無稽のファシズム

photo by Николай Иванов

 ロシア軍によるウクライナへの侵攻開始からはや、三か月が経とうとしている。

 屋外ではすでに蒲公英が、さわやかな風に綿毛を飛ばしている。戦争が始まったときは、まだ雪すら舞っていたのに。現地の天候にしろ、戦況にしろ、はたまたロシア国内の情勢にしても、Twitterで知ることが多い。ロシアをめぐる各国の外交ニュースも……

バブーシュカファシズム

 ロシア連邦のラヴロフ外相がでたらめの言葉を並べるたび、思い出すフレーズがある。

 «расскажи это своей бабушке»

 ──「誰がそんなことを信じるものか,嘘をつけ」と、辞書には訳がある(『プログレッシブ_ロシア語辞典』)。

 しかしながら、直訳風にしたほうがニュアンスがよくつたわる。すなわち、

 ──「お前は自分ちのばあちゃんにでも言ってろ!

 もとより日本語には「荒唐無稽」という便利な四字熟語もあったはずだが。ともかくラヴロフに言ってやりたい。

……いや、実のところラヴロフは本当に「ばあさん」たちに向かってしゃべっているのだ。

 

 ヴラヂミール・プーチンの統治体制を指して「バブーシュカファシズム」だと喝破したのは、カミル・ガレエフだ。さいきんTwitterで注目を集めている研究者で、ウクライナ戦争勃発と相前後して、歴史社会学的な観点から興味深い仮説を多数、スレッドとして投稿している。

 バーブシュカ(英語ではアクセントの位置が変わるのか「バブーシュカ」)とは、「祖母」ないし「年配の女性」を意味する。要するに「お婆さん」だ。プーチンを熱烈に支持しつづけているのは、戦地に赴くこともなくソ連時代のノスタルジーに耽る、この層だというのだ。

 つまり、あのラヴロフのでたらめな声明の数かずも、ロシア国内政治にとっては重要なプロパガンダの一環であり、それによってプーチン政権は支えられているわけだ。

 

スキゾファシズム

 ところで、おなじ「ファシズム」でもプーチニズムとは「『スキゾファシズム』とでも呼ぶべき新種のファシズムである」と夙に診断していたのは、史家のティモシー・スナイダーだった。

 とくに、ユーラシア主義的イデオローグのアレクサンドル・ドゥーギンの言動をとりあげ、「実際のファシストが相手を『ファシスト』と呼び、ホロコーストユダヤ人のせいにし、第二次世界大戦をさらなる暴力の論拠とした」ことを指している。スキゾ(分裂病)的だというのである。

 2018年の『自由なき世界──フェイクデモクラシーと新たなファシズム』が問題の書で、不気味な「予言の書」だった。

 タイトルはハイエクの書『隷属への道』を暗示しているという指摘もあったが、エーリヒ・フロム『自由からの逃走』も思い出された。いずれにせよ、プーチンヒトラーの面影が重なるのだ。

 そのくらい暗澹たる世界観に覆われているのが、今のロシア社会であるようだ。この数十年は、闇夜への助走としての歴史だった。六つの章はそれぞれ、二者択一の文言をもつ──1. 個人主義全体主義か、2. 継承か破綻か、3. 統合か帝国か、4. 新しさか永遠か、5. 真実か嘘か、6. 平等か寡頭政治か。

 同時に、各章は、2011年から2016年までの政治史を、編年体によって叙述してもいる──

1. 全体主義思想の復活(2011年)
2. ロシアにおける民主政治の崩壊(2012年)
3. EUに対するロシアの攻撃(2013年)
4. ウクライナ革命とその後のロシアの侵攻(2014年)
5. ロシア・ヨーロッパ・アメリカにおける政治的フィクションの広がり(2015年)
6. ドナルド・トランプの当選(2016年)

 さらに、プーチニズムの国家イデオロギーについて、イヴァン・イリイン、レフ・グミリョフ、前出のアレクサンドル・ドゥーギンらをとりあげ、思想史的な概観を読者にあたえている。言い換えれば、現代ロシアの「ファシズム」を、因数分解のような手法で解説している。

 三者それぞれの思想は、教権ファシズム思想、神秘主義的ユーラシア主義、ポピュリスト的折衷主義(的ナンセンス)……と、表現しうる。そのうち、真面目に哲学的手続きの体裁をもっているようなのはイリインくらいのもので、ほかはロシアの土着の信仰を考慮しなければ、とても素面による議論とはうけとれない。

 そのイリイン(1883-1954)にしてからが、おそらくスイスでの孤独な亡命生活から遠隔地ナショナリズムをこじらせ、けっきょくは、暴力によってボルシェヴィキを打倒して「聖なるロシア」を復活させよ、という発想に至ったようにみえる。

 これが、プーチニズム・ロシアの国家イデオロギーの背骨を形成している。2014年初頭には、このイリインの著作が全公務員に配布されたというから、『毛語録』のようなものか。

 無垢なるロシアはあくまで無実なのであり、そのロシアに歯向かう者はすべて闇の存在、すなわちファシストだ──というのがロシア官憲の論理なのだった。

 このスナイダーによる警世の作も、刊行後しばらくは批判的な書評ばかりが目についた。ところが、2月24日のウクライナ侵攻開始後は、そうした評者の幾人もが沈黙している。

 無理もない。世界は変わってしまった。見直しを迫られているのは、なにも核抑止戦略だけではないのだった。多くの分野の専門家が、米ソ冷戦後の30年間の長期休暇が急に終了したのと同時に、わすれていた大量の宿題を見つけてしまったかのようだ。

 今かんがえると、リベラル寄りのメディアほど辛辣に批評していた記憶もあるが、ひょっとすると一部はプーチンのシンパによるポジション・トークだったのではと疑いたくもなる。それも、この書を一瞥すれば、あり得ないことでもないとわかってもらえる。なにしろ、英国の欧州連合離脱やドナルド・トランプ当選などなど、毎年の政治日程の要点とそれをつなぐ線は、プーチンの思惑に沿って描かれてきているように見える。西側の分断、弱体化を図った工作というわけだ。それも、今もって余波がおさまりきっていない。

 この4月3日のハンガリーの選挙では、オルバーン・ヴィクトル率いるフィデスがまたぞろ勝ってしまった。さっそくプーチン・ロシアの意向に沿うような姿勢が報じられている。だが、北大西洋条約機構NATO)加盟国である以上、これまで通りというわけにもゆくまいが。

 いっぽう同月24日に決選投票となった、フランス大統領選挙におけるマリーヌ・ル・ペンは、現職のエマニュエル・マクロンによって当選を阻まれた。びみょうに「極右色」を薄め、前回選挙より支持率を伸ばしたとはいえ、有権者の脳裡にプーチンの影がちらついたものか、決選投票で敗れた。

 また、やはり件の『自由なき世界』にもちらと名前が出てきた、チェコ共和国大統領のミロシュ・ゼマンは、とりわけ2013年の選挙でロシア企業から資金援助を得て以来、はっきりと親ロシア政策をとってきた。しかし、2月の侵攻以後は、ロシアを非難する側に転じた。なんといっても、同国でファシスト的極右ポピュリスト政党を率いるトミオ・オカムラですら、もはや方針転換を迫られたのだ。プーチンを称揚するようなコメントを発した候補予定者を、先日あわてて除名処分にしたほどだった。

 要するに、「欧州懐疑派」の政治家らはめいめい、国の世論にあわせて軌道修正を余儀なくされた。ぎゃくに言えば、スナイダーが指摘してきたような事柄が、これまでは一般の有権者には真剣に受けとられてこなかったということに、やはりなるのではないか。本格的戦争の勃発は、幸か不幸か、スナイダーの的確さを証明してしまった。

 

プーチニズム=ファシズム否定論

 たほう、プーチニズムを「ファシズム」と捉えるべきではないとする見解もまた、以前から存在する。そもそも史家らよりも、法則定立型の学問たる政治学や政治社会学といった分野に近くなればなるほど、こうした分類や定義や概念化に熱心になるのは自然であろう。

 さいきん出来して、そのタイミングもふくめて話題になっているのが、マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』だが、これは残念ながらまだ入手すらできていない。ただ、原題が_IS RUSSIA FASCIST?_だということもあって、主張は明白であるように思える。

 その点、マルセル・H・ファン・ヘルペンによる『プーチニズム』(_Putinism: The Slow Rise of a Radical Right Regime in Russia_, Basingstoke, 2013)では、プーチン体制をムッソリーニ政権・ヒトラー政権と具体的に比較していた。

 結果、きわめて類似性が高いものの、ファシズムにはあたらない……というふうな歯切れの悪い結論になっている。

 11の相違点として挙げらているのは、1. 指導者の輩出の仕方、2. 党の役割、3. 与党の「中道」的自己イメージ、4.ロシアの政党に私兵が存在しないこと、5. ロシアにおける公式な反ファシスト国家イデオロギーの不在、6. ロシアに国家による人種差別がないこと、7. ロシアには全体主義がない、8. ロシア国家と教会の共存関係、9. ロシアにおけるパワーエリートの性格、10. マフィアの役割、11. 多元的な民主主義的外観の維持。

 しかし、社会科学的な手法というのは、部分によってはいかにも形式的で表層的な分析に見えないこともない。すると、こうした議論はけっきょく、ファシズムの定義の仕方におおきく依存した結論になってしまうようにも思える。

 たとえば、8番目にある、クレムリンロシア正教会との関係は一種独特である、とするくだり。大統領と教会との「癒着」とも言うべき関係を念頭に置く一方、「ドイツの国民社会主義もイタリアのファシズムも、本質的には反宗教的、反教理主義的な体制であった。キリスト教を否定し、代わりに世俗的な疑似宗教を催した」と、ヘルペンはしている。1929年のローマ教皇庁とのラテラン協定にみられるような協力もありはしたが、基本的にファシスト体制とキリスト教会とのあいだには「明確な競争が存在」したというのである。

 だが一例として、戦間期のスロヴァキア国を教権ファシズム体制と捉えて、独伊政権とともに比較対象に含めたならどうなるか、と問いたい。カトリック政党たるフリンカ人民党とヨゼフ・ティソという聖職者みずからが、権威主義政権を掌握していたのだから、ヘルペンのいう聖俗間の「明確な競争」という点に疑問符がつく。カトリシズムとファシズムの混淆の記憶が、現在にいたっても隣のチェコ共和国の住民をして宗教への不信を抱かしめつづけているという論もあるほどだ。

 それどころか現在の視角からは、5番目の反ファシストイデオロギーの不在とか、6番目の国家による人種差別がないなどとはよく言えたものだ、というふうにプーチニズムは映りもする。

 ひょっとしたら、著者は例の「婆さんらにたいする荒唐無稽の言辞」を鵜呑みにしているのではあるまいか、とすら思えてくる。──しかし、10年近くまえの、つまりクリミア併合以前の研究であればこそ、むやみに責めるわけにもいかない気もするのだ。世界が変わってしまう前の所見にすぎぬのだから。

 

www.bbc.com

 

*追記(2022年5月19日)

スナイダー曰く「ロシアはファシストだ、と言うべき」「ファシズムに対する恐怖を、ヒトラーホロコーストのようなある種のイメージに限定してしまうのは誤りである」(『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿記事):

www.nytimes.com

 

史劇におけるヨーゼフ2世

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 プーチンの為人が、急に注目されるようになった。それについての記事も急激にふえたが、読んでいるうちに「デプリヴァント」の概念を思い起こさせた。

 それは最近、ヨーゼフ2世の人物像を造形するうえで、脚本家のミルカ・ズラトニーコヴァーが採用したものだった。

1)大河ドラマ『マリア・テレーズィア』の最終話

 『マリア・テレーズィア』について、チェコ共和国の公共放送局(ČT)に送り出され、オーストリアの公共放送(ORF)に脚本を持ち込んだら、先方に気に入られて企画がすすんだ……というサクセス・ストーリーは、脚本家本人がインタヴューで語っていたものだ。そこにスロヴァキア、ハンガリーが加わっての合作で、それぞれの言語に吹き替えられ、2018年から各国で放映されている(IMDb)。

 この2022年の正月には、最終話となる第5話が放送された(但し、このパートの制作国にかんして、ČTのサイトでは"Rakousko, Česko, Německo"となっており、いっぽうORFでは"Österreich, Tschechien, Slowakei"となっている)。

 マリア・テレーズィアを「わが国を治めた最後の女性統治者」と、脚本のミルカ・ズラトニーコヴァーは評している。女性大統領はおろか、女性首相もまだ出ていない祖国・チェコ共和国の政治を、周辺各国と比較して憂いているわけだ。

 問題意識としてジェンダー論から出発しているところが、やはり今風のインテリ的だ。つまり、旧弊な「民族の物語」ではなく「女性の物語」を構想した。国境に幾万もの敵が迫るなか、少女はひとりの女性として生き、やがて帝国を背負う……。

 そこに、各話で異なった敵役による「男の物語」が交差する。

 今回は最終話というくらいで、女帝の晩年が扱われた。息子であり、共同統治を布くことになる皇帝、ヨーゼフ2世との葛藤がひとつの軸になったことは言うまでもない。というより、女帝の最大の関心事であるヨーゼフが主人公に見えなくもなかった。

 そのヨーゼフの内心の葛藤というのは、背景として反りが合わない母后とのやりとりに重きがおかれはするが、それのみならず、御曹司のフラストレーションが宮廷生活の全般と数奇な運命に由来するように描かれていた。

 ただし、ひとつの史劇ではあるものの、本質はホームドラマである。──キャリアウーマンが国政という場で男社会に立ち向かうコンセプトで、最終話には息子という「敵」が出てくる。戦場は宮廷である。ところが、宮廷と国家が十全に分離していない時代だ。家庭のなかに政治が土足であがってくる。しかも、当時の政治、とりわけ帝国にとっての外交とは即ち婚姻政策のことであって、男だけの社会というわけでもない。……NHK大河ドラマになじんだ日本人には、あらためて説明することでもないかもしれない。

 それだから、映像としては如何せん、政略結婚と子づくり関係の挿話が多くなる。やはり王侯貴族ともなると、お世継ぎ問題がのべつ脳中を占めているらしく、この手の宮廷物のお定まりではある。

 「全欧の姑」というキャッチ・コピーも、脚本家に言わせれば「自身は恋愛結婚したくせに、子どもたちには無慈悲にも政略結婚を強いた」女君主の帰結である。最終話も冒頭から、ヨーロッパの地図をまえにしたマリア・テレーズィアが、婚姻計画をめぐって持論を展開する。子どもたちを性質や能力で格付けし、外交政策上の駒のごとくあつかう物言いに、最愛の夫であり皇帝でもあるフランツ1世がたしなめる──われらが子どもたちを愛していないのか。女帝の応答は、おおよそこうである──もちろん子どもは可愛いが、国家経営こそ第一なのだ。


2)待望の息子・ヨーゼフ

 長男のヨーゼフとて例にもれない。流行りの啓蒙主義にうつつをぬかす、この跡取り息子にたいし、女帝はとりわけ厳しく接した。国のためである。だが同時に、ヨーゼフは家にとって待ち望まれた寵児でもあった。男児に恵まれなかったカール6世が生前、女子に家督をゆずる際の艱難辛苦をおもえば、その崩御の翌年にうまれたヨーゼフに特別な期待がかけられたのも、無理はなかった。けだし、ヨーゼフに発達心理上のダブルバインドが生じうる状況はあった。

 さらに、往時の医療水準も正直にえがかれる。幼児死亡率が高い。せっかく子が産まれてもすぐに亡くなってしまう。その点では、まだ中世からさして変わっていなかった。くわえて天然痘の凶暴さも、コロナを踏まえると時宜を得た背景描写となった。やんごとなき人びとにも容赦なく死が襲いかかる。

 ヨーゼフと最初の妃・パルマ公女イサベラとの第一子は、8歳で亡くなっている。第二女の生命はさらに儚く、生後すぐに亡くなった。そのうえ、まもなくイサベラ自身も伝染病に斃れるのである。ヨーゼフはそのとき22歳。ローマ=ドイツ王、そして皇帝に即位する前史である。

 こうした境遇のすべてが、潔癖な性格を形成し、のちの急進的な諸改革の断行に結実する……と、そういう脚本家の解釈だったと、こちらは受けとったわけだ。


3)「デプリヴァント」

 しかしながら、ほんらいの作家の意図は微妙に異なっていたようだ。メディアのインタヴューやSNSによれば、ズラトニーコヴァーはもっと極端な解釈で描いたようなことを言っている。ヨーゼフを「諸国民の父」としてではなく、「デプリヴァント」として描かざるを得なかったと告白しているのだ。

 「デプリヴァント」というのは、神経病理学者のフランチシェク・コウコリークによる用語である。1990年代の著作で提出された。遺伝的な前提もあるにせよ、高い知性と教養とをもった人物が環境の犠牲になった末に発症するもので、感情が正常に機能しなくなるか、もしくは失ってしまうという。観察者の目には、その振る舞いはあたかも「モンスター」であるかのような非情なものに映る。著者は、育児放棄に遭った子どもなどが典型で、SS長官のハインリヒ・ヒムラーソ連のラヴレンチイ・パーヴロヴィチ・ベリヤを具体例として挙げている。要は、ソシオパスやサイコパスといった反社会的パーソナリティ障害を、地域の実情をふまえて包括的に捉えた概念であった(František Koukolík, Jana Drtilová, _Vzpoura deprivantů: nestvůry, nástroje, obrana_, Praha, 2011)。

 にも拘わらず、その脚本家の意図とは裏腹に、画面のヨーゼフは、ソシオパスにもサイコパスにも見えなかった。

 俳優アーロン・フリースの繊細で神経質そうな演技は、精神的な病質というよりも、傷ついた小鳥のような存在としてヨーゼフを表現していたようにみえた。感情を失うどころか、むしろ激情でもって神や運命に牙を剝くような、線は細いながらも復讐の鬼だ。それでも、亡父の遺志を知ったのちは、それを継ぐべく、とりわけ熱心に政治に取り組んだ。つまり、すぐれた才覚によって悠々と他人を魅了したり、操作して陥れるという、サイコパスの典型のような描き方ではなかった。

 要因にかんしては、妃の喪失によって人格が変わってしまった──という描写にみえた。つまり、イサベラの死を受け容れることができずにいる苦悩を、脚本は重く評価していたようだ。しかも、それも一時的なもので、国政に力を入れる時期になると、すっかり穏やかな顔になっている。仕事に向かうまえの早朝に、肺を患った最晩年の母后を見舞うなど、サイコパスらしからぬ思いやりまで見せた。思いやる振り、だったのかもしれないが。

 ある伝記の記述は、妃の死で性格が変わってしまったというより、むしろ「三つ子の魂百まで」を強調するふうである。「ヨーゼフは幼少期からすでに、その特権的地位にかかわる性質、つまり過剰な自信と仲間にたいする感受性の欠如を、死ぬまで捨て去ることができなかった」とある。きょうだいのうちでも、将来の帝位継承者として特別な存在であり、母親らの教育にもまた特別なものがあった。あるプロイセン使節が見たところでは「高慢で屈託がなく、怠惰な性格」と伝えられている(Humbert Fink, _Joseph II. Kaiser, König und Reformer_, Düsseldorf-Wien-New York 1990)。いずれにせよ、どちらか一方だけの説明では説得力に欠けそうだ。

 ところで、銀幕のヨーゼフ帝といえば、ミロシュ・フォルマン監督の映画『アマデウス』が思い浮かぶ。そしてサイコパスといえば、この「アマデウス版のヨーゼフ」のほうがむしろ該当しそうに思える。演じ手のジェフリー・ジョウンズの飄々とした演技によって、陽気な変わり者というふうに見えたが、サイコパスは周囲の目に魅力的な人物に映る、というのが精神医学のつたえるところだ。

 すくなくとも、フォルマンの解釈によれば、繊細な神経症者というよりは、エキセントリックな性質に重きがおかれたことになる。穏当すぎる見方かもしれないが、それはそれで、同時代の常識にとらわれなかった諸改革とも整合性があるように感じるわけだ。

 つい、現代史よりもやや過度に、政策に人物像が反映されているように見てしまいがちになる。けれど、往時の後進的な国情をふまえれば、正常な情勢判断に基づいたものであったと史家には評価される。母子の諸改革が不可欠かつ合理的なものだったことは間違いないようだ。マリア・テレーズィアとヨーゼフ2世の政策の背景や意図、社会的なインパクトについては、たとえば、山之内克子『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社、2003)や、同『ハプスブルクの文化革命』(講談社、2005)がわかりやすく、かつ面白い。


4)史劇を脚色する匙

 ところで、歴史の本を読んでいると眠くなる、と言ったひとがあった。そういうものかもしれない。問題意識をもって読むひとだけが、眠らずに読み通す。そうでなければ、かつて学校で古文の授業がそうだったように、古いだけで脈絡のない文章の抜粋を無理やり読まされるのとおなじことだ。

 だから脚本家は、史実を編集ないし改変したり、誇張したりして、文字どおり歴史を劇的にする。それによって、無味乾燥のテクストに娯楽としての特性をあたえる。客を眠らせないように。

 その歴史のアレンジ具合を、観客や視聴者は味わう。そもそもがバロック的な趣味なのだ。そのさい、制作側が適切な匙加減でもって調理してくれないと、いただけない料理になってしまう。

 では、映像作品としての『マリア・テレーズィア』は、全体的にどのくらいの匙の加減であったのか。といっても、なかなか例を抽出するのもむずかしいが……。

 最終話であれば、おそらく最大の脚色は、パルマ公女イサベラをめぐる秘密にちがいない。けれども、推理もので殺人犯を明かすような最大のネタバレになりそうなので、止しておく。が、すくなくとも、まったく根拠がないこととも言えない性質のものだった。つまり妥当な脚色だった。

 かわりに、フランツ1世の崩御の場面などはどうであろう。女帝の夫にしてヨーゼフの父である。

 ──皇帝一家は、ティロールの都インスブルックに到着したところであった。日差しまばゆい夏の日、ヨーゼフの弟にあたるレーオポルトの結婚式のためである。そこで白昼、歓迎のために集まった衆人みまもるなか、様子のおかしいフランツ1世は馬車から降りてすぐ、転倒するのである。そして、息子ヨーゼフの腕のなかで息をひきとる──劇的なシーンだ。

 ところが、伝記によれば、フランツ帝はこの日の晩、喜劇の上演を堪能して自室にひきあげる途中、廊下で倒れたことになっている。ヨーゼフも駆け寄ったが、すぐに部屋に搬送されて、医師や司祭の施療をうけるも、その甲斐なく絶命したというのである。

 しかし、どちらが優れた画になるかといえば、おそらくは前者における「白昼の死」であろう。演劇学の理論では、木下順二が「劇的状況」と訳したところのものであるが、チェコ語では「ドラマティツカー・スィトゥアツェ」という。この連なりによってのみ劇作品は成立させることができる。むろん、映像としては「いい画」が必要となることは言うまでもない。

 したがって、この程度の脚色は赦してもらえなければどうしようもないし、またそれは今作では成功しているように見えた。反面「デプリヴァント」については、プーチンくらいの役者でもないかぎり不自然になるかもしれぬ、大きすぎる「匙」であった。が、前述したように、さいわい画面には反映されなかったようにみえた。

 そもそも、監督のローベルト・ドルンハイムも「真偽よりも芸術的表現を優先した」と言っている。それを「史実と異なっている」「司馬シカンだ」などと野次るのは勝手であるが。この手のコメントが、Amazonのレヴュー欄によくみられるのも確かだ。もちろん、いろいろな背景や意図があるのだろう。某国のプロパガンダだなどと言い掛かりをつけるのは典型だ。ただ、政治的に問題もない脚色をむやみに指弾するするのは、野暮なだけだ。

 要するに、虚構の世界ではあるにせよ、じゅうぶんあり得るヨーゼフ像が提示された作品だった。それだから、母后の亡きあともヨーゼフ帝の行く末を追って眺めていたかったが、終幕となってしまった。マリア・テレーズィアが主役の物語なのだから、それは当然だった。

 

アマデウス(字幕版)

アマデウス(字幕版)

  • F・マーリー・エイブラハム
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イラーセク史観?

アロイス・イラーセク博物館の開館式典の様子(1951年)。中央にイラーセク、左右にクレメント・ゴットヴァルト(ゴドヴァルト)とヨシフ・スターリンの肖像が掲げられている。

 ことしの3月13日は、ヨーゼフ2世の生誕281周年にあたっており、前日の3月12日は、アロイス・イラーセクが没してから92周年ということになっていた。それぞれ、皇帝と劇作家というふたりであったが……

1)脚本家の罵倒

 ミルカ・ズラトニーコヴァーが脚本を担当した『マリア・テレーズィア』は、出色の映像作品だった。2018年から5年にわたって、まいとし1話づつ公開されてきたものであったから、しょうじき過去の放送回についてはよく覚えていない。──そのうち、Amazonプライムでも観られるようになるだろうか。

 このズラトニーコヴァーというのが、ある新聞記事のなかで「イラーセクは政治を芸術に優越させ、民族をヒューマニズムの上においた民族主義者で、歴史歪曲の巨匠だ」と批難していたのが、いまだに思い出される。

 発言の大意には同意するが──しかし、そう言われると「そこまでおっしゃる以上は、さぞ上手に歴史をお描きになるはず」と、むしろズラトニーコヴァーの作品のほうを注視したくなる。

 とはいえ、イラーセクをめぐる状況については、補足が必要かもしれないと思ったので、先に書くことにした。膨大な作品のうち邦訳されたのはわずかで、つまり紹介がすすんでおらず、とくに負の側面はあまりしられていないと思われる。

 アロイス・イラーセク(1851-1930)は、中世のフス派に感情移入した、ボヘミアにおける民族派の作家であった。その作品群は、いわゆる「民族復興」運動の文学と歴史小説の集大成と目される。文学事典の項目を、ビロード革命の前と後に刊行されたものをくらべてみると面白いが、いずれにせよ、文学史的には歴史リアリズム小説を確立した書き手と評価されている。

 現時点ではチェコ共和国でも、中等教育での義務的な課題図書ではなくなり、選択肢のひとつとなっているそうだ。たまたま手もとにある読本では、長大な虚構の年代記をくりひろげることを好んだため、今日では時間的に難がある、などと率直に紹介されている(Jaroslav Pech, _Čítanka pro střední školy_, Praha, 1997)。

 つづいて同書では、未完の長編『フス派の王』がとりあげられる。信仰を守るためにローマ教皇に抗するフス派の王・ポディェブラディのイジーの物語である。そこで引用されているのは、ボヘミア王国最初期の医師で、中世大学の教授でもあり、なにより熱心なカトリック信徒であったジデクが、「黒蟇亭」のビアホールで激昂して学生たちと口論に至った場面だ。どうしてこのシーンが抜粋されているのか。おそらく、作品のもつ臨場感を生徒に伝える意図からではないか。

 同時代の辛口の文学史家すら、イラーセクの筆致については称賛せざるをえなかった。「この作家が、自身の登場人物たちや光景や情景を、もともとは図書館の埃のなか、博物館の日蔭のうちで脳裡に描き出したことを、それに反宗教改革の思潮の極致をゆっくりとした分析の過程で導き出したことを、われわれは残念ながら忘れてしまう──」(アルネ・ノヴァーク)。それくらい、まるで見てきたかのように、歴史のひと齣を活写するのだった。


2)シバシカン?

 そうした作風から、連想する作家がある。司馬遼太郎だ。そこで、適当かどうかわからないが、比喩をもちいることにした。創作と歴史との関連で思いあたったのが、いわゆる「司馬史観」である。

 長篇『坂の上の雲』は、とりわけ「史観」を体現しているといわれる。十年以上が経過したとはいえ、NHKの映像化作品がまだ記憶にあたらしい。阿部寛本木雅弘が演じた秋山兄弟が見もので、鬼気迫る正岡子規役は香川照之だった。海戦シーンのCGだけは、ちょっとプレステみたいだったけれど。のちの昭和の敗戦を念頭に、明治の日本で発奮する偉人たちのロマンを娯しみとすることに、なんら問題はないはずだ。

 問題があるとすればむしろ、フィクションと歴史とを混同させる批評家らのほうではないか。「史観」といったって、相手は小説家だ。フィッシャー論争なんかとはちがう。

 とはいえ、司馬も学界に意見するようになったあたりから、反撃されてもしかたがない情勢になったようだ。しかも、大仰に「史観」呼ばわりされるほど、司馬の筆は冴えていた。また『坂の上の雲』は、単行本の売上部数が2千万部をこえたというから、なおさらだった。たぶん、当時の社会的な人気が、もはや政治的にも無視できず、産経出身の作家が書いた新聞小説に批評家連もだまっていられなかった──そうだとすると、「史観」というレッテルじたいが、洗練された左右の論客が活躍していた時代の徒花だった。現代ならきっと「司馬はネトウヨ」くらいが関の山かもしれない。

 ともかく、えてして大衆の空想する「歴史」とポピュリスト政治家(プーチン含む)が放言する「歴史」はほぼ同じものであろうが、史家のそれとは異なっている。内心の自由とはいえ、それが虚構の世界であることもまた覚えておいたほうがいい。


3)フィクションの政治利用

 娯楽作品をつうじて大衆に「史観」を植えつけたのがわるいというのであれば、かつてのオーストリア帝国の作家、件のイラーセクをめぐっては、さらにたちの悪い状況がある。

 すぐれた物語作家であったにはちがいないとしても、自身も政治運動に加わっていた。チェコスロヴァキア成立後には、議員にもなった。つまり、作品内容以外についても後世の評価を受けることは免れない。

 しかも、橋梁や道路や公共施設の名が冠されなどして「神格化」され、個人崇拝の対象となっていった。死の翌日には、軍に作家の氏名をおびた部隊までできた──第三十歩兵アロイス・イラーセク連隊。デレク・セイヤーによる文化史でもページが割かれていたが、チェコスロヴァキア第一共和政は、学校教育にも「市民教科」が採り入れられるなどして「歴史の民族化」が急速にすすんだ時期ではあった。

 ここまではしかし、降ってわいた独立の熱狂と、急ごしらえの国家で国民統合の緊要にせまられた成り行きとも解される。

 ところが戦後、チェコスロヴァキアが共産化されてのちには、作品が国民教化の具に利用された。クレメント・ゴットヴァルト大統領らによって、イラーセク作品の普及が国家事業として推進されたのだ。

 同政権で、労働・社会啓蒙大臣などを歴任したイデオローグに、ズデニェク・ネイェドリーがいる。イラーセクの作品についても「改稿」と理論的な再解釈を担当した。ブルジョワ出版社による「改竄」を修正し、古典をふたたび人民の手に取り戻す、というのだった。そこでは、イラーセクの文学が「文芸的フィクションではなく、歴史的現実」とされた。

 物理的には、〈民族への伝言〉と銘打たれた叢書という体裁で、イラーセクの代表作『ボヘミアのふるい説話Staré pověsti české(邦訳既刊:『チェコの伝説と歴史』)』が、安価で大量に供給された。学校では講読が義務づけられ、図書館や書店や家庭にあふれるに及んで、共産党にとってイデオロギー的に好ましくない作品を書棚から駆逐することにも成功したといわれる。

 共産党政権がみずからの正統性を印象づけるための「経典」のごときものであった。チェコスロヴァキア共産党は、イラーセクの描くフス派につらなる正統かつ正当な統治者であり、ゴットヴァルトはイラーセクの遺産をいわば「正史」として国民にとりもどした英雄、というわけである。そもそも、共産党が奉じる単純な進歩史観とも相性がよかった。

 15世紀のフス派から延々と民族運動がつづいてきた──という妄想は、象徴的には「イラーセク史観」と呼んでもいいかもしれないが、フランチシェク・パラツキーらの歴史にもとづき、それを独自に発展させたものとされる。さらに、民族派の好んだカヴァー・ストーリーはつづく──17世紀、白山の戦いに敗れたチェスキー民族は、のち何百年にもわたってドイツ人の圧迫を耐え忍び、ついに独立を果たす……。

 19世紀後半の民族主義の傾向にかんして、また別の社会学者の言を借りれば「事実を単純化し、ネイションなどという近代的な概念を、歴史的にとおく隔たった時代に投影することがかなりあった」(Zdeněk L. Suda)。とはいえ、当時のロマン主義者は、どこでも似たようなものだった。民族が時代をこえて実在することを前提とし、あたかもひとりの人物として擬人化したような「神話」のあらすじである。

 日本語の旅行ガイドブックでは、たいていこの手の「神話」が、あたかも自明の真理のように書いてある。極限まで単純化され、歴史というよりも『ゴジラ対メスゴリラ』といった風情である。

 こうした「擬人化民族譚」を読み込んできた向きがプラハなどへ旅に出て、ストーリーに合致した説明を現地の史跡で受ける。それはそれで楽しいことだ。観光旅行としては満点だ。何百年も生きる怪獣たちの活躍にぞんぶん喝采をおくればよい。だが、はるばる日本からもっていった空想的な誤解を補強するだけの旅におわる。

 今日のチェコ共和国でも、アカデミックな業界や知識人をのぞけば、おおくの一般大衆が素朴に「神話」を信じていてもおかしくはない。津田左右吉より前の古事記日本書紀などを思い浮かべればわかりやすい。今では、神武天皇が実在したと信じている者はほとんどないが。けっきょくはヒトラーいうところの「アーリア人」も、この手の架空の存在だった。プーチンが説く「ロシア人」も、ロシア帝国主義の遺風に連なる「神話」ということになる。

 つまるところ、近代国民国家には「神話」が必要なのだというなら、そうなのだろう。あるいは、プラグマティストのマサリクにしても、そういう真意だったのかもしれない。実証史学の立場からヨゼフ・ペカシュらはそれとは妥協できず、論争を巻き起こした。現実政治と机上の学問がぶつかったのだとしたら、結果は平行線に決まっている。さしづめ「怪獣レアルポリティーク対ピュア・サイエンス」だ。


4)歴史と虚構と政治

 そこで「明るい明治」を「暗い昭和」に対置したと責められた司馬になぞらえれば、やはり象徴的に「イラーセク史観」と呼びたくなるのである。ちょうど、イラーセクら民族派バロック期を「テムノ(暗黒時代)」と呼んだものだった。

 また自らを好んで「小さな民族」と称したことも、『坂の上の雲』の濫觴にある「まことに小さな国」と相似形を成している。──というのも、両者は歴史叙述というよりも、物語を盛り上げるためのレトリックであるから、似ていても不思議はないのだ。小さなダビデが大きなゴリアテを倒して以来、好まれてきた物語の雛形であろう。

 いずれにせよ、われら情報化時代の現生人類は、創作と歴史とを区別できるし、それらの政治的な利用についても鼻が効くようになっている……と信じたい。が、そう簡単でもない。今回のプーチン牽強付会にたいしても、いくつもの歴史研究者の団体が声明を出して「歴史」の濫用を批難している。

 他方では、フィクションを書いたり読んだりする愉しみも保障されてしかるべきだ。それは国家によって「必読」とされる性質のものではあり得ない。共産チェコスロヴァキアのような社会が「明るい」と思うひとがあるだろうか。

 むろんイラーセク本人への批判の声もある。それも「民族運動に民話を利用した」くらいなら、まだ手ぬるいほうだ。冒頭のミルカ・ズラトニーコヴァーの謂いは、批判というより罵倒にもちかい。実作家としての心情から出たものであろうが、すくなくとも批評家や研究者の視角をももっている書き手とはいえそうだ。

──つづく。

 

 

プーチニズムとチェコ共和国

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photo by Nati Melnychuk

 現代ロシアの統治体制を指して、プーチニズムなる術語も出来して久しい。定義によっては、スターリニズムとの類比もあるのかもしれないが、このところのプーチン大統領といえば、スターリンよりも、むしろヒトラーと対比されるのがもっぱら、という印象がある。

 今般のウクライナへの侵攻も、8年前のクリミア併合と同様に、1930年代のアンシュルス(独墺合邦)とか、ズデーテンとか、ミュンヒェン会談とかの比喩を通して語られたものだった。つまり──

 いっぽ間違えば、わが国もウクライナのように……

 ──と、一様に肝を冷やしたのは、チェコ共和国の住民たちであった。

 

1)ペトル・フィアラ政権

 ロシア軍が侵攻を開始した24日、チェコ共和国の公共放送(ČRo)が公表した世論調査によると、同国では87%の住民が、この戦争をロシアによる「不当な侵略行為」であると見ている。

 すでに侵攻前の19日、同国のペトル・フィアラ首相は、「戦争が解決策にならぬのは周知の通りですが、浅はかな譲歩もまた然り」と述べて毅然たる態度を示しつつ、欧州の政治や安全保障におけるロシアの工作に注意をうながして、「ロシアがいかようにも影響を及ぼしうるように、わが国を分断し、ふたたび弱体化させる試みを看過するわけにはいきません」と、団結を訴えていた。

 そのさい引き合いにしたのはやはり、チェコスロヴァキアの歴史的経験で、具体的には1938年のミュンヒェン協定、1945年のヤルタ会談、1968年8月のワルシャワ条約機構軍による占領が挙げられた。

 1938年と1968年の事件は、ロシアのウクライナへの侵攻が開始された前後にひろくSNSで見られた比喩だった。が、1945年の事例だけはわかりにくいかもしれない。端的には、ヤルタに会した大国同士の手打ちによって、チェコスロヴァキアポーランドといった国ぐにがソヴィエト連邦に「売られた」と、一般には解されており、それを指している。

 いずれの事件を見ても、既視感をおぼえることだろう。だが、大きな差異として忘れてはならぬのは、われわれが核時代を生きているということである。相互確証破壊の理論は制度化されており、北大西洋条約機構NATO)という形で集団的に保障される体制が、米ソ冷戦集結後も存続してきた。

 それだからフィアラ首相は、NATO加盟国であるため安全が保障されていると、自国民の不安を宥めることも忘れなかった。──じつは本日、1999年3月12日にチェコ共和国NATOに加盟してから、ちょうど13周年を迎えた。

 中道右派のフィアラ政権は、昨2021年秋の選挙結果をうけて、つい年末に成立したばかり。親欧州連合EU)・親NATOを標榜している。

 ことし元日、首相による演説が公共放送(ČT)で放映されたが、首相の背後にはチェコ共和国旗を包み込むように、欧州旗とNATO旗が立てられていた。

 いぜんコロナ対策のロックダウンか何かのとき、前のアンドレイ・バビシュ首相が演説した際には、国旗とEU旗は、画面の端と端に離れて設置されていたものだから、対照的におもえた。──「政治の図像学」というのは、あんがい当てになる。

 また、他日には注意を喚起してもいた。「ソ連がどこまで達したか、何をもってロシアが自らの勢力圏と見做しているか……旧い地図を見れば、どれほど根本的に我われに関わっているのか、誰もが理解することでありましょう」。国民の歴史的トラウマに訴えかけたのだ。

 

2)ゼマン=バビシュ体制と東西のあいだ

 さて、ロシアのウクライナ侵攻開始後。

 親露路線を堅持してきたミロシュ・ゼマン大統領とて、さすがにこの狼藉では庇いきれぬと観念したものか、これまた中継された国民への演説のなかで、侵略を非難する仕儀となった。ただ、その際にも開口一番、「ロシアにはナツィスから解放してもらった恩義があるとはいえ……」というような言辞から始めたのは、支持層への配慮でもあったのだろう。

 たほう、前首相のアンドレイ・バビシュは、チェコスロヴァキア共産党の特権的な人脈によって財を成した、いわば「オリガルヒ」である。この表現が国内メディアであまり使われないのは、当人のメディアへの影響力のつよさを表している。政策や経歴からも、ロシアとの関係の近さも窺われるものの、さいきんでは「対露・対中政策はゼマン大統領案件で、自分は首相としては対EUを担当していた」ということを言って、視聴者を煙に巻いたものである。

 このバビシュ前首相は、フィアラ現首相が危急の時局に団結を呼びかけたにも拘わらず、党派的な政権批判をつよめている。事態は話し合いによってのみ解決を目指すべきで、対露制裁は効き目がないからやめるべき──などと主張している始末である。このタイミングでは、プーチン・ロシアを擁護していると受け止められても仕方がない。

 共産党の体制から脱したビロード革命以降、かつてのヴァーツラフ・ハヴェル大統領が掲げた国是は「ヨーロッパへの回帰」であった。すなわち、具体的な政策としては、NATOへの加入とEUへの加盟であり、最終的に「NATOおよびEUと結合したチェコ共和国としてのチェク・アイデンティティー」は成就した(文化史家デレク・セイヤーの表現)。

 ところが、昨年末までのアンドレイ・バビシュ政権は、同時期のハンガリーポーランドの「欧州懐疑派」政権と同様に、難民受け入れ拒否を掲げるなど、欧州の基本的な価値観に楯突き、のちには、とりわけ利益相反の嫌疑をめぐってEUと激しく対立した。

 対するフィアラ現首相を筆頭とした中道右派連合は、かつてのハヴェルの理想を想起させる選挙戦を展開した。NATOEUの一員としての、復活したナショナル・アイデンティティーを有権者に思い起こさせ、けっきょく昨秋の戦いを制した。

 とはいえ、これは、チェコスロヴァキアという文脈でみれば、まったく新しいアイデンティティーというわけでもない。また、この東西間での葛藤が、政治シーンに投影されるのも初めてのことでは決してない。

 たまたま、フィクションながら象徴的なせりふを見つけた。チェコスロヴァキア共産化をめぐる殺人事件をあつかった大衆小説である。エドヴァルト・ベネシュ大統領が、ヤン・マサリク外相に語りかける場面だ。

ベネシュ大統領の顔に、苦渋に満ちた表情が浮かんだ。「わたしは、つね日ごろ主張してきた。われわれチェコスロバキア人は、文化的には西ヨーロッパ人だ。この地位は、変えることはできない。なぜかというと、文化的発展というものは、そのときどきの政治形態に合わせて、上衣かなにかのように、昨日と今日は別のものといった具合に着替えることのできないものだからだ。チェコスロバキアが東ヨーロッパへつくか、西ヨーロッパへつくかという問いに対しては、答えは、ただ一つだ。チェコスロバキアは、東と西へ向く」
  ──高柳芳夫『モスクワから来たスパイ』講談社、1987年

 見方によっては、ヤルタ秘密協定によって、すでに帰趨は決していた。この1948年2月、共産党は権力を掌握する。そして、マサリク外相は変死体で発見されたのだった。

 いずれにせよ、チェコスロヴァキアおよび後継のチェコ共和国有権者は、「保守か、革新か」以上に、「西か、東か」を、毎度まいどの選挙で絶え間なく選択してきた。もちろん、社会主義時代を除いて。

 

3)プーチニズムの歴史的文脈

 こうした国において、プーチニズムというのは、きのうきょう、とつぜん湧いてきた話ではない。

 明快に解説していたのが、プラハの史家、ペトル・フラヴァーチェクだった。すなわち、プーチン大統領は「偉大なロシア」を夢想してはいるが、その侵略戦争ロシア帝国主義に由来するものである、と喝破した。

 15世紀に「タタールの軛」を脱したモスクワは、それと前後して滅したビザンツの「第二のローマ」ことコンスタンティノープルを継いで、「第三のローマ」を自認するようになる。この挿話は近代以降のロシア人をして、ある種の撰民思想を抱かしめ、西方の悪しきキリスト教徒や東洋のムスリムを征服する「運命」を正当化する意識の根拠となった。

 ロシア帝国主義の手法のひとつに、周辺部の「ロシア人の土地を収拾」するというものがあった。1721年、ピョートル大帝が国名をロシア帝国と号するや、拡大、併合、占領をつうじて勢力をひろげ、シベリアやカフカスの人びとを隷属させていった。さらに、ポーランド=リトアニアオスマンからも領土を奪い、イェカチェリーナ2世の代には、黒海沿岸にノヴォロシアを建設し、トルコを降してクリミアを併合。さらにポーランド分割に参画して、ユーラシアの植民地帝国を完成させた。

 ロシアは未開のアジアにたいする文明化の使命を果たす一方、頽廃したヨーロッパを救う、ないし吸収する、という植民地主義帝国主義の考え方は、19世紀から20世紀にかけて展開されたものであった。汎スラヴ主義とは、偽装されたロシア帝国主義にすぎない。のちのソ連すら、マルクス主義の毛皮を被った旧来の帝国にすぎなかった。これらの遺風がプーチン主義のうちに融合された結果を、ロシアのウクライナ戦争というかたちのなかに見ることができるのである──と、このようにフラヴァーチェクはまとめている。

 しかし、ソ連が崩壊してすでに30年が経過してなお、そうした考えが残っているのはなぜか──とインタヴューアーは畳み掛けた。

 ──ソ連は、形式上は共産主義と国際主義を信奉していたが、やがて仮面をかぶったロシア帝国に変貌した。つまり、1941年にスターリンヒトラーの同盟が決裂して独ソ戦が始まると、大ロシア的なショーヴィニスムがレトリックにもちだされ、ベラルーシウクライナを含む、ソ連領内のすべての民族はある程度までロシア化の対象とされた。のち1989年になって、衛星国とよばれた植民地が失われたことは、帝国主義的ロシアを志向するプーチンにとっては大いなる屈辱であった。バルト諸国やポーランドチェコスロヴァキアハンガリーなどは、帝国主義者にとってグベールニヤ、すなわちロシア国内の行政区にも等しかったのだから。

 けれども、ソ連崩壊後しばらくは国力が衰微しており、国の建て直しに専念するしかなかった。徐々に失地回復に着手しはじめたが、とりわけプーチンの政治家としての特質は、このパンデミックのあいだに研ぎ澄まされた。「孤独な暴君」となったプーチンにたいして、衷心から諫める者はクレムリンにはいなくなった──

 さらにフラヴァーチェクは、その仔細を明かす──連絡をとり合っているロシアの史家アンドレイ・ズボフによれば、孤立したプーチンは、コロナウイルスへの恐れに苦しみながらも、19世紀から20世紀にかけてのロシアの政治思想家のうち、もっとも陰鬱な論纂を耽読しすぎてしまった。

 安全保障アナリストらは、プーチンの大時代的な修辞を、陳腐な決まり文句のように捉えているかもしれないが、じつはそうではない。政治家としてのプーチンは、ソ連からだけではなく、おそらくロシアの帝国主義思想の伝統のすべてを一身に備えた人物と解されるべきである。プーチンとは、大政治家でもなければ、天才軍事戦略家でもなく、折衷主義的イデオローグなのである──と、フラヴァーチェクはいう。

 この文脈でいえば、開戦当初からあった「プーチンは正気を失ったのか」という議論にも、参考となる視角が出来している。

 はやい段階では、言動から推測されるプーチンの精神状態について、「狂気」か「狂気を装っている」かのいずれかと言われてきた。世界のさまざまな識者が種々の媒体で述べていることは、ご案内のとおり。

 ただ、プラハの安全保障政策の専門家、ヤン・ルドヴィークが侵攻直後に解説したところによれば、戦略研究の理論において「狂気は、発狂した振りをするだけであっても、有利」に働くとされている。かつて、ヴィエトナム介入に際してソ連の妨害を排すべく、米大統領リチャード・ニクソンが用いたのだという。

 くわえて、数日前からTwitter上で徐々に明らかにされてきた、連邦保安庁FSB)職員の手になるという真贋不明の手紙は、さらなる示唆を与えている。要は、内部告発状であるが、FSBの耳触りのよい報告書にもとづいて、侵攻が決定された旨の内情などが明かされている。

 誤った情報から次のようなシナリオが導き出された。すなわち、現ウクライナ政権の斬首作戦が電撃的に完了するか、もしくはウクライナ軍の組織的な抵抗が起こらず、それどころか侵攻したロシア軍が地元住民から熱狂的な歓迎を受けて、いずれにしても、すみやかに作戦が終了する──。

 だが結果は、毎日の報道のとおりの惨状である。つまり、おもわぬウクライナ側の徹底抗戦に遭い、激戦を予期していなかった軍の統制も崩壊し、甚大な損害がでている……。

 それかあらぬか、昨日から今朝がたにかけて伝えられたところでは、プーチン大統領FSB高官の粛清に乗り出した由である。

 つまるところ、プーチンは、誤った情報にもとづいて「合理的な」判断を下したということなのかもしれない。たとい発狂しているとしても。


4)ロシア=ウクライナ戦争とチェコ共和国

 では、そんなロシア帝国ウクライナ侵略戦争において、チェコ共和国の住民が見落としていることはないのだろうか、またこの戦争は我らにとってどのような意味があるのか──という気の利いた質問は、インタヴューの最後のほうに飛び出した。以下、フラヴァーチェクの回答を掻い摘んでみよう。

 ──残念ながら、見落とされていることは、ある。多くのチェコ人が、いまだにすべてのスラヴ民族の特別な親和性という妄想のうちに暮らしているが、これこそは危険な汎スラヴ的な戯言である。ウクライナ人が我われに近しいのは、スラヴ語を話すからではなく、ヨーロッパの物語と共通する部分を多く有し、ヨーロッパ人に、それも「西」のヨーロッパ人になりたがっているからなのだ。

 同じスラヴ語を話すからと言って、ロシア人は我われに近いという考え方はもうやめにしよう。立脚する物語が異なっている。我われは西、連中は東だ。ヤーン・コラール流のスラヴ世界の統一、その前に「全欧州」が、いつか跪くという発想は、怪物的ですらある。

 願わくば、このロシア帝国主義の残忍さの表れが、恥ずべき共産主義時代へのノスタルジーや無批判的な汎スラヴ的親露主義を本邦から消滅させることにも貢献してほしいものである。また、チェコスロヴァキアにおける共産主義全体主義の時代に関する歴史研究の根本的な文脈づけに最終的に寄与することを期待している。共産主義政権の近代化・解放とやらの現象をいくら執拗に掘り起こしても、わが国がソヴィエト=ロシア帝国の属州でもあったこと、しかも1968年から1991年までは占領されていたという事実を無視するわけにはいかないのだ──

 フラヴァーチェクは史家としては、いわゆる近代論の立場をとっている。というのも、民族については、つぎのように述べているからだ──「結局のところ、民族とは、地質学的な褶曲や神の何らかの行為によって生まれたものではなく、すべての民族は人工的なものであり、その創造はプロセスであり、ある共同体が民族であると決定することなのである」

 それなのに、同じインタヴューのなかで「我われはウクライナ人と同じ文明に何千年も属してきた」などと口を滑らしている。だが、これすら厳密に矛盾しているとは必ずしも断言できぬところに、この領域の難しさがある。

 

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